シン・エヴァは正しくシン・エヴァだったという話
今日シン・エヴァ二回目見てきたので、書いてもいいでしょう。
旧劇は徹底してコミュニケーション不全が描かれているのに対して、シン・エヴァは対話と救済の物語でした。
以下ネタバレになるのでご注意ください。
シン・エヴァにおける「あいさつ」
今作品では、執拗なほどあいさつをするシーンが出てきます。綾波が言葉の意味を教えてもらうシーンもそうですし、別れを告げる手紙もあいさつ、その他にも必要以上なほどあいさつするシーンが登場します。あいさつってコミュニケーションを開始します、っていう合図ですよね。
極めつけとしては、ラスト付近でシンジがアスカを助けるシーン。旧劇だとシンジがアスカの首を絞めて、アスカが「気持ち悪い」って言って(コミュニケーションを拒絶して)終わりでしたが、今回は同じレイアウトのシーンでシンジが「ありがとう、さようなら」といってました。
シン・エヴァでの名前の呼ばれ方
パイロット同士の呼び方ってかなり変わっていて、普段アスカは「コネメガネ」「バカシンジ」マリは「姫」「ワンコくん」という呼び方をしてます。あだ名にしてもちょっと突飛だし、なんか違和感あるなと思ってましたが、作中いい場面で本名で呼びかけるシーンがあり、これもコミュニケーションが成立した瞬間と言えるのかなと思います。
成長したシンジくんは「対話」を選択する
「破」ではキレて地団駄を踏んでいた、シン・エヴァでも冒頭では自分の中に閉じこもっていたシンジくん。今回はゲンドウと対峙し、「コミュニケーションを取りたい」と伝えます。これに対してゲンドウは内面を吐露した後、心象世界の電車から降りていきます。
実際に自分自身と向き合って正直に話をするのはキツいし大変なんだけど、そうする事で救われることもあるし、そうする事でしか理解できないこともある、ということですね。
旧劇も、本来こうなるはずではなかったのか
この項目は勝手な妄想なのですが、旧劇の最後って本当はこうなるべきものではなかったのでしょうか。そもそもはATフィールドやヤマアラシのジレンマのようなコミュニケーションを拒絶するところからスタートした物語ですから、コミュニケーションを取れるようになった、というのがあるべき落とし所のはず。
ただ、当時の庵野監督にはそこまで踏み込むことができなかったんじゃないかと思っています。作品自体が自分の子供でもありますし、シンジは自分の投影であり、ゲンドウは超えるべき宮崎駿であったり、真っ正直に掘り下げていくのは余りにもハードだったんでしょう。実際おおきなカブ(株)でも一時期うつになったような事が描かれてますし。
安野モヨコさんとの結婚やシン・ゴジラの経験が非常に良い方向に働き、語り切ることができた。
実写の取り込みや原画をそのまま写す手法、第四の壁を超えるような演出など、全く変えようとしたのであれば入れないであろう要素が結構色々あるんですよね。新劇場版の中でタイトルが今回だけ「シン」とついていてエヴァンゲリ「ヲ」ンじゃないのも、旧劇をあるべき姿にして語り直したという事かと。
最後に
ラストシーンはエヴァの存在しない世界(だからカヲルくんとかとは別のホームにいるし、話すこともない)で、マリと二人で駅を出ていく(心象世界で描かれていた電車にはもう乗ることはない)んですよね。
そして現実(に近い、が正しいかも。ちなみにチョーカーずっとつけてたの?とかはマクガフィンであり、かつもうエヴァに乗る必要はないことを示すアイテムなので、多分考察とかの必要はない)の世界に向けて走り出します。
本当に庵野監督はやりきってくれたと思います。
晴れやかな気持ちでエヴァンゲリオンにさようならを言うことができました。
今までありがとう!さようならエヴァンゲリオン!
(いや作品としてはこれからも好きですしまた見返すでしょうけど)
↑この記事もおもしろかったです
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