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く つ を か つ て く だ さ い

 先輩がなぜ僕を信頼してくれたのかは、よくわからない。こないだいつもと違う女の人の運転する車に乗ってたことを誰にも言わなかったからかも。先輩から、「君は何も見なかった」と言われたら、大抵の後輩はそうするものだと思う。何にせよ、先輩は異動にあたり、僕に大切な仕事を引き継いだ。「君にしか任せられない」と言った。ならば、精一杯やるまでだ。

 病院から、車で30分はかかっただろうか。私鉄電車の駅にほど近い丘の上、かなりゴミゴミした住宅街にイシイさんの家はあった。道幅が狭く、駐車場があたりになくて、最初はいつも車を停めるところに苦労した。そのうちに近くのパチンコ屋に停める知恵を身につけたが、そこからは長い坂を大きな荷物を抱えて登らなければならなかった。

 呼び鈴を押すと、いつも明るい奥さんが愛想良く出迎えてくれる。玄関から入ってすぐ、右手にあるのがイシイさんの部屋だ。イシイさん本人が迎えにきてくれたことはない。当たり前だ。寝たきりなのだから。イシイさんはベッドの上で人工呼吸器に繋がれ、その前には大きなパソコンのモニターが設置されていた。

 イシイさんは筋萎縮性側索硬化症という難病で、僕が先輩から託された仕事とは、彼を訪問診療することだった。

 筋萎縮性側索硬化症は、全身の運動神経がだんだん変性し、機能を失ってしまう病気だ。筋肉がどんどん痩せて、物を持ち上げたり、歩いたりすることが難しくなる。進行すると、物を飲み込んだり、話したりする時に使う筋肉も動かしづらくなり、食事や会話が困難になる。さらに進むと、呼吸筋の麻痺が起こってきて、人工呼吸器の助けを借りなければ生きていけない。全身の筋肉が麻痺していく中に、唯一の例外がある。目を動かす筋肉は、かなり末期まで障害されないのだ。現在に至るまで、多くの研究者が精力的に研究を続けているが未だ「これだ」という治療法はない。難病たる所以だ。

 イシイさんの麻痺はかなり進行していて、もう指一本動かせない状態だった。手足の皮膚はツルツルして、まるで蝋人形のような奇妙な光沢があった。顔面の筋肉も麻痺して、無表情だった。半開きの口から痩せた舌がのぞいていた。胃には流動食や薬剤を注入するためのチューブ、「胃瘻」が挿入されていたし、喉の部分には気管切開を受けていて、そこから人工呼吸に繋がれていた。人工呼吸器の規則的な加圧音に伴ってふくらむ胸郭の動きだけが、イシイさんの目に見える生命活動だった。

「ちょっと失礼しますね。」
 奥さんは手慣れた様子で喉の気管切開部に繋がれた人工呼吸器を外し、カニューラにカテーテルを挿入し、痰を吸引した。僕よりよほど手早い。躊躇なく流れるような一連の動作が彼女の介護生活の長さを表していた。

 僕のするべきことは四つ。気管切開のカニューラを交換すること、生命線である人工呼吸器の設定をチェックすること、イシイさんを診察して健康状態を把握すること、奥さんの話を聞いて、介護上の問題に対応すること。

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「こ、ん、に、ち、は」
 イシイさんが話しかけてくる。実際に声が聞こえてくるわけではない。唯一動かすことのできる目の筋肉、「まばたき」を使った会話だ。

 イシイさんの目の前に設置されたモニターには、ひらがなが並んでいる。50音表の上を、点滅するカーソルが、あ、か、さ、た、なと順に横に移動する。こんにちはの「こ」を打ちたい時には、そのカーソルが「か」行にきた時に一回「まばたき」をする。メガネに取付けられたセンサーがまばたきを感知すると、今度は同じカーソルが縦に動き出す。か、き、く、け、こ。「こ」にきた時にもう一回「まばたき」することで、ようやく「こんにちは」の「こ」が出力されるのだ。

 「こんにちは」と出力するだけで、1分近くがかかる。実にまどろっこしいコミュニケーションだが、イシイさんは僅かに外界と「まばたき」で繋がっていた。

 まばたきによる貴重な会話は、最低限業務上必要な事項のために費やされた。往診にはかなりの時間がかかったが、ほとんどが奥さんとの会話に費やされ、イシイさん自身の心情に入り込むことはできなかった。顔面の筋肉が動かないため、喜んでいるのか、辛いのか、それすら外見から窺い知ることが難しかった。

 筋萎縮性側索硬化症では通常認知機能は侵されない。言わば、「イシイさん」という知性は、動かない肉体の檻の中に閉じ込められているのだ。彼にとって、自分を表現する方法は僅かにまばたきを残すのみ。そのまばたきすらも、今後永遠に続けられると保証されたものではなかった。

 今、一体どういう心境なのだろう。今の状態に至るまでにどういう苦難、葛藤があったろう。それをどうやって乗り越えたのだろう。物理的に多くを語ることができないイシイさんの姿が、僕には巨大な哲人のように見えていた。「到底僕には乗り越えることのできない苦難と闘っている人」、その畏怖にも似た感情は、僕と彼の間に壁を作った。イシイさんの前では緊張し、思考は上滑りを続けた。体を触る時は丁寧というと聞こえがいいが、要するに恐る恐るのへっぴり腰だった。畏敬の念はあったけれど、そこに温かみのある交流は生まれなかった。

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 <イシイさんに寄り添えない。それが自分の役割なのか、ということさえわからない。>。往診のたびに重い荷物のほかに葛藤も抱えながら僕は坂を登り、それを解消できないまま同じ坂を降った。

 そんなある日、帰り際に奥さんが僕を呼び止めた。

「あの。これを主人が『先生に読んでほしい』、と。長くてごめんなさいね、お時間ある時によろしくお願いします。」

 茶封筒に入った分厚い紙の束だった。闘病記、というやつだろうか。どのような心情が綴られているのだろうか。これを読めばイシイさんの思いを理解できるのだろうか。僕はパチンコ店の駐車場でそれを取り出し、勢いこんで目を通した。黒々と隙間なくモニターから印字されたと思われる文字が並んでいる。「こんにちは」だけで1分近くかかるのだから、これだけの文章を打つのにどれくらいかかったかは想像すらできなかった。

「とらやの創業は京都である。」
 (何!?とらや!?)


 なんとそれは「グルメ探訪記」だった。「どこどこのまんじゅうがうまい」とか、「どこどこのラーメンは並ぶ価値がある」とか、びっしりとグルメレポートが綴られていた。イシイさんは以前営業の仕事をしており、あちこち出張しては食べ歩くのが趣味だったようだ。その頃の記憶を頼りに、とにかく美味しい食べ物の話がずっと並んでいた。特に甘いものの話に力点が置かれていた。これをくれたのは「美味しいから食べに行け」という意味なのだろうか?

 「巨大な哲人」であるかどうかはともかく、少なくともイシイさんは「食い意地のはったおじさん」だった。

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 イシイさんが「食いしん坊」であることをカミングアウトした日から、僕の中で何かが変わった。上から目線でも、下から目線でもない、イシイさんと正面から向き合える軸ができた、と言ってもいいかもしれない。もちろん、おいしい食べものを今のイシイさんは味わうことができない。だが、それを憐れむのは僕の仕事ではない。食べ物の事をあれだけ熱意を持ってありありと語れる生命力と豊富な想像力こそに目を向けるべきだった。

 暑い夏の日、大汗をかいている僕をベッドの上で僕を出迎えたイシイさんはいつになく赤い顔をしていた。すわ発熱か、と思ったが、体温には異常ない。

「今日は誕生日だったから、胃瘻からちょっとだけお酒を注入したんです。好きなもので、、。」
 奥さんが麦茶を差し出しながら、若干申し訳なさそうに言った。

「そうですか。聞かなかったことにしときます。ほどほどにお願いしますね。」
 僕はしかめ面をしてみせた後、往診セットを探り、京都の水飴、「冷やし飴」の瓶を取り出した。

「これを舌に少し垂らすと元気が出ますよ。あとでよく吸引してくださいね。お誕生日おめでとうございます。」

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 二週間に一回、三年間、外来のない土曜か日曜にイシイさんの元に通った。病院を代わる事が決まった時、何よりも気になったのは彼のことだった。信頼できる後輩に後を託し、お別れを告げると、奥さんが茶色の封筒を出してきた。「グルメ探訪記」の時より二回りは小さい茶封筒。

「これを主人がどうしても、と。」

「いや、申し訳ないですが受け取れません。」

 明らかに現金。その封筒をやんわりと押し返すと、奥さんは困ったようにイシイさんの方を見た。

「あなた、どうします?」

 イシイさんがまばたきする。一文字一文字がモニターに打ち出される。僕への別れの言葉だ。

「く」「つ」「を」「か」「つ」「て」「く」「だ」「さ」「い」

 奥さんが吹き出した。さては奥さんの入れ知恵か。イシイさんも少し笑っているように見えた。

 玄関のたたきでは、3年間一緒に坂を登り降りした靴が、拗ねたように僕を待っていた。

(了)

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