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運命に抗うなかれ 「偶然」に適応する力|【Letter 未来の日本へ】

生涯1万冊以上を読破した知の巨人・出口氏は昨年、脳卒中で言語機能に障害を負った。その苦難を経ても「何も変わることはない」と言う、〝大木〟のような彼の人生観。

文・河合香織(かわい・かおり)
ノンフィクション作家。
1974年生まれ。神戸市外国語大学外国語学部ロシア学科卒。東京大学大学院で修士号取得。2019年に『選べなかった命─出生前診断の誤診で生まれた子』(文藝春秋)で大宅壮一ノンフィクション賞、新潮ドキュメント賞を受賞。著書に、『分水嶺ドキュメント コロナ対策専門家会議』(岩波書店)など多数。


 「発病前、340日働く」

 言葉を発してそれが思った音と違う場合は、口の形を大きく何度も変えて、発話にあった形に調整し、一呼吸置いて胸に左手を当てる。それでも伝わらないと思ったのか、白いスケッチブックに、利き手ではない左手で文字をゆっくりと綴った後に、こう付け加えて笑顔を見せた。

 「でもサボりはあった」

 2021年1月、立命館アジア太平洋大学(APU)学長の出口治明は脳卒中で倒れた。右半身が麻痺し、そして一時的に言葉を失った。

 出口はライフネット生命を創業した経済人であり、1万冊以上の本を読破した知の巨人でもある。病気になる前は、大学のある大分県別府市と東京、さらに全国を飛び回り、年間340日働き、休みもほぼなかったという。けれど、忙しくて休む暇もなかったから病気になったのではないか、という因果を出口は拒む。

 「寝ることと食べることが好きだから、(当時から)よく寝たしよく食べた」

 その生活は今も変わらない。現在は生活サポート付き住宅に暮らすが、朝晩出される食事を残したことは一度もない。今年になって学長に復帰し、4月の入学式では電動車いすから祝辞を述べた。

 言葉を失った当初は「はい」「あーあー」という言葉しか出なかったが、現在は詰まったり、行きつ戻りつしながらも、文章として言葉を話すことができるまでに回復した。

 周囲の人たちは、その復活は奇跡的だという。では、普通では諦めてしまうような懸命なリハビリがあったのだろうか。そう問うと、出口は否定した。

 「やらなければいけないことはたくさんあったから、それをやってきただけ。リハビリもサボりながらやってきた」

 大病をして、障害を負ったことで人生観が変わったのではないかと幾度も聞かれた。出口はその都度、「何も変化はありません」と答えてきた。

 倒れた当初の1カ月間は、自分の身に何が起きたのかを理解するための時間だったという。だが、思考を巡らす日々においても、毎日食事をとり、眠ることができていたことに気がついた。

 「結局、人間は動物なんだと思いました。動物だから病気になって回復しなければ死ぬだけです。70歳を超えたら、あとは運次第。どうせ誰もが死ぬのです。それなら楽しまなければ損です」

 出口がこのような考えに至ったのは、……

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