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ディレクションワークの醍醐味

5年前、書籍『ディレクション思考』のタイトルに「思考」を込めた理由は、ある人の発言がキッカケだった。

「与えられた作業をこなす方がラクです」

仕事に「ラク」を求めるって点は理解できるものの、それが「与えられた作業をこなす」で叶うとは正直思えなかった。

これは意識の高低とかの話ではなく、単純に「与えられた作業をこなすって、あまり楽しさ感じなくない?」っていう価値観のすれ違い。そもそも「ラク」を定義する条件やエッセンスの違いかもしれない。

私の場合、「楽しい」が無い仕事は内容どうあれ「ラク」に感じない。
よって、与えられた作業を淡々とこなすより「与える作業を生み出す側」の方に楽しみがあると思ってしまう。

もちろん「与えられた作業をこなす」を否定するわけでも見下しているわけでもない。ただそこに喜びを感じられないという(どちらかと言うと自分のウイークポイントでもある)性質上の特性。その性質をプラスに働かすためには、受け身姿勢とは真逆の能動的姿勢で挑む必要がある。誰より率先して考え、誰より深いとこまで掘り下げる、つまりは「思考」が求められる。

「考える」という行為は、意外と労力がかかる。精度を上げるために状況をくまなく把握し、考察し、検証し、ゼロベースから想像力を働かせて向き合う必要がある。

そもそも、コンテンツづくりのプロジェクトでは、その責任者(承認者)がモノコトをジャッジする。その立場は「すべての判断をひとりで完結できるか?」と言えば、そんなことはない。所詮ヒトであるがゆえ、わからないことに迷い、わからない中で悩む。そんな状況下に求められるのが、先の能動的姿勢で「考えまくる人」。誰より考えまくる存在は、無視する対象ではなく、むしろ役立つ対象。

で、その状況下で「決めるべきを決まりやすく」するために尽力するディレクターであるならば、「決まったら作業指示ください」って待つんじゃなしに、決めようとする段階から身をのりだして参入し、率先して考え、行動してこそ価値を発揮できると思う。

「いや、そう言っても…うちの現場は最終ジャッジにディレクターが関与できない」であれば、それはもはや「期待されてない状態」の現れ。たぶん、それまでの振る舞いやパフォーマンスが招いてしまった悪しき状況だと思う。

ディレクターが能動的姿勢でその価値を発揮できる状況は、誰かが(自分に)都合よく用意してはくれない。けど、それは向き合い方ひとつで、積み重ねによって変化させられる。

時間はかかるかもだけど、それでもなお、そこに醍醐味を感じるのであれば挑んだ方がいい。それは冒頭の「ラク」にも通じるし「楽しい」にも直結する。

大変だけど、望むならヤルっきゃない。


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