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さよなら2022年、と縄文とワタシ。

毎度のことではありますが、2022年も光速で過ぎ去っていきましたね〜。

C/NEも何とか2023年を迎えられそうです。皆様のおかげです。誠に感謝です。

まわりが続々「今年の振り返り」投稿をアップしているのをみて、慌てて、紅白を横目に観ながら、この文章を書き始めました。笑。どうかお許しください。

コロナの行動制限も落ち着いた4月以降は、それなりに文化会館も通常運転に戻り、個性爆発する料理人らのポップアップレストラン、大人の文化祭、名画の上映会、スポルカチョーネ、草カレー選手権、カタールW杯蹴球会館など、カバンにおもちゃを目一杯詰め込むことができてよかったです。

「みんなでつくる学大高架下」プロジェクトと連動して、様々な切り口で活動が外側へと滲み出していけたのも大変おもしろい経験でした。

振り返れば、気づきやマナビが豊作の年ではありましたが、やはり、個人的にインパクトがあったのは、どうしたって縄文、旅する料理人の三上奈緒ちゃんとはじめた「縄文倶楽部」ということになってしまいます。

集まったメンバーで、車座になり、日々のモヤモヤや社会への憤りなどを持ち寄り、縄文フィルターを通じて楽しくディスカッションするという、だいぶアグレッシブな対話型食事会で、計5回開催。

毎度、誰かが放ったなにげない問いから、話が拡張し、脱線し、補強され、思わぬ方向へと転回していくプロセスがエキサイティングで、ライブ感と中毒性があって、回を重ねるごとに参加希望者が雪だるま式に増えていったのも納得。

暮らすこと、住むこと、働くこと、人と出会うこと、食べること、祈ること、愛すること、死ぬこと。人間が古から変わらず続けてきた営みを根源的に問い直す作業は、個人的にも40年近く生きてきた中で凝り固まるように形成されてしまった価値観や自己像を改めて突き崩す、棚卸しのような時間に感じられて大変に貴重な機会でありました。

(「ちょっとスピってない?」と揶揄されたら、確かにほんのりスピってることは否めませんが、多少のスピはむしろ健全かと思っております。えっ、違うの??)

とりわけ、毎回俎上にあがる「所有」や「私有」に関する議論は縄文倶楽部の真骨頂で、令和現代の病巣に一直線につながるクリティカルな仮説が展開され、視界がぐっと広がりましたね。

何者かにならなきゃいけない症候群、SNSでの「いいね!」獲得合戦、コスパ消費、ひとり勝ちしたい欲求、スキルアップ信仰、メンタルヘルス、etc。

「自我をやわらかく手放すことで、もっと豊かになれるのでは」

参加者の誰かがつぶやいた一言が鮮明に脳に焼き付いており、個人的には今年の流行語大賞です。

あらゆることを自分に回収させようとして閉じた系で暮らすのではなく、もらったもの(出会い、経験、機会、知恵)をなるべく周囲に循環させて、その連環の中に自分の身を差し出すという開放的な価値観。

(最近観た映画だと「ノマドランド」が同じようなテーマを扱っていた気がする)

確かにそっちの方が結果的にみなハッピーになれる気がするし、もっぱら半径3kmのローカルな生態系の価値を強弁したがる自分にとっては信奉していたい世界像で、

そんな心持ちでこれからも路地裏文化会館を運営していけたらいいなと思えたのが、とてもよい発見でした。

話は少し逸れますが、学生時代にゼミの先生から言われた言葉で、いまでも覚えている印象的なフレーズがあって、それがさっきの縄文倶楽部や最近考えてることと妙にシンクロするようになったので、ちょっと余計なエピソードを紹介してもいいですか?

それは確か館長が大学4年の秋頃だったはず。

内発的な学びへの動機など1ミリも持ち合わせてなく、就職や社会からの要請上、致し方なく漠然と大学に進み、授業に出席した記憶がほとんどないゴミクズみたいな学生ではありましたが、周囲への体裁を取り繕うために一丁前に一応ゼミには所属しておりました。

しかも、その時なんとなく「中国」が流行っていたことだけを理由に、安直に中国現代政治のゼミを専攻するというみっともなさ。

案の定、ゼミ内ではダントツの落ちこぼれ学生ではありましたが、「中国とマクドナルド」をテーマに適当に見繕った卒論が(確か、当時映画館で観た「スーパーサイズミー」というマクドナルドを題材にしたドキュメンタリー映画から着想を得てハッタリをかました気がする)、なぜだかゼミの先生に刺さり、なんと次の年の入ゼミ試験の論文の課題として採用されることになり、なぜだか一番不真面目な自分が入ゼミ試験の準備を手伝うハメになりまして。

それで、募集要項を作成したり、説明会の段取りを組んだりしていたのですが、入ゼミ試験日の1ヶ月前ぐらいのタイミングだったか、先生が突然、論文の試験の問題(テーマ)を先に受験生に発表しちゃおうと提案してきたことがありまして。

いやいや待てと。それはイカンでしょと。

普通試験というのは、当日にテスト用紙が配られた時にはじめて問題が明かされ、そこから一斉に解答を考えるのが常だろうと。事前に問題を明かしてしまったら、誰かに代わりに解答を用意してもらうこともできるし、グーグルで検索してコピペもできる。まったくその人の能力を測れないし、フェアな試験にならないだろうと。

そんな感じで、先生に対して、慌てて異議を申し立てたのですが、それに対して先生が自分に言い放った言葉がだいぶ鮮烈だったのです。うる覚えではありますが、要約すると確かこんな感じ。

「ウエダくん。その人の能力やチカラといったものは、その人の内側に閉じて存在しているものではないんだよ。試験までの1ヶ月の間に、友人や恋人に相談するでもいいし、先輩を頼るでもいいし、親戚に聞くでもいいし、近所の居酒屋の常連にアドバイスを仰ぐでもいいし。イザという時に、その人がどれだけ頼れる他人を有しているのか、大学に限らずとも、これまでの人生でどれだけ多様な人間関係を構築してきたのか、そういうのを丸ごとその人のチカラとして僕は知りたいんだよね」

うむ。。

能力やチカラといえば、その人の内側に個別に独立したものとして存在していて、自明のこととして「誰にも頼らず自分一人で考えたり解決できる力」のことを指すものだと思い込んでいた当時の自分には、まったく理解できない考え方で、1ミリも腑に落ちなかったのを覚えております。

それが、あれから20年近く経った現在になってジワジワその言葉の含意が解り始めてきたのですから人間というのは不思議な生き物であります。

当事者研究の熊谷晋一郎先生のかの有名な言葉、「自立とは誰にも依存しないことではなくて、たくさんの依存先を増やすことだ」とも通底し合うエッセンスなのですが、

やわらかく自我を手放し、他者に委ね、他者との関係性の中で合気道のように自分を社会に作用させていくこと。

そんなスタンスの大切さをきっと先生は説いていたのだと思います。今聞かされていたなら「100いいね!」です。

やはり人生の諸先輩方のお言葉には耳を貸しておく価値があるものですね。

ダラダラとだいぶ長くなって、しかも、年の瀬ということもあってだいぶスピった内容に傾いちゃって、お恥ずかしいですが、

2023年もC/NEが学大周辺のローカルな関係性の網の目を広げ、引き続き、みなの拠り所を増やす媒介になれたらいいなと勝手に思っておりますので、ぜひぜひたくさん活用してあげてくださいませ。

だいぶ怪しいけど、興味を持った人は、縄文倶楽部も来てね。

来年も、どうぞよろしくお願い致します。

皆様、良いお年を。

館長より。


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