自粛生活がおもしろくない本当の理由とは?”ポストコロナ”の幸福論
今回は、”自粛生活”の真の問題というものを明らかにしたい。
つまり、その「日常生活の繰り返し」って何か意味あるん?ということを考えたいのだ。
いまの生活に「うんざりしている人」に、このnoteは読んで欲しい。
というのも、あなたが「うんざり」している理由・背景について知るためのヒントがこのnoteから得られるだろうと思うからだ...
1. そもそも自粛生活とは?
「自粛生活」を考える前に、まずは「自粛」という言葉の定義を見てみよう。
自粛とは、自らすすんで行動や態度を慎むこと。過ちを犯さないよう慎重に物事を進めることである。たとえば、軽はずみな言動をしないようにする、度を越さないよう節制するときなどに使われる。
引用:自粛(じしゅく)とは何?Weblio辞書
つまり自粛の意味とは、「各個人が。自主的に行動や態度を控えたほうがいいと判断すること」である。
例えば身内が亡くなった場合に浮ついたことは控えようと「自粛」するのは、理解できるだろう。
それは個人的・自主的に判断して、「自粛生活」を選択しているのである。
しかし、皆さんも以下のように疑問に思うかもしれない——実情としては、自粛とは「状況や周囲の人間が行動を控えるべきだ」と個人に要請することをも意味するのではないか、と。
つまり、「自粛しなければならない」という「異常な状況」も存在するのだ。
「異常な状況」の時に言われる「自粛してください」「自粛を要請します」「自粛しろよ!」という表現は、個人が自主的に判断するという自粛の辞書的意味を損なうものである。
自粛が迫られるような状況は、あたかも暴力や脅しによって「私がやりました」と自白させるような状況と類似している。
社会的動物たる人間は、周りの評判(reputation)をどうしても気にしてしまうだろう。
周囲の人間の圧力によって「私が私の意志によって自粛しています」と宣言し、実際に行動を制限せざるを得ない状況というのは、抑圧的な状況なのだ。
2. 自粛警察:不確実な人生をコントロールしたいという欲望
本来「自主的に」する「自粛」が強制されるような状況は異常事態である。
今回のパンデミック(2020年~)は、今まであった自粛の中でもさらに特異な状況と言える。
なぜなら、自粛という異常事態が「日常」となったからだ。
対面で他人と関わる場合に他人に迷惑をかけてしまう危険性を常に考慮しなければならないという状況は、どう考えても異常だろう。
一体いつまで我々は「自粛」を要請させられるのだろう。
一体いつまで我々は自分自身を「自粛」させる必要があるのだろう。
実際のところ、病気になるかならないかは、「運」や「偶然」、「確率」といった要素が大きい。
しかも、人間は必ず死に至る。
我々は、コントロール不可能な要素でガチガチに構成された既成事実(運:時代、地域、言語、他者、経済状況)という土台の上で、「小さな選択」を重ねることで何とか生を維持しているのだ。
確かに独りで引き籠っていたらインフルエンザはかからないだろうし、交通事故にも遭わないし、目の前で先生や上司に怒鳴られることはないだろう。
しかし、やはり永続的に引き籠ることはできないのだ。
自分がコントロールできないことで自分が傷ついてしまう可能性——この可能性を、身体を持って生きる限り、また社会のうちで生きる限り、排除することはできない。
いつの時代も、道徳の多義性を観取できない「道徳的な人間」はいるものだ。
我々は「自粛警察」「マスク警察」という名で存在する。
彼らは、道徳的であることによって、道徳のうちに引き籠ることによって、自らの不安を解消しようとしているのだ...
3. 自粛疲れの「本当の原因」とは?
「自粛とは何か?」という問いは、「幸福とは何か?」という哲学的な議論に繋がっている。
というのもこの自粛生活が、我々が人生を「楽しむ」時間とは「多くの深刻な問題を見ない」時間であることを明らかにしたからだ。
つまり、我々は解決すべき諸問題を棚上げにして「幸せ」を味わうのだ。
僕は性格が悪いから「世の中そういうものもの」だと思うし、そうやって「痛みを忘却する」ことで大衆的な「当たり前の暮らし」ができるんだと思う。
「自粛疲れ」は、「痛み」を忘れることができないことによって引き起こされていると僕は思う。
今回のパンデミックでは、「私は他人を傷つけうる」という痛みを「自主的に」感じ続けなければならないからである。
しかし、ほんとうは、パンデミックなど関係なしに、人は他者を傷つけるし、他者に傷つけられて生きてゆくのだと思う。身体的にも精神的にも。
ポストコロナとは、多数の幸福のために、救えたはずの少数の命を「棚上げ」する時代のことである。
(本文終わり)
※過激なアイデアを書いてしまったことへの弁明(という名の本音)
筆者はできる限り外出を控えるべきだと思っているし、布やウレタンより不織布マスクつけるべきだと思う。ワクチンも接種済。
しかも完全テレワークなので「ふつうの人」よりよっぽど自粛していると思う。
でもぶっちゃけ、病気にかかわるかからないかは確率だし、ほんとに絶対ウイルスにかかりたくないのなら人と話さないで慎ましく孤独に暮らせば?とも思う。そういう「過激」なアイデアを持っていたので、今回改めて言葉にしてみた、という次第である。
つまり、行動としては「模範的」だが、思想的には「過激」ということだ。
少なくとも僕は、対面で他者とコミュニケーションがとることが非難されるような社会なら、パンデミックよりインフォメディック(情報の急速な伝染)によって人間は「不健康」になったと感じる。
(おわり)
思考の材料
↑ タイトルは、あまり知性を感じさせないが、内容は信頼できる新書。多くの人が抱えるであろう疑問に丁寧に、的確に答えている印象を受けました。
特に、どうしてワクチンが有効なのかを「ちゃんと」知りたい方にオススメ。
過激な内容なのにもかかわらず最後までお読みいただき、ありがとうございました!
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