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【エッセイ】「自分で文章を書いたりしてないんですか?」

10月のおだやかな空気は、まるでそこに酸素さえ存在しないよう。
完璧な快適さのなかにいるときは、誰もそれが快適であることにも気づかない。
頭のかたちに窪んだまくら。白ワインを頼んだときに、大きな氷をくるくる回して冷やされたつめたいグラス。役目を終えた氷は人目につかないまま、ひっそりと捨てられる。ジャスミンの切り花の元で眠る、白い犬の不規則な呼吸。そういうものに似ている。

夏や冬という季節すら、存在していたかどうか思い出せない。
どうして人間はウールのコートなんか着るの?セーターや分厚い靴下なんか必要?そんなかさばるものを買い集めていた冬は遠い昔のこと。つい先月の夏の暑さも、今となっては全てがうそのよう。

この夏に起きたことを私はずっと忘れられなくて、あれから何度も思い出していた。
乾いた唇。二人とも乾いていた。短く切り揃えられた髪の下に、露出する首元の皮膚の張り。唇の裏側の湿った柔らかさ。唇で触れる髭の感触。反応を探る舌。二の腕を掴む彼の手。胸に触れそうな間があって、結局また私の二の腕にもどる。汗で濡れた私の服。腕を伸ばした先の彼の半袖の端。
付き合おう。うん。ねえ今どんな気持ちか知りたい。

私に起こった久しぶりの情動は、そのあと何も進まず終わってしまった。本当にそれ以上何も進まないまま、その後彼から連絡が来ることはなかった。口の中に入れてずっと味わっていたかったのに、最後まで飲み込むことができず、途中で取り上げられてしまった飴みたい。
私ひとりだけ中途半端に火を点けられて、この1か月間は気が狂いそうだった。Youtubeでゲイカップルの濃厚なキスシーンを検索しては、この行き場のない焦燥感に追い打ちをかける。若い二人の男性。ぴったりしたタンクトップからのぞく太い腕。加工アプリで赤く強調された唇、舌。諦めたように力の抜けていく視線。私は目を離すことができない。”that tongue”のコメント。わかるよ。

それでも、たった数日にしてすっかり季節が変わってしまったこんな秋の朝には、もう何かを思い出して心が乱されることはほとんどない。

朝。一人で迎える朝は、まるで世界から取り残されたよう。
私の仕事はほとんどが在宅で、おまけに最近は全く仕事に追われておらず、始業時間も厳密に決まっていない。30分くらい寝坊した。でも何もあせることはない。
こんなに穏やかな毎日にいると、人生であんなに苦労して手に入れたものも全てがなかったことみたい。
絶望ではない。これは凪(なぎ)。


前作のエッセイ『穏やかで優しくて賢い人たち』は、もし私が将来エッセイ本を出版するならそのまま掲載できるのではと思えるほどの渾身の出来だったけど、ほとんど反響がない。書き上げたとき、これはすごいものができたぞと意気込んで、句読点と助詞にいたるまでリズムが良くなるよう校正して、家でひとりで音読までしてチェックしたのに。ちなみに投稿直後、私は自分の文章を気に入って3時間かけて読み返し、出先の電車の中でも何度も読み返した。

でも、誰からも評価されないからといって、がっかりすることもない。
作ったものの反応が気になるような、それでいて3日かけて書いた文章が誰にも反応されなくてもまあいいかとも思える。承認欲求とは違う。私の中に湧き上がる泉。自分は面白いという確信。自分の世界の見方についての信頼。それらのすべてが、自分の作った文章を人に読んでもらいたいと思う抑えきれない衝動と両立している。
こんな気持ちは初めてだ。

何より私は自分の書いた文章が好きだ。世界の切り取り方。全部愛おしい。ことばも好き。私ならこんな人のことを好きになるだろう。かわいい。私に対するかわいいは、きっと見た目ではなく、この世界の切り取り方のことだ。

もういっそのこと漢字フルネームの名前をつけて、このブログを公表して回ろうか。私の経歴と顔写真もつけてチラシにし、選挙活動みたいに朝に駅を通りかかった人全員にばら撒いたって構わない。雨に濡れた駅の階段に捨てられたそのチラシを、出勤中の会社員たちが踏みつけて、ただでさえ水でふやけて柔らかくなった私の写真が、人ごみのなかでもろもろの紙くずになったとしても、特に心は痛まない。冷たくあしらわれることは何も問題ではない。だって私はこんなにも変わっている面白い人間で、それを止めることは誰にもできない。

いや、この気持ちは初めてではないかもしれない。
13歳くらいのとき、私は全く成績が良くなかったにもかかわらず、自分は賢いという絶対的な自信があった。それから勉強計画を毎日試行錯誤して、ほとんど独学で東大に行った。成績が上がるまで2年かかった。周りの人に賢いと認めてもらうまでは4年くらい。そのあいだも私にはずっと確信があり、それを信じるには何の根拠もいらなかった。そういうことを思い出した。

文章を書くことは自分にとても向いていた。今まで全く気付かなかったけど、よくよく考えたらできないはずがないのだ。こんなにも本を読み、書類の読み書きを生業にしている私が、ものを書けないはずがなかった。

私には人生のネタ帳と読んでいる紙のノートがあって、そこには仕事のモチベーションとか、人生にはお金がどのくらい必要か、何があれば満足できるのかとか、そういうことを半年に一回くらい考えて書いていたのだけど、久しぶりに開いたそのノートでは、2019年の私も今と同じようにコラムを書こうとしていた。書きたいテーマはそのときも今も全く何も変わっていなかった。
これから先も絶対に変わらないテーマ。私が文章を書く理由、書きたいこと。多分これは人類のテーマ、フェミニズム。
読んでほしい人はひとりだけ。25歳の昔の私。彼女を救うことができるならなんだってする。そんなことができるのも世界でたったひとり、私だけだ。

今は小説を書いてみたいなと思う。
そんなことができるのだろうか。
私は他人にほとんど関心がないので、人間観察もしてこなかった。自分の人生経験だって多くない。偏った本しか読まないから、文学も全然詳しくない。こんな私がストーリーテリングをし、架空の人間の叙情をでっちあげて書くことなんてできるだろうか。

でも、それならそれで、と思った。
それならそれで構わない。私はたった一人の人間、25歳の私に気に入ってもらえるだけでいいのだから。
今はただこの世界のルールを知りたい。理解すれば私はなんでもできるだろう。そして私はきっとそれを理解して闘うことになるだろう。私はそういう人間だ。
彼女なら私が書いたものを読んでくれると思う。それが評価されてほしいとも思うはずだ。彼女はそういう人だから。彼女と同じことを考えていて、それを世間に受け入れられる形で公表する人がいたら、きっとものすごく嫉妬するけど、でも彼女の考えが間違いじゃなかったんだと心から共感してくれるだろう。


「自分で文章を書いたりしてないんですか?」
最初に会ったとき、彼に言われた。
そのとき私は、いくつかの本について好きな文章を抜き出して覚えている、という話をしたはずだ。
彼の言葉には、特に深い意味はなかったと思う。本が好きで、言葉を自分の中に蓄積してる人って、だいたいそうだから、と彼は言った。
綿矢りさは特に日本語が完璧で美しい、私はそういうことを話したように思う。

学生時代は映画を作っていて、コンテストの決勝まで進んだと話していた彼は、きっと自分が創ったものを人にみてもらう楽しさを若いときから知っていたのだろう。
「自分が作ったものを人に見られるのは恥ずかしくない?」と私は聞いたけど、全然、と彼は答えた。
今ならその気持ちが少しわかる。それにもうあのときのことを恋しく苦しく思うだけではない。

「君の瞳も染め上げて」を美しいと言った彼。私と話を合わせようとして、読みかけの本を再び開き、「君の瞳を染め上げて」というフレーズを暗唱してきた彼。その表現が”美しかった”と言い、私はそのとき、”美しい”という言葉を使う人を照れずに口にする人を初めて見たと思った。

でも本当は、文章を愛し、”美しい”という言葉を最初に使ったのは、私の方だったのかもしれないな。そうであったらいいな。

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