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「お礼がない!」


 皆さん、こんにちは。お札じゃないですよ。お礼です。木賃もくちんふくよし(芸名)です。
 あ。ふだも持ってませんが、おさつも持ってません。
 こーゆー時、日本語って厄介ですよね。|注《そそ》ぐとなら、意味的にどちらで読んでも問題ありませんが、|拙《まず》いとかつたなとか、意味が違っちゃうので。ええ。

 はい。そんな訳で、本日の話はふだでもさつでもなく、


 お礼。


 そうです。礼儀であり、感謝の表明でもある礼なのです。
 お礼の話になると、ワタクシは少々口ごもる。理由は、自分の中での二律が軋む音を出すからだ。いわゆる二律背反。フツーに言うとジレンマ。カッコよく言うと、


 (´°∀°)」 アンヴィバレンツ。


 何がジレンマかと言うと、ワタクシ、礼儀ってのが割と嫌いなんですよね。

 上っ面の人間関係以外では、ほとんど実害がないのに、アレしなきゃダメ。コレしちゃダメ。ってアレ。

 フランス料理を食べる時にフォークナイフの使い方を間違えたからって、誰かに迷惑を掛けるでしょうか?
 店の人間には少々迷惑を掛けるかも知れませんが、それ以上の実害はないはずです。
 それを「コイツはカトラリを使う順番も知らんのか」と人間を査定する基準にする。その人間性が逆に査定されてませんか? って思うんですよね。
 また、礼儀・マナーってヤツを「出来ているからプラス」とするならまだしも、「出来てないからマイナス」にしちゃうのが人間です。ホント無意味だな、と。
 無論、礼儀やマナーは生活習慣から実害を避けるためや、恩恵を被るためと言った列記とした理由がある場合もある。

 例えば、意味なんてなさそうな「畳の縁を踏むな」というモノにも、それなりの理由がある。

 1.畳の劣化を防ぐ。

 色んな物に共通するが、物質は端っこほど壊れやすい性質のものが多い。特に束ねたり、編んだり、結ったりした物は、端からほぐれてゆく。
 つまり、畳の保ちを良くするために、縁は踏まない方がいいと言うことである。


 2.上座・下座の境界線である。

 この上座・下座ってのが既に礼儀なのだが、要するに、身分が下の分際で上のエリアに入ってくんな。あるいは、身分が上の人間が、卑しいエリアに入っちゃうから気を付けろって境界線なのである。


 3.家紋が入っている。

 偉い人の家では、畳の縁に家紋が入れられていたりする。要するに、家紋を足蹴にするとは何事じゃい! って事であるが、ワタクシに言わせれば、

 (´°Д°)」 踏まれるトコに
 家紋を入れる方が悪いわ!



 4.暗殺を防ぐ。

 一般人は暗殺されないので、まぁ気にしなくてもいいのだが、時代劇であるように、床下からグサリ! 「曲者じゃ!」の、アレである。畳の縁を踏むと、音や漏れる光で正確な位置がバレてしまうというもの。
 うむ。畳の家紋に金を掛けるぐらいなら、床下に侵入されない防犯に金を掛けるべきだろう。

 ってか、時代劇における床下と天井からの暗殺って、成功率が低過ぎない?


 (´・Д・)」 おっと、話が逸れた。

 そんな訳で、縁を踏んじゃいけない理由を書き連ねたが、暗殺はされないし、家紋も入れてないし、上座とか面倒だし、畳は機械で作るようになって丈夫だし、金があれば新しい畳に入れ替えるだろうし。


 (´・Д・)」 現実問題、
 踏んでもいいんじゃね?

 

 別に礼儀を重んじるな、とは言わない。文化や伝統を蔑ろにしろとも思わない。他人に強制しなきゃ、本人が踏まないのも好きにすればいい。だが、日々「畳の縁を踏まないように、、、」と気にして生きるデメリットと比較した場合、どちらの方が快適に過ごせるだろうか。ワタクシは踏んでもいいと思う。

 無論、上座や縁を気にする人たちに嫌われず、好かれるというメリットはあるが、そーゆー人たちとの付き合いが多い人って、そんなにいるか?

 ちなみにワタクシは、礼儀って文化の成り立ちや起源を調べたりするのは大好きだし、可能な限り、自分では礼儀を守りたいと思う。
 だが、礼は尽くすモノで、尽くさせるものではない。他人に対して礼儀を求めるのは、それこそ、


 (´・Д・)」 一番の礼儀知らず


 ではないかと思う次第である。

 ただ、その一方で、礼儀やマナーと言うほどの大層なものではない「当たり前」や「常識」は守れ、とも思ってしまうのである。


 相手の方を向いて喋れ。
 飯は残さず食え。
 挨拶しなくても、返事ぐらいしろ。
 何かしてもらったら、礼ぐらい言え。


 こーゆーのである。

 コミュ障だから相手の目を見て喋れない、なんて人もいるだろうが、そーゆー問題じゃない。横向いて、うつむいて、そっぽ向いて話されると、声が通りにくいのである。
 当たり前だが、音は音波なので、向いてる方向に強く伝播する。相手の目を見なくてもいい。声が小さいのも仕方ない。せめて相手の方を向け。そう思う。

 飯は残さず食え。アレルギーだとか体調が悪い時にまで無理しろとは言わない。想定外に量が多かったなんて事もあるだろう。仕方ないに時まで食えとは思わないが、可能な限り、食事を粗末にはして欲しくない。

 挨拶ぐらいしろ。自分から挨拶しに行くとか、挨拶ごときのためにわざわざ労力を割けとは思わないが、挨拶されたら返すぐらいはしろ。

 礼ぐらい言え。いや、いちいち返礼がどうとか、そんな面倒な事は言いたくない。しかし、感謝の心は生きていく上で相当に重要だぞ。


 (´・Д・)」 こんな風に思ってしまう。


 この「当たり前だろ」と「礼儀」の境界線がわからないから、いつも心の中で軋轢が生まれる。
 これらを「当たり前」と思うのは自分だけかも知れない。その境界線を決めてるのは誰だ? その境界線はフラフラ動いてないか? 動かしてるのは自分自身じゃないか? そう思うのである。

 そんなワタクシではありますが、このところ、人にちょっとした贈り物をする機会が続いた。
 贈り物なんて言うほど大層なものでもないし、金額も最大で千円ぐらいだから、「ほんの気持ち程度」である。
 礼儀と言うか、まあ、こちらがお世話になった感謝の形だ。お世話になった礼を返す力も時間もないから、手っ取り早く「物」で済ませた訳である。
 ただこの時、ワタクシの贈り物に対し、相手からの、


 (´°Д°)」 お礼がなかったのである。


 それが数件続きましてね。ええ。
 最初の数件は、


 (´・Д・)」 なんだかなぁ…


 
 と思ったのだが、更に数件続いたお陰で、急に悟ったのである。


 礼に返礼を求めてる時点で、
 感謝の気持ちなんか関係ないよな。

 相手に礼儀を求めてる時点で、
 礼儀知らずに成り下がってるな。

 したいからした贈り物に
 見返りを求めてんじゃねえよ。


 
 自分にとっての当たり前を他人に求めるな。
 こっちを向いて喋ってくれないなら、こっちを向かせる方法を探ろう。
 食い切れない飯はワタクシが食ってやればいい。

 返って来ないのがイヤなら、
 挨拶も贈り物もしなきゃいい。


 それでもしたいと思ったなら、見返りなんて求めるな。と、50年近く生きて来て、ようやく思えた気がするのである。
 まあ、気がするだけで、挨拶が返ってこないとイラっとしてしまうのも仕方ないけどね。

 あと、自分がちゃんと返礼できてるかってーと、実に胸が痛い。
 このnoteにサポートがあった時はお礼のメッセージを返すようにしてたんだけど、母親の危篤の騒ぎあたりから全然返せてないし、、、。


 (´・Д・)」 記事をご購入いただいたり、サポートしていただいてる方には、深く感謝いたしております事を、ここに述べさせていただきます。

 ところで話を途中に戻すけど、床下と天井裏からの暗殺って、割と嘘だと思うんだよね。
 お城とか武家屋敷は知らんけど、普通の日本家屋の場合、


 人が潜んで
 武器を振るえるほど
 広くないのよね。


 ハリウッド映画の通気口ダクトから脱出/侵入とかもそうだけど、アレと同じ類かな、と。


 ※ この記事はすべて無料で読めますが、返礼など期待しない方は投げ銭(¥100)をお願いします。
 なお、この先にはワタクシのお礼的な何かが書かれています。


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(´・Д・)」 文字を書いて生きていく事が、子供の頃からの夢でした。 コロナの影響で自分の店を失う事になり、妙な形で、今更になって文字を飯の種の足しにするとは思いませんでしたが、応援よろしくお願いします。