何か思い悩んでいる人の話を聞くと、実は本人が既に解決策に気づいているということがあります。そのことを指摘すると、
「そう、わかってるんだけど」
という言葉が漏れるのです。
「当人がわかっているにもかかわらず、行為できない、言い換えれば今いるところから進むことができない」という事態は、一見「不合理」であるように思われます。
けれども実は、彼(彼女)は、法(道理)の前で立ちすくむという仕方で、論証的思考の限界の経験をしているのです。
この、「法(道理)の前での経験」を、フランツ・カフカ(Franz Kafka)が「法(道理)の前で」(原題:Vor dem Gesetz)という作品で示しています。
本作品は上記サイトに青空文庫として入っているので、ありがたく引用させていただきます。
男はなぜ門番の前で立ちすくんだのでしょうか。門は開いているのに。
訳者あとがきでは、この作品には様々な解釈が与えられてきたことが指摘されています。
この作品で僕が学んだのは、「開いている門には入ることができない」という命題です。
ふつうに考えれば、開いている門は余裕で通り抜けられるわけです。だって、みなさんも日常生活においてドアも門もしょっちゅう通ってますよ。
ただ、ここでは次のことが問題となっているのです。すなわち、初めから開いている門を通ることは、門を通ることを意味しないのではないか、という問題です。
というのも、門は、初めに閉じられており、開く(開ける)ことによって通れるようになるからです。
したがって、「開いている門には、入ることができない」と言えるのです。
本記事冒頭で、「既に答えがわかっているにもかかわらず動くことのできない人」を例に挙げました。
繰り返しになりますが、彼(彼女)は、法(道理)の前で立ちすくむという仕方で、論証的思考の限界の経験をしているのです。
何か判断する(門に入る)際には、決定者として「決定する」(門を開けて入る)という規則を超えたことをしています。初めから開いていたのであれば、当人は何もなすことができないのです。
以上のような経験は、悩んでいるときに「正論言われても困る😅」と思ったことがある人なら既にしていると言えると僕は思っています。
現状が理想状態にないのであれば、「合理的に考えられる最適な選択」をしたほうがいいことは「道理」にかなっています。けれども、どうも人というものは、「道理の前で」立ちすくんでしまうということがあるようです。
思考の材料
あと、デリダの「決定不可能性」みたいな語にも刺激を受けたかも。
サムネはベルリンにあるブランデンブルク門です☺️
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