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衆愚とは何か?


 お〜ろ〜か〜も〜の〜よ♪

 お〜
   ま
    え
     の
 (´°Д°)」 せいで流れた
 涙を受けやがれチクショウめが!


 皆さん、こんにちは。ワタクシ、実は「愚か者」ってーと、ショーケンよりもマッチよりも、

 (´°Д°)」 マタイの福音書が
 最初に出てくるんですよね!


 おろか者が 家を建て
 砂の上に 家を建て 雨が降ってきた
 雨が降って 水が湧き
 水が湧いて 川となり その家は倒れた

 かしこい人が 家を建て
 岩の上に 家を建て 雨が降ってきた
 雨が降って 水が湧き
 水が湧いて 川となり その家は大丈夫

 と言う歌にもなってるマタイの福音書の一節です。どうにも、歌詞から賢さが伝わってきませんね。

 あ。申し遅れました。ワタクシ、キリシタンではありません。木賃もくちんふくよし(芸名)です。

 さて。昨日は職場で、とんでもないぐらい「ありえない」事件が連発して、ワタクシ、そりゃもう「ありえん」ぐらい疲れまして。ええ。
 しかも、この「ありえねーだろ」って事件を最初から最後まで語ると、

 このnoteの記事で
 少なくとも3日分は
 必要になるぐらい
 ぶっちゃけありえない。


 そんな事態に出くわしまして、正直、なんでこんなに、

 (´°Д°)」 バカばっかりなの?


 って半ギレ状態なんですよ。ええ。
 なので、本日の出来事を書いて溜飲を下げたい気持ちもあるのですが、それを書くにはワタクシはまだ感情が冷めやらぬ状態なので、本日はクールダウン期間として、

 (´・Д・)」 なんでこの世の中は
 救いがたいバカばっかりなのか。


 という命題についてお話したいと思います。
 まず、正直に言うと、この話は以前に書いた事がある。そう。このnote記事のアーカイブの何処かに、ほぼ同じ話が書かれているのだ。しかし、人は愚かなので、そこに叡智が詰められた書庫があるとしても、必要な時に読めばいい、と書物には手を付けないのである。

 温故知新という言葉があるにも関わらず、人は過去から学ぼうとしない。


 ワタクシは古代中国史が好きなのだが、人類にとって、人間にとって、社会にとって必要な事の6割ぐらいは「史記」に書かれていると思う。

 しかし、残念な事に人は愚かなので、2000年以上経過した今も、同じことを繰り返すばかりなのである。


 まず、史記を読まない。
 読んでも内容がわからない。
 わかっても正しく理解しない。
 正しく理解しても、実践できない。
 実践していても、慢心して堕落する。


 (´・Д・)」 だって、
 愚かなんだもの。


 さて。皆さんの周囲にいる人間を10人思い浮かべて欲しい。まあ、家族や親族、友人、同僚と、どんな基準で思い浮かべたかはわからないが、その中に、

 (´・Д・)」 救いようのない
 バカは何人いただろうか?


 救いようのないバカって表現で、憎めない愛すべきバカとか、勉強は出来るけどバカとか、学歴はバカでもバカじゃないとか、そーゆー人は除外して欲しい。
 無論、アイツの事は嫌いだから「バーカ!」って言いたいけど、バカではない人も除外する。

 さて。どれぐらいの人が救いようのないバカだったか。
 ワタクシの体感では、せいぜい10人に1人ぐらいである。

 ただ、不思議なことに、10人の中には1人しかいないはずの馬鹿は、思い浮かべる人を

 (´・Д・)」 100人に増やしたら
 なんでか20人いるんだよな。


 (´・Д・)」 1000人集めたら
 300人に増えてやがるんだよな。


 (´・Д・)」 10000人で
 4000人に増えていくし、


 (´・Д・)」 10万人で
 半数が馬鹿になる。


 (´・Д・)」100万人で
 とうとう馬鹿が過半数となり、


 1000万人で70%、1億で80%、10億で90%、100億で100%が馬鹿になるのだ。まあ、現在の人類は80億人だそうですから、人類ってのは総じて愚かである、と言うのがワタクシの考えだ。

 三人寄れば文殊の知恵などと申しますが、少ない方が馬鹿を交える可能性が減るので、実に正しい。しかし、何らかの理由で人が集まらねばならぬ時は、頭数を揃える必要があるため、それが馬鹿であろうと交えざるを得ないのである。
 まして、人が自動的に集まっている状態は、自動的に馬鹿も混ざってる訳だから仕方ない。

 しかしそれでは、馬鹿の割合が増える理由にはならない。
 では何故、人は集まるほどに愚かになるのか?

 理由はいくつもある。
 個人個人としっかり向き合えば、馬鹿なんてそんなにいない。
 だが、集団になると賢さが損なわれる。
 1つ目の理由は「求められる賢さのベクトルが違うから」だ。

 わかりやすく説明するが、気合い! 努力! 根性! だけの筋肉バカ集団に、スポーツ力学や効率の良い練習、適切な休養を唱える人間が入っても、

 (´°皿°)」 理屈で
 勝負に勝てるようなら
 こんなに苦労せんわ!


 と一蹴されて終わりである。そして、集団という存在は成果で判断されがち。つまり、脳筋が実権を握ってたら、結果を残すのは良いも悪いも脳筋だけなのである。おわかりだろうか。脳筋なやり方では勝てない! と唱えたところで、敵も脳筋である。どっちが勝とうと、成果を残すのは脳筋。
 それを外部から見れば、脳筋バカ集団が生まれる訳だ。

 これは極端な例だが、Aのやり方はBの観点から見れば愚かだし、Bの方法もCから見れば愚かだったり、Cのやり方もAから見れば愚かだったりするので、賢いやり方が絶対的ではない。

 また、集団は成果で判断されやすいので、集団の中に、ド級のアホがいて、そいつがやらかすと集団全体がアホに見えてしまうのである。これが第2の理由。

 そして、第3の理由は、

 (´°Д°)」 馬鹿は目立つし、
 声が大きいのである。


 これは、とある幼稚園だか保育園で起きた事件なのだが、授業(?)が終わった後、保護者が迎えに来るまで、運動場(?)の遊具で園児たちは自由に遊んでいた。

 しかし、この遊具で園児が怪我してしまったのである。

 その親がいわゆるモンスター・ペアレントで、


 (´°皿°)」 監督者がいないのに
 遊具で遊ばせるのは危険です!


 と言い出したのである。
 まあ、言ってる事自体は別に間違いでも何でもないが、解決策は概ね2つ。

 ・職員から監督者を出す。
 ・保護者から監督者を出す。


 このどちらかである。だが、職員が時間外まで勤務すると言う事は、要するに超過勤務させるか、人員を補強するしかない。それは即ち保育費が上がると言う事である。
 これを上げるには保護者全員の同意が必要。つまり、無理。

 では、保護者から当番制で監督者を出すかと言われると、誰もそんな面倒は見たくないし、物理的に見られないし、万一の事故があった時に、その責任を負わされたくはない。なので、これも無理。

 じゃ、これまで通りでいいじゃない、とはならない。何故なら、賢人は声を荒げない。争いを避ける。面倒は回避するのだ。だって、アホな人と争うだけ無駄なんだもの。

 てな訳で、全員が消極的に納得する解決策はただひとつ。

 (´°Д°)」 時間外は
 遊具の使用を禁ずる。


 という、誰も喜ばない結果になったのである。特に園児。そして多分、モンスター・ペアレント自身も喜んではいない。
 園としては善意で開放していた遊具が、使用禁止になり、園児たちは遊び場をなくし、ただぼんやりと親の迎えを待つだけになったのである。
 アホな話だ。利口ぶって監督者が必要とか言わなければ、特に問題はなかったし、「それは無茶でしょ」と誰かが突っぱねれば問題なかったはずなのに。
 つまり、賢人が利口に沈黙したから、アホな結果になったのである。

 だって、冷静に考えなよ。

 公園の遊具には監督者なんかいないけど、問題ないんだから。


 無論、監督者はいた方がいい。何なら、監督者がいて当然の未来を目指すべきである。その点ではこのモンスター・ペアレントが提起した問題は間違いではない。

 しかし、その問題を解決するだけの素地がないのに、解決を強く求めると、全員の負担が増えるだけなのである。

 世の中は、そんな問題で溢れているのだ。

 早急に解決しなければならない問題。

 中期的に解決を計画しなければならない問題。

 長期的に改善を目指さなければならない問題。

 超長期的に意識から改革していかなければならない問題。

 そして、とりあえず、継ぎ接ぎでもなんでもいいから、今さえ凌ぎきれば、中・長期的に持ち越せる問題もある。

 それを外部から、問題を見つけた、提起してやったといい気になって、足を引っ張る。


 ここで今、

 (´・Д・)」 あー、わかる。
 いるよね、そーゆー馬鹿。
 〇〇とか〇〇に多いわ。


 なんて思った方は、その馬鹿に足を突っ込んでる可能性が高いので注意していただきたい。

 自分も、他から見たらそう思われているし、残念ながら、その指摘が間違ってない可能性も充分にあるのだ。わかりやすく例に出すなら、

 (´・Д・)」 政治批判とか、
 勤め先の会社批判である。


 批判するなって意味じゃない。その批判は正しいかも知れない。でも、間違ってるかも知れない。前述のように、批判者としては正しくても、実際に、懸命に働いている為政者としては大間違いかも知れないのだから。

 だって、政治家でも政治の専門家でもないし、実際、大した知識は持ってないでしょ?

 会社批判もそう。上司の立場にも立ってないし、まして経営者でもない。

 これが、衆愚の正体なのである。
 衆愚というと、衆愚政治を連想する人は多いが、実のところ「衆愚」と「衆愚政治」は反対の意味になってしまう。
 本来の衆愚政治は、愚かな人間に権力が付与されてしまっている政治体制を意味する。
 言葉の成り立ちが、富も学もない民衆が民主主義によって暗君を選ぶと国は悲惨な事になってしまう、という事なので反対とも言えないのだが、要するに衆愚政治とは「失敗した民主主義」である。

 一方の衆愚は、単に愚か者の集まりなのだ。
 我々は、常に愚か者なのである。


 そして我々は、自分たちが常に誰かにとっての愚者であることを自覚し続けねばならないのである。




 (´°Д°)」 ここまで書いて
 平静さを取り戻さなきゃ
 ならないぐらいの事態が
 発生してたんですよね。


 (´・Д・)」 よし、少しは落ち着いた。事件のことを書くべきかどうかを考える。

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 この先には、起きた事件が最短の文字数で書かれています。


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(´・Д・)」 文字を書いて生きていく事が、子供の頃からの夢でした。 コロナの影響で自分の店を失う事になり、妙な形で、今更になって文字を飯の種の足しにするとは思いませんでしたが、応援よろしくお願いします。