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旅の回顧録☆インドで盲目の少女が教えてくれたこと。

私の趣味の一つが独り旅なのですが、今はできないので思い出話をします。

前回のお話で少し触れましたが、20年以上前の春にインドを訪れました。死にまつわる囚われを自分なりのやり方で理解していった過程で、インドへの訪問はとても大きな体験でした。

私が訪れたカルカッタ(現在のコルカタ)にはマザーテレサの眠る墓があり、そこでは生きていくのが困難な人たちをケアする施設もあって、人種や宗教の区別などなくボランティアを受け入れていました。事前予約は不要で、朝8時に行くと甘くて温かいミルクチャイとビスケットを1枚もらえました。食べ終えるとボランティアは(私の当時の記憶なのですが)3つに分かれて、ケアを始めるようお願いがありました。

・NIRMAL HRIDAY(ニルマル・ヒリダイ)「死を待つ人の家」
・PREM DAN(プレム・ダーン)「身寄りの無い老人の家」
・SHISHU BHAVAN(シシュ・バハン)「孤児の家」

死を待つ人の家は、通称で「KALIGHAT(カリーガート)」と呼ばれていました。

私が選んだのはSHISHU BHAVANでしたが、そこにはポリオや視覚障害、栄養失調などのハンディキャップを持つ子どもたちも大勢、中には寝たきりの子どもらもいました。私は初めてだったため、比較的障害が軽い子どもを看るようお願いされました。

お手伝いの内容は、食事の介助、おむつ交換、遊び相手、といったことでした。とはいえ、子どもたちとは言葉が通じず、日本の保育園のようなおもちゃなどもありませんでしたし、ボランティアに比べ子どもたちの数が多くて、ほとんどがおむつ交換に追われた気がします。ところが使い捨ての紙おむつなどなく、全員が布おむつでした。

ふとポリオで寝たきりの子どもたちへ目をやると、彼らのほとんどは陰毛が生えていました。私は「いるのは子どもだけ」と聞いていたため、彼らの気持ちをおもんばかると、何ともやりきれない気持ちになりました。きっと見られたくなかったと思うのです。

母親のいない栄養失調の赤ちゃんたちも、十分なミルクも飲めていなかったのでしょう、排泄物はほとんどが少しの水分だけでした。

お昼ごはんのお世話もしました。私がごはんを食べさせてあげるのは、3歳くらいの盲目の少女でした。

出された食事はジャガイモの入った野菜カレーだったと記憶しています。少女はじっとしておられず、そのカレーをまったく食べようとしませんでした。他の子どもたちはボランティアから差し出されるスプーンをちゃんと口に含んでいたし、少女がお腹を空かせていないとは考えられなかったので、少女はジャガイモが嫌いなのかと考えながら、どうしたものか途方に暮れていました。

子どものお昼ごはんの時間としては、時間が短かったと思います。私はとても焦ってしまい、少女をわきの下から抱きかかえて椅子に戻すを何度も繰り返しました。しまいには、少女は私を蹴り始めたので、前方から抱きかかえて、私は少女が身動きを取れないようにしました。

そのときでした。

少女はこわばっていた身体をゆだね、頬を私の肩にこすりつけてきました。私は落ち着かせようと、少女の頭をしばらく撫でていました。すると驚いたことに、少女は私に向かって口を開けてきてくれたのです。

私は少女を抱きかかえたまま、急いでカレーをその小さな口に運び、全部食べてもらうことができました。それと同時に、私は頭の頂点にハンマーを振り下ろされたような激しい痛みを受けました。その痛みの理由も天から降ってきたように感じました。

私は自分のことしか考えていませんでした。無くなっていく時間とごはんを食べてくれない少女、何で食べてくれないんだろう、と。

少女は光さえ感じられないのです。どこまで行っても、真っ暗な闇の中を生きているのです。そんな中で、初めてやってきた知らない人、違う言語を話し、身体だってどうにおっていたのか、私は少女との信頼関係を築くこともせず、ただスプーンを口元に当て続けていたのです。

少女の立場になって考えれば、私だって目隠しされた状態で知らない人から口に当てられた食事にもしかしたら毒薬を混ぜられているかも知れず、簡単に食べるわけがないのです。

まず、私は少女と信頼関係を築く必要がありました。

マザー・テレサはたくさんの金言を残していますが、これはその中の一つです。後日知りました。

「あなたがたはやってあげたと思わないでください。してもらったのはあなたがたなのです」

もしかすると私の頭をハンマーで打ち叩いたのは、マザー・テレサだったのかも知れませんね。


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