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うつろなことば

年が明けると年始の挨拶が交わされる。あけましておめでとう。今年もよろしく。あけおめことよろ。小さい頃はまだ少なからず届いていた、そして出していた年賀状も、いまではほんの僅かしか届かなくなってしまった。少し寂しい気がするが、これからはきっと年始の挨拶もデジタルが主流になるのだろう。というかもう半ばそうなっている。年賀状?ああ、なんか母親や父親が書いていた気がするアレね、なんて言う時代はもうすぐそこかもしれない。

そんな年始の挨拶では、今年はたびたび「2021年は、去年よりもっとみんなと会えますように」「また以前のようにみんなで集まれるといいですね」という文言を見かけた。アイドルは「今年はファンの皆さんと会ってライブがしたいです」と口々に言う。確かに、叶うならばコロナとかなにも気にせず、会いたい人と会って、食べて、話して、「コロナウイルスを気にしない」という意味で自由な行動をしたい。しかし現実を見れば、そんなことは夢のまた夢である。少なくとも今はそうだ。「○曜日最多」を繰り返す感染者数、医療現場の限界、再びの緊急事態宣言発出要請。そんな状況で口にする「もっとみんなと会えますように」という言葉は、とても虚しく感じられる。

バイト先の30代後半と思われる上司が「わたしはもうオバサンだから~」と言ってくることがある。少なくとも上司より若い僕からしたら、この言葉は凶器のようなもので、白旗をあげながら「イエイエ、マダオワカイデスヨ」と言うより他に仕方がない。この「イエイエ、マダオワカイデスヨ」という音声列は、実際にまだ若いと思っているか否かというこちらの判断とは無関係に、凶器を突きつけられた瞬間に反射的に声に出さなければならない。しかし「イエイエ、マダオワカイデスヨ」と言うことが逆効果となって攻撃を加速させ、「本当にそう思ってる?」とかいう回避不可能な銃を突きつけられて自分で自分の首を絞めてしまうことも大いにありうる。そんな時は自然な流れで違う会話に持ち込むほかに逃げる方法がなくなってしまう。凶器が「わたしはもうオバサンだから~」だった場合はまだ良いほうだ。その更に上に”一人称オバサン”という強力な凶器がある。「オバサンは機械に弱いのよね~」「オバサンはこんなに小さな文字読めないのよ~」こういう”一人称オバサン”の攻撃を仕掛けられたときは、ひとまず「オバサンであること」を否定した上で、機械に弱いこと、文字が読めないことについてフォローするという、二段階のフォローをしてあげなくてはならない。オバサンを否定する第一段階を忘れてしまうと、オバサンの波状攻撃が始まってこれまた自分の首を絞めてしまう。

あれ、なんの話だっけ。そうそう、「今年は、もっとみんなで」という願望をいま、口にすることは、現実がどうであるかに関わらず言わされてしまうという点で、「イエイエ、マダオワカイデスヨ」と言わされることに似ていると思うのである。と書いたはいいが、バイト先のオバサンの話は正直良い例えではなかったと思うので忘れてほしい。言いたいのは、2020年が2021年になるという、暦の上であらかじめ決められていた節目を迎えたことによって、現実に即しているかいないかに関わらず「今年は、もっとみんなと」という願いを語らされているような気がするということだ。そしてそうした願いを口にすることによって、現実をみたときの絶望が大きくなるのであって、自分で自分たちの首を絞めているのである。そうなるくらいだったら初めからそんな願いは口にしなければいいのに。

そして「今年は、もっとみんなで」と語っておきながら、毎日SNSに皆で出かけた写真をアップしていたり、インスタグラムのストーリーにドライブ中の車内の様子をアップしていたりする人は絶えない。「例年より人の少ない初詣」の映像に映るのはどう考えても「3密」を回避できていない神社の境内。「今年は、もっとみんなで」という願いを虚しく感じさせる現実を作っているのも我々自身なのだ。「今年は、もっとみんなで」と語るくらいの当事者意識があるのなら、それ相応の行動を取るべきではないか、と思ったり。最も、そんなこと言うなら松本から東京に帰省するなよ、と言われてしまうかもしれないが。

今や普通の日常生活の中にも危険と思われる場所がいくつもあるので、買い物とか、必要な通勤とか、生きていくために最低限必要な行動にもリスクを負わなければならない。完全に安全な場所、というものがない。だから、もしかしたら自分の行動が少しでも感染の拡大に影響を与えているかもしれないと思いながら、「これは生きていく上で必要なことだった」と、それを正当化することしかできない。そして自ら危険に身を投じて、もしかしたら自分が感染拡大に影響を与えているかもしれないと怯えながらにして、「早く終息しますように」と願うことしかできないのである。やはり人というのは矛盾を抱えた存在であり、無力だ。自分が関わる全方面に筋が通るように振る舞うのは不可能だと思う。しかし、必要以上に矛盾を抱えることもないし、必要以上に無力を自覚しても息苦しいだけだ。ウイルスの感染状況に対して終息を願いつつ、危険に身を投じながら目の前の日々を生きていくことしかできないのなら、これ以上抱えなくていい矛盾を抱えず、必要以上の無力を自覚しないために、僕は「今年は、もっとみんなで」という虚しい願いを口にしないことを選びたい。

いつか、本当にもっとみんなと集まれるようになった世界にいる自分たちへ。2021年のお正月は「今年は、もっとみんなと」という願いが、うつろなことばとして聞こえています。

結局、僕も見えていない未来に語りかけることしかできなかった。

新年1つめの記事から明るくないことを書いてしまった。それでも、今年も思ったことに対して素直に、できるだけそのまま文字にしていこうと思う。矛盾を抱えていて、無力な僕が書くnoteであるが、思ったことを素直に綴り、それを続けていけば、そこに生まれる矛盾も含めて、総体として僕という人間が浮かび上がるのかなあ、と思う。そんな、僕による僕のためのnoteですが、少しでも読んでくださる方がいて、共有してもらえるのはとても嬉しいことです。どうか今年もよろしくお願い致します。

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