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震災10年の日に

今日、2021年3月11日。東日本大震災からちょうど10年が経った。

今でも当時のことを思い出す時がある。小学5年生だった当時の僕は、震災前日の3月10日までインフルエンザにかかって学校を休んでいた。学校復帰初日の午後、理科の授業で実験をしている時だった。今までに経験したことのない揺れと、音。机の下に隠れて、同じクラスの女の子が「お母さん」と言いながら大声で泣いていたのがとても印象に残っている。

震災からしばらくの間は、東京にもどんよりとした重い空気が立ちこめていたように思う。次々に飛び込んでくる暗いニュースに、続く余震。震災の前、祖母が亡くなったときに感じた失望に似たものが、こんどは自分たち家族だけでなく街中に蔓延しているように思えた。小学生ながら閉塞感のようなものを感じて、息苦しく、生き苦しかった。

それから8年半ほどが経った2019年9月に、僕ははじめて東北の被災地を訪れた。それまでは、行ってなにもできないくらいなら行かないほうがいいのではないか、そう思って被災地訪問の決心がついていなかった。そうした逡巡の8年半も、ニュースを見たりして被災地に関心を寄せているつもりではいたが、それは第三者視点で、少し遠くで起きている出来事として捉えている節があった。しかし、実際に訪れてからは被災地の話題をより自分に関係のある話題として捉えるようになった。当事者意識の萌芽。震災について第三者と当事者を分けるとするならば、僕が第三者であることに変わりはないかもしれないが、第三者なりに当事者に寄り添いたいと思ったのだった。

震災10年を機に、被災地のことがテレビなどで多く取りあげられているが、10年という数字に意味を持たせすぎるのはあまり良くないとも感じる。3月11日のその日にこうして記事を書いている時点で、10年という年月を意識しているのは確かであるが、「10年だから」いま(だけ)関心を持つべきだ、というのは違う。

そして、10年を意識した特番など、報道の多くは「10年前を振り返る」ものだ。あの日、あの時を思い出そうよ。10年を機にそう呼びかけるのも勿論大切なことだけど、それより先に伝えるべきは「被災地の今」ではないかと思う。決して全てが完結した物語ではないことを、今まさに震災被害の当事者である人がいるということを、伝えるべきではないか。現状を知ることが、少しでも被災者に寄り添うための、悲しみを分かり合えなくても分かち合うための、第一歩になるのではないか。

10年経った今、被災地のことがニュースで大きく取りあげられることも減ってきている。流れ込んでくるニュースを待っているだけでは足りなくて、自分から関心をもって被災地の情報を受け取りにいかないと見逃してしまうような状況にあると感じている。10年の今日が、あの日を思い出すだけでなく、恒常的に被災地に思いを寄せるための契機になればいいと思う。

僕がこのようなことを言ってもいいのだろうか、被災地の方々はどう思うだろうか。被災地のことに言及するときは、いつも気にかかる。だけど、これが震災から10年が経った今、僕が思っていること。その記録として。

2021.3.11

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