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たかが言葉、されど言葉:ウィトゲンシュタインに「出合う」

ガーゲンの「あなたへの社会構成主義」という本の読書体験について書きました。

今回はそれに関連するお話です。この本では、哲学者ウィトゲンシュタインの言語に関する論考が、たびたび参照されています。いつかウィトゲンシュタインの本を読んでみたいと思っていました。

ところが…。ウィトゲンシュタインの本が難解すぎて、ついていけず、何度も挫折してしまいました。わかりやすい入門者はないかなあと考えていて、はや数年の月日が経っていました。

中村昇著「ウィトゲンシュタイン、最初の一歩」との出合い

常に意識していたわけではないですが、たまにぼんやりとウィトゲンシュタインの考えを勉強したいと思っていました。

先日、新宿の都庁でコロナのワクチン接種を終えた帰り、ふらりと寄った紀伊国屋書店新宿本店の哲学コーナーの平台で見つけたのが、中村昇著「ウィトゲンシュタイン、最初の一歩」でした。

奥付を見ると、2021年9月5日発行とあるので、まだ出たばかりの本のようです。あとがきを読んでみると、著者である中村氏が高校生のころの自分に向けて書いた本のようです。そう思って、本書を手に取りました。

本書では、ウィトゲンシュタインの言葉を引きながら、平易な言葉で彼の考えが、彼の思考を後追いするように解説されています。専門的な哲学の教育を受けていないウィトゲンシュタインは彼の著作の中でも哲学「用語」を用いず、ものごとの本質に迫ったようですから、それにならったスタイルを採用したのかもしれません。

読後、読者である自分自身も哲学的な思考を追体験したような、良い気持ちにさせられます。

本書の中から、いくつか印象に残った言葉を紹介したいと思います。

哲学は言語批判である

ウィトゲンシュタインは言葉にこだわった哲学者のようです。哲学は言語批判であるとも指摘しているそうです。では、なぜ彼は言葉にこだわったのでしょうか。

なぜ、言葉にこだわったかというと、私たちの生活に言葉は、深く入り込んでいるからです。入り込んでいるだけならいいのですが、入りこんでいるために、わたしたちが、いろいろと勘違いをおかしてしまうのです。私たちの生活の一部であり、ものを考えるために必要な言葉が、私たちにときどき悪い影響を及ぼしている。それに気づかせようとしているのが、哲学だというわけです。
(P94)

言葉はそれ自体独立した世界を構成しており、必ずしも現実世界と対応しているわけではないとも言います。

たとえば、本やコーヒーカップという名詞の言葉は、実際にあるものを指すものです。そういう意味で、言葉と現実が対応しています。しかし、友情や愛と対応するものはあるでしょうか。友情らしいものや愛らしいものは存在するかもしれなせんが、こうした抽象度の高い言葉は実際に世界に存在するわけではありません。

名詞以外の歩くといった動詞や美しいという形容詞にしたって、ちっとも具体的ではありません。歩く人や美しい絵といったように名詞にすれば、ある程度特定されるかもしれませんが、「歩く」「美しい」という語が提示された場合、人によって思い浮かべるものは違うはずです。

しかしながら、言葉によって、それらはあたかも存在し、人々の間で共通認識がように見えます。それが、いろんな先入観をもたらしたり、人の間でに誤解をさせたりしてしまいます。

こう考えてみると、人同士の言葉でのやりとりは常にすれ違いをはらむ、非常に危ういやり取りのようにも思えてきます。

言葉の意味は使用によって決まる

言葉には、常に誤解を招く危険性があるようです。しかしながら、われわれの日常生活では、言葉をつかったやり取りは成立しているように思えます。こうしたやり取りは、どのように成立しているのでしょうか。

言葉の意味は使用なのです。ちゃんと使えれば、意味を理解しているということなのです。意味が、その言葉と別のところに存在しているのではなく、実際に使っている場面での、言葉の使用そのものだと言えるかもしれません。「意味」は、使っている場面とは別のところに(たとえば「辞書」のなかに、たとえばイデア的な世界に)、存在してはいないのです。言葉のやりとりが問題なく進行しているときに、その裏面にあるもの(もちろん、「もの」のように存在しているわけではありませんが)といった感じでしょうか。しかも、もちろん、それは、一語一語の裏面ではなく、文全体のやりとりのなかに見え隠れしていると言ったほうがよいかもしれません。
(P84)

言葉を使っている場面によって、その意味は定まると指摘しています。確かに、ほかの人と暑い部屋に入ったときに、相手から「暑いね」と言われて、「暑いですね」と答えたら、相手のメッセージは挨拶になります。
一方で、相手から「暑いね」と言われて、クーラーのスイッチをピッとつけたら、相手のメッセージは「クーラーをつけて」になります。このように言葉の意味は、相手との相互のやり取りや状況に応じて決まってくるということなのでしょう。

言葉やメッセージに常に正しい意味があるのではなく、人とのやり取りや状況に応じて、それは変わってくるという指摘は、わたしたちの普段のコミュニケーションにもう一つの見方を提供してくれるような気がします。

無責任な一般化

ほかの人が痛みを感じているときに、自分が痛みを感じた経験から思いを馳せて、その痛みに共感するという場合があります。しかしながら、ウィトゲンシュタインはこれを「無責任な一般化」と指摘しています。

他人の<痛み>は、私の<痛み>から、絶対的に遠いところにあります。私が知ることができるのは、私の<痛み>だけであり、どう頑張っても、他人の<痛み>には、たどりつきません。いってみれば、<私の痛み>と<他人の痛み>とは、まったく異なる名詞なのです。たまたま<痛み>という語が共通しているだけです。
(P137)

安易に人の辛そうな状況に共感してしまう自分としては、なかなか耳の痛い指摘ですが、もっともな主張です。本質的に他者の痛みを理解することはどうしたってできませんし、自分にとっての痛みと相手にとっての痛みが同一なものであると保証するものは何もありません。

そうであるはずなのに、自分の経験から、相手も同じことを経験していると思ってしまうのは、たしかに「無責任の一般化」と言えそうです。

まとめ

ウィトゲンシュタインの言葉に対する考察は、とても刺激的です。彼は無数の言葉のやりとりを「言語ゲーム」と呼びます。言葉がなにか真実を表しているということから離れて、もっとその機能面やコミュニケーションのやりとりに注目させるような面白い表現だと思います。こうした「軽さ」も大事なのかもしれません。

本書では、そのほかにもウィトゲンシュタインのたくさんの言葉が紹介されており、どれも深い洞察に満ちています。また、著者の中村市の解説は、まさしく哲学的思考を追体験させてくれるような導きをしてくれます。休日ゆっくり時間をかけて読んでみてはいかがでしょうか。

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