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子ども大人のせい

おはようございます。

最近簡単に人を殺めてしまう事件の報道が多くてそれに慣れそうな自分が怖いです。気がついたのですが、私はそのような報道を聞く度、なぜ犯罪者はそういう行動を取ったのだろう、どういう家庭環境だったのだろうと犯罪心理を推測したり、想像したりする癖が出来ました。もしかしたら無意識に脳で論理的に思考することで自分の心を揺さぶられないように落ち着こうとしているのかもしれません。

人間を産んで育てて成人させたという一つの大きな仕事をしてみて、また教育関係の仕事に携わった経験から、やっぱり人の一生、幼少期の親子の関わりや周りの接し方というのは影響力が大きい、と思うのです。人の原点は結局そこなのでは、と。

加害者の言い分として、
自分にとってカッとなったから(腹が立ったから)
自分の気持ちを相手が受け止めてくれないから(相手が悪い)
他のみんなが成功しているのに自分だけ貧乏クジ引いた人生だから、、、、
全て自分が、自分が、と自分主体です。
自分の中に、自分と相手という二人を置くことができるのが大人だとすれば、  ずっと自分しか置くことができない、自分思考しかできない子どものままで体だけ大人になった人たちなのではないでしょうか。

子供だって小さいのにちゃんと相手の気持ちや、相手のことを存在させて思考できる子供はいるわけで、その意味で「子ども」、という定義はここでは自己愛の塊みたいなものとして捉えます。

自分の中に相手という存在がなければ、自分は相手によって満たされるべきだ、相手が悪い、という思考になります。自分の中に相手が存在しないのだから相手の気持ちになってみる、相手の立場になってみるということはできるわけがありません。相手は外にいて自分にとっては敵であったり、いい気分にさせてもらうためだったり、張り合って相手を蹴り倒すことで自分の存在意義を確かめたり、あくまで相手は自分を測るバロメーター。

そうすると、相手にチヤホヤされなければ不貞腐れ、相手にされなくなれば自分を傷つけたと憤慨し、その感情は脳からダイレクトに身体へ繋がり、攻撃になるのではないでしょうか。幼児が自分の思いが通らないと泣き喚き叩いたり、物を投げたり壊したりするのと同じ構造です。

もし、ちゃんと相手が自分の中に存在していたら、自分の心の中で対話できるはずです。相手の気持ちなど本当のところは100パーセントわかることは不可能ですが、もしかしたら嫌なのかな、機嫌悪かったかな、など相手には相手の都合と人生があるのだと鑑みることができる。英語の言葉に、相手の靴を履いてみる、とありますが、自分を客観視できるかどうかです。そうやってワンクッション置くことで短絡思考を回避でき、冷静に判断できることが大人の思考だと思っています。

自分の中に相手を存在させると自分の思いが必ずしも相手に伝わるものではないし、自分が悪かったのかもしれない、と思えることで相手や社会との平和は保たれる。

では、そのような人間にどう育てていけばいいのか、
それこそが教育の役割だと信じています。
そしてその責任は重大です。


日々是感謝  羊 

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