「射殺」する 〜マリウポリと、テキサスと、「同志少女よ、敵を撃て」〜


Twitterで流れてきた、ジャーナリスト伊藤さんの取材。
なんとも虚しく、信じ難い。
これを今日読んで、最近のいろいろな「銃」を思い出した。


先日、「同志少女よ、敵を撃て」をようやく読んだ。
ようやく、というのは、巷で話題になってから日が経ったから使ったわけで、
実際読み始めると止まらないので、2、3日で読み終えてしまった。
そこに描かれる臨場感たるや、登場人物それぞれの個性や非常に繊細な情景、すべてまるで自分も現場で射撃を行い、また敵と対峙しているかのような感覚になる。

そして、読みながら問う、
自分もそんな状況になったら、そんな教育を受けたら、
人を撃ち殺すことが出来るのだろうか、と。

昔は思っていた、きっと誰かを思うような心がないから平気で殺せるのだと。
少し大人になって思っていた、きっと守るべきものがあれば、窮地に立ったら殺せるのだと。
実際にそんな場面に遭ったことはないが、ただ思っているよりもそういった多くの人間は、ほぼ自分と変わらない心を持っている人で、特別でもない人が、
これまで撃ち殺してきたし、撃ち殺すことができているんだろう。
どの時代に生まれて、どんな環境で育ち、何を選択したか、それが少しズレただけ。

ネタバレを含むかもしれないが、この作品に出てくる主人公セラフィマを含む誰もが、まさか銃を知った、習った時に、
自分がこれを使って「人」を殺めるのだなんて思わないだろう。
葛藤し憎み向き合うその感情に、知らない間に引き込まれる。
自分が銃を使い先に撃ち込まなければ、相手が使ってくる。
ただ指を動かすという動作で、瞬時に命を絶つことができる道具ーー。

そして、また、アメリカで銃乱射事件が起こる。
もう何年も前から、マイケルムーアなどが映画でもアメリカの銃社会の根底にある、マネーと国(政党)と銃の根本的な問題を指摘しているが、何も変わってない。
そして、きっと戦地でなくても思っているのだろう、
「自分が持っていなければ、相手が使ってくる」。
持っていることが心身の安全なのか?
そして、幼き命を奪った幼き犯人は、私たちとは違う心の持ち主か?犯人は、平気で人を殺せるのか?
銃を手に入れることができたのは、なぜ?

記事に戻る。毎日、続く地獄を見ている彼。
襲撃され、人が死に、心が休まる時はない。
何を信じ、誰を信じてゆけばいいのか。
そんな中で、敵だと思って撃ったその相手が敵ではないとわかったとき。
だけど、そうしなければ、自分と大事な人が殺されていたのかもしれないとき。
そんな場面に関わった人は、心も同時に殺されていく。

銃、は商品。消費され、誰かがその利益でまた生きている。
原発なども同じ。全く地球上から無くなればいいが、それは夢物語すぎて、それで明日を生きるひとがいる。

射殺する。そんな無意味で苦しくて、きっと忘れたくても忘れられない姿の変容を目の当たりにする行為は、
見たくもないし、見る必要がない。
そんなモノで平和で安全な社会が作られたこと、なかった。
でも、驚くほどの数の銃が世界に存在していて、
アメリカで、いま銃の購入ラッシュが起きてるって、これは笑うことじゃないんだ。
近くで事件が起きた、っていって、周りがSECOMつけたり、防犯ブザーを子供に持たせはじめて、
自分の家だけ何にもしないわけいかない、なんて感覚なのだろう。
そしてまた、共和党支持者も増えるんだろうな。

マウリポリの記事や、テキサスでの銃乱射や、本屋大賞「同志少女よ、敵を撃て」は、
命を銃に捧げろ、なんて、言ってない。
悲劇の裏で得しているヤツがいる、っていうこの世界にうんざりする、
6月の初め。

#銃乱射事件 #マリウポリ #ウクライナ #ロシア
#同志少女よ、敵を撃て  #本屋大賞 #平和

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