多様性を認めるとは

 この動画を見たことある?

 ちょっと興味があってフルで見てみたのだが、これを一緒に見ていた末っ子のバクが、突然、めっちゃくちゃ真剣な目になって怒り出したのだ。

ちなみに、末っ子バクは、かなりイージーゴーイングなタイプ。人のことに干渉せずマイペースで、情緒が安定している方である。その彼が突然「こんな腹立たしいことなどない」とでも言いたげに、画面から目を反らして天を仰ぎ、イライラを私にぶつけた。

バク「ああああ、もうほんっとにキライ。おれ、だから日本人キライなんだよ。関係ないじゃん。この女の人には。こういうのが嫌なんだよね。」

さて、彼が憤りを隠せなかったシーンは、この女性が泣くシーンである。プロ奢さんじゃなくて、泣いた女性に対して腹立たしく思ったのだ。

バク曰く、この女性が典型的な日本人に見えたらしい。他人の生き方に平気で介入してご意見し、否定するのが日本人だと。

自分の価値観が唯一無二の絶対的に正しいものだと信じて、それを平気で他人におしつけてくるのが、まったくもって不愉快らしい。他人の人生なんだから自由じゃん、テメーに関係ないだろ、と思うのだ。

私は、日本の教育を受けて日本で育ってきたから、彼女の涙の理由はわからないでもない。彼女はちゃんと節目節目で努力して、それが正しいと信じているから、そうでない彼の生き方を認めると、自分を否定することになっちゃうから葛藤があるのだ。「それは人として正しい道ではない」と言いたいのだ。

日本は、実際は別として、単一民族国家であると思っている人が多数だ。だからある程度、同じような価値観を持っているという前提で話を進めがちだ。同じ教育を受けた者同士だから、学校の先生に教えてもらったようなことが、常識的なラインとして血肉になっている。だから目の前の日本人も、当然自分と同じように考えるはずだし、そうじゃないなら、その人はちゃんと学校に行って、教育を受けていなかったんじゃないかとすら思う。

が、海外にいると、国籍や宗教やビジュアルが違うだけではなく、育ってきた環境も違うので、そもそも同じ価値観ではないというところからスタートする。

豪州にいた時、イスラム教の友人が言った。

「すべてのイスラム教徒は、911をセレブレイトしたのよ。」

そばにいた豪州人が言った。「EveryとかAllという単語を使う場合は注意した方がいいよ。全員じゃないでしょ?」と。

それを横で聞いていた私は、身体がフリーズしてしまい、何も言えなかった。

それくらい、1つの事実に対しての認識も考え方も人によって異なる。それを表明したとしても、自分に実害がないならご意見などしないけど、誤解を与えるのは双方不幸だから、そこは正しておくというスタンスに見えた。どちらが正しいかというのは、所属集団によって異なる。そこを争っても仕方がない。自分に実害がないならば、特に。

ヘルパーさんを雇用する側、ヘルパーさん側、富める者、貧困にあえぐ人、宗教を持つ人持たない人、人間の煩悩を隠さない人も、教養の高い人も、色々いるリアルを日々見続けてきた側からすると、清潔な服を着てテレビに出て、大した金額でもない食事を奢ってもらう対価として、興味深い話を提供するという人なんて、単なる善良な一般人だ。極悪非道人でもなければ犯罪者でもない。怒りのあまりに涙ぐむほどの違いがあるわけじゃないにも関わらず、なぜ彼女は、

他人の生き方に、不愉快さを隠さないのか。

そしてそれがなぜ許されると思うのか。

それは、育ってくる過程で、大人たちがそうしてるからだよ。

平気で他人の家庭や振る舞いに一言言い、それを子供に聞かせ続けているから、自分もそういうことをしても良いと思っちゃうのよ。

自分は正しく生きてきている常識人だから、自分にとって関係のない人の生き方に対して、自分の尺度では許せないから「許せない」「キミは間違っている」と言っちゃったりするのよ。

言った本人は気持ちいいかもしれないし、自分の中のモヤモヤは少し晴れるかもしれない。

言われた方は、たまったもんじゃないよね。

None of your business!
は?貴方に何の関係が?

と、私なら思うので、別に傷ついたりしないけど、みんなが私みたいに鈍感なわけじゃない。傷つく人もいっぱいいて、生きるのがしんどいなって思う人もいっぱいいるの!

そんな小さな傷を他人にチラチラ与え続けて、楽しいのかなぁ。

豪州にいたときに思ったけど、

冬なのにノースリーブの人とか
裸足で歩いている人とか
バレエのチュチュ姿でスーパーに買い物に来ている女の子などがいて、

自由に振る舞えて、いいなぁって思ったよ。

多様性を認めるべきである

という命題があった時に、それを否定する人はあんまりいないと思う。

でも、多様性を認めるっていうことは、具体的にどういうことなのかしら。

目の前にいる人の考え方を十分に理解して、自分の中で納得して、それを「認める(同意する、受け入れる)こと」なのかな?

んなわけないがな。

自分と違う価値観の人がいても、自分に実害がない限りは、いちいち反応しないということだよ。そういう人がいるのね、で終わり。それはおかしいとか、あなたは私の尺度からすると正しい云々と評価することでもない。

豪州の例で言うと、裸足で歩いている人に、意見を問われたわけでもないのに、後ろから追いかけていって「裸足で歩くべきではない」と説教するようなことが、日本ではフツーに行われているような印象がある。

話を冒頭の動画に戻すと、思わず涙ぐんだ彼女は、本人は意識していないと思うが、結果的に多様性を認めてはいないように映る。自分の価値観と違う人を前にすると、「あなたは間違っている」と言いたくてたまらないのだ。

自分のやることに、他人は一々ジャッジすることもないし、干渉されることもないと思えば、もっと生きやすい社会になると思わない?

ところで、韓国人に言わせると「中国語を話す日本人」と評される台湾人だが、私から見ると、日本人と台湾人は全然違うよ。台湾の人は、気のおけない友人になればポンポンと言いたいことを言うが、基本的に他人には我関せずである。でも困っている人には、必ず助けようとするナイスな面もある。風通しが良い社会というのは、こういう社会を言うのかなと思う。





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