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自分が自分を監視するということ──規律、権力、犯罪者

絶対に轢かれないのに信号を守る必要があるのか?

僕は信号を無視しない。それを「当たり前」のことだと思っている。夜、見通しの良い交差点で絶対に車が来る可能性がないとしても、律儀に突っ立って待っている。

だからこそ子どものころ東京に行って驚いた。というのも、多くの人が「当たり前」に信号を守らないという出来事を目にしたからである。

合理的に(小賢しく)考えれば、信号機が設置してあるのは歩行者からしてみれば自分の身体が害されないためであり、だから車が全く来ないのであれば信号機に守ってもらう必要はなく信号を無視し渡ってしまってよいということになる。

誰も損する者がいないのだから無視しても構わない――理屈上では、たしかにそうなのだ。けれども、僕にとっては信号を無視し道路を渡ることは、単に赤信号の際に道路を横断することにとどまらず、「何か重大な事柄」を無視し「横断する」ことを意味するように思われるのである。

僕にとって信号無視は、自分自身の「良心」による制約を跳び越えることを意味するのである。

僕が直面するのは、「良心」、あるいは「内面の規律」とも呼ぶべきものである。つまり、「そうしてはならない」という自己自身の声によって、僕はある種の行為をためらうのである

僕は「信号は守らなきゃダメだよ」という(幼少期に周囲にいた)大人の「声」を、いつの間にか自分自身の中で、自分に対して発するようになったのだろう。

本記事では、良心としてあらわれる「内面化された規律」を手がかりとして、「権力」を主題として取り上げる。ミシェル・フーコー(1926-1984)の議論をもとに、私の内面に権力が浸透してしまっているという事態を表立たせよう。

(交通ルール順守に関しての地域差?については、場所ごとで「みんな」が守っているから自分も守ろう、あるいは「みんな」が守っていないから自分も守らないということを選択しているのに違いにないでしょう。僕は自分の体験談を語ることを通して、信号無視をしてはならないというルールが自分に「染みついて」いたことを東京観光で自覚したのだということを伝えたかったのです。

僕は信号無視を例に挙げましたが、みなさんはどのようなときに「良心の声」が鳴り響くでしょうか?)


権力は「内側から」作用している

権力と聞くと、暴力組織を統括する偉い人が、自らの望みを実現するために諸々の障害を「力づく」で突破するようなイメージが想起される。

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けれどもフーコーによれば、現在の国家システムにおいて、あからさまな暴力は(基本的には)行使されないのである。では、権力は普段どのように私たちに作用しているのか?

権力は、「監視」という形で行使されている。

――監視? 「監視」といえば、監視カメラだろう。常に監視されるのは嫌な気がするけれども、痛みを伴う暴力を課されるよりは、また冤罪に巻き込まれるよりは、監視されるほうがマシではないかと思うから多くの人は監視カメラの存在を受け入れているだろう(僕もそう)。安全に暮らせるなら、監視カメラが街中で稼働していようとも構わないというわけである。僕たちは「監視」されていることに慣れてしまっている。

(さらに言えば、インターネットでユーザーの動きがトレースされていることも「監視」だろう。ユーザーとしてはサービスがパーソナライズされて利便性が増しているけれども、データが集積されているという事実はやはりどこか不気味である。)

実は、フーコーの「監視」は外在的な記録装置による監視のみを意味しない。というのも、間断なく行われている「監視」は、「自己による監視」だからである。

権力が個人ひとりひとりの肌にまで到達し、その身体を捕らえ、彼らの所作や態度やものの言い方、さらに学習や日常生活といったものの内に浸透してゆくレベルで考えるんです。(フーコー、2006年、190頁)

フーコーによれば、僕たちは自らを監視するように訓練されている。つまり、監視されているという意識が内面化され、日常生活にまで浸透し、ついには不断に自らを監視するようになってしまったということである。

人は、内面から自らを律する主体(サブジェクト)になったと同時に、近代的な支配システムに服従(サブジェクト)することにもなったのである(山本、2010年、109頁)。

監獄、軍隊、工場、学校、病院——これらの場所で、僕たちは自らを律するように訓練されているのだ。(学校や会社のルールを守るのが「当たり前」だと信じて疑わない「善良」な人たちたくさんいますよね😊)

自らを律することは、自己の生命・身体を気遣うことに繋がるだろう。フーコーは、ここにも「権力」があると考える(山本、2010年、110-111頁)。というのも、「生権力(バイオパワー)」という新たな権力は、社会ないし国家が(あたかも生き物のように)存続し続けるために社会の構成員を殺すのではなく、構成員を「よりよく生かさなければならない」からである。そのために、人間の最も私秘的な領域である「性」「生殖行為」に介入すると同時に人口というマクロな単位で人間を統計的に把握することによって、人間を管理的な配慮のもとに置くことが試みられているのである(生政治、バイオポリティクス)。

現代の権力は、人々に「死を与える」のではなく、「生を与える権力(生権力)」と言わなければならない。


犯罪者は社会の「役に立つ」

国家による暴力のひとつに、「罪人」に対する「刑罰」がある。フーコーは、犯罪者を矯正する施設としての「監獄」の分析と、監獄の誕生に伴う「犯罪者」に対するイメージと役割の変化を指摘する。

フーコーは、犯罪者集団は経済的にも政治的にも有益だから「役に立つ」し、現行の社会にはなくてはならない存在だと述べる(なんておそろしい分析なんでしょうか!すごく世の中の闇を見ている気がします!)。

経済的に有益なのは、労働者は道徳的だけど犯罪者は悪という区別を設けることによって労働者に厳格な道徳を身につけさせることができるからである(フーコー、2006年、194頁)。工業社会において、富はその所有者の手元にあるわけではなく、実際にそれを活用して利潤を引き出してくれる者の手に直接委ねられていたために、労働者が「品行方正」であることが求められたのである。

政治にとって有益なのは、僕たち一般人が警察の存在を認めることができるからである。というのも、もし「犯罪者」がいないのなら、「警察」という抑圧的な存在を許容する根拠などないのである。

我々には武器が持てないのに、そこに武器を持った制服姿の奴等がいて、身分証の提示を求めたり、玄関先をうろついたりしてもいいなんて、もし犯罪者が存在しなかったらいったい誰が認めるっていうんですか? それに、犯罪者がいかに多くていかに危険かを毎日のように書き立てる新聞記事がなかったらね。(フーコー、2006年、203頁)

(僕はお巡りさん👮🏻‍♂️好きですよ)

フーコーは、社会や権力にとって犯罪者がなくてはならない存在として組み込まれていることを見て取ったのである。


とはいえ、権力から逃れることはできない

フーコーの言葉を頼りに、内面の規律や現代の権力のあり方についてみてきた。読者の方々は、「権力」に対してどのようなイメージの変容があっただろうか。

フーコーの指摘によって、今まで見えていなかった「権力関係」が見えるようになったかもしれない。

ここで重要なのは、「権力」というものは一部の権力者が汚い欲望をもとに行使するといったものではなくて、僕たち各人がそれなしでは生きることができないものだということを認識することである。至る所に存在する「権力」は不可避的なものであるけれども、問いなおすことができるもの、変容させうるものなのである


参考文献

山本祥弘ほか『本当にわかる社会学』

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最後までお読みいただきありがとうございました。ひさしぶりのnoteなので、少し書くの苦労しました笑

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