その時、歴史は動かされた。
皆さん、こんにちは。歴史大好き、木賃ふくよし(芸名)です。
主に中国古代史、中でも史記、特に始皇帝から呂后までが大好きです。
さて。先日、ツイッターのタイムラインが源氏や平家で埋め尽くされて、
(´°Д°)」 何が起きたの?
となったワタクシですが、歴史モノが好きなワタクシからすれば、
(´°Д°)」 ワケわからん。
と言うのが本音です。
だってね? 「歴史モノ好きです!」って公言する人のほとんどは、
(´・Д・)」戦国時代か幕末なの。
マジで。9割が戦国と幕末って言っても過言ではない。そりゃ、飛鳥時代好きとかもいるけど、その大半が古墳好きだったりするし、平安時代好きとかもいるけど、だいたい和歌好きだったりする。
いや、古墳や和歌が歴史じゃないなんて言わないが、前者は考古学寄りだし、後者は古文好きの方が要素強めだと思うのよ。
それが悪いとかって意味じゃなく、歴史ってのはやっぱり政治劇や権力争い、そして内紛や外敵との戦争ですよ。ちなみにワタクシは割と激しい戦争より、陰湿な政治劇が好き。更には陰湿な政治劇から戦争に発展してしまう系が好き。
だから、平安だって鎌倉だって面白いと思うんですよ。なのに大河ドラマは大半が戦国か幕末だし、それ以外をやっても人気ないし。
中国の歴史もそうですよ。皆、「三国志好き〜!」とか言うけど、
( ´∀`;) 項羽と劉邦は
名前ぐらいしか知らない、、、
(´・Д・)」とか言われちゃうんですよ。
こう言うとアレだけど、鎌倉時代が脚光を浴びる日が来るなんて、正直、
(´°Д°)」 思いもしなかった。
(´・Д・)」 割とマジで。ガンダムで言えば、メインヒロインがミハルです!って言われるレベルですよ。え? なんか違う? いや、単にワタクシがミハル好きなだけなんですけど。
いやいや、こんな光景が見られるなんて、長生きはしてみるモンなのかも知れません。
まあ、要は「鎌倉殿の13人」ってドラマがヒットした事に起因するようですが、まあ、切っ掛けなんて何でもいい。それが面白いなら充分だし、それを切っ掛けに研究が進むのも良い事だ。
まあ、ワタクシは観たことないんですけどね、そのドラマ。ええ。大河なのね、うん。今、ググって知った。しかも三谷幸喜なのか。へー。
(´・Д・)」 で。
先日、電車に乗ってると、60代ぐらいの男女数名が、話をしていた。鎌倉時代に関する話だ。
察するに、「鎌倉殿の13人」に触発され、所縁の地へと観光に来た模様。今風に言えば「聖地巡礼」だろう。
こーゆー経済効果もあるから、やはり人知れず忘れ去られるよりは、注目される方がいい。
そんな事を考えていると、中では歴史的な知識の高そうな女性がこう言った。
「やっぱり、時代的に資料が少ないから、
いい加減な事は書けないらしいのよ」
(´・Д・)」 なるほど。
一理ある。歴史モノを扱う以上、素っ頓狂な事を書けば総スカンを食らう。確かにその通りだ。
しかし、ワタクシが敬愛する隆慶一郎先生は、
ロマンなくして
歴史小説を書く
意味があるのか?
と仰っておられて、正にその通りである、と感銘を受けた。
史実に忠実である事だけを求むるならば、書くべきは小説ではなく歴史書であり、論文であり、教科書である。
小説という架空の物語を書く以上、「本当はこうだったんじゃないか?」「こんな人物だったら面白い」「こんな裏話があって欲しい」と言うロマンが介在しなければ、書く意味がないのではないか。
しかし、隆慶一郎先生の作品を読む限り、破天荒な内容ではあるものの、素っ頓狂な事は書かれていない。
つまり、歴史に対する勉強量がハンパないのである。
例えば、天海僧正の正体が明智光秀だとする説があり、これを題材にした作品は隆慶一郎先生の作品にもある。てか、隆慶一郎ワールドでは天海は明智光秀だし、徳川家康は影武者だ。
史実から考えると、やはり少々無理があると言わざるを得ないが、可能性として「なくはない」点を上手に突いている。
コレがあまりにも荒唐無稽な設定だったら、歴史好きから鼻で笑われるだろう。
画期的な歴史漫画となった「へうげもの」も、かなり馬鹿馬鹿しい話がわんさか出てくるものの、周囲を固める物語が、恐ろしいまでの勉強量に支えられているのがわかる。
つまり、「常識を壊す」ために、途轍もなく「分厚い常識」を用意しているのだ。
わかるだろうか。薄っぺらい木の板1枚を叩き割って見せても「俺にも出来るんじゃね?」と思うだけである。
歴史作家の多くは、恐ろしいまでの勉強を経て、再構成し、どうやったら壊せるのかわからない「分厚い知識」をブッ叩く。だから面白いのだ。
コレはSFも同じで、荒唐無稽さに説得力がなければ陳腐な妄想と思われるだけである。圧倒的な化学や物理の知識の礎があってこそ、SFという「嘘」が面白くなるのだ。
ここで誤解しないで欲しいが、ワタクシは山田風太郎先生は大好物である。
この巨匠を捕まえて不勉強だなどと言うつもりは毛頭ない。そりゃもう圧倒的な知識量だったろう。
しかし、山田風太郎作品の奇想天外さ加減は天井知らずである。
コレが知識に支えられたものである事は言うまでもないが、識者が鼻で笑いかねないブッ飛んだ設定でも面白いのは、
(´・Д・)」 いや、もう史実なんて
どーでもいいんじゃねーの?
と思わせるぐらいエンターテイメントに突き抜けているからである。
なので、「資料がないからいい加減な事は書けない」も事実だし、「ないからこそ、作家の想像力で埋めるんだよ」も事実だし、「面白ければ、嘘でいい」もまた事実なのだ。
それに、ノンフィクションやドキュメンタリーでもあるまいし、どれだけ調べても、作家性に任せるしかない部分はなくならない。
歴史上の人物が「この時こう思った」なんてのは、想像でしかないのだ。
むしろ手持ちの資料が図書館並で知られた司馬遼太郎先生なんて、「この人物はこーゆー人物で、この時こんな事を考えたに違いない」を抜いてしまったら、面白味は半減するだろう。
まぁ、要するに、
史実ではない事を書くのと、
史実を間違えて書く事は違うのだ。
簡単な話、「信長は現代からタイムスリップして戦国時代に行った!」設定なのか、素で「信長は江戸時代の人」って書いちゃうかの差である。後者はそれこそ鼻で笑われる。
無論、書く側にも読む側にも好みはある。
想像9:史実1から
想像1:史実9まで
このバランス加減で受け付けない作品があるのは仕方のない事なのだ。
※ 想像が9を超えたら、もはや「歴史」小説とは言い難いし、史実が9を超えても歴史「小説」とは言い難い気がするので、それが悪いとか面白くないと言う意味ではなく、歴史小説のジャンルから外れる事とする。
ただ、歴史好きとして、そして歴史小説好きとして引っ掛かるのは、
フィクションが
有名になりすぎて、
史実があたかも
そうであったかのように
書き換えられるのは
勘弁してください。
(´・Д・)」 マジでちょくちょくあるし、何度も「え? マジで? この逸話ってフィクションなの?」って思わされた事がある。
「その時、歴史は動いた」のではなく、「その時、歴史は動かされた」のである。
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なお、この先には徳川家康についての話しか書かれてません。
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(´・Д・)」 文字を書いて生きていく事が、子供の頃からの夢でした。 コロナの影響で自分の店を失う事になり、妙な形で、今更になって文字を飯の種の足しにするとは思いませんでしたが、応援よろしくお願いします。