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うぇいの哲学

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哲学みがある記事のまとめ
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#うぇい

「幸せ」って何?(幸福について問うとき、幸福の分類)

今回と次回の記事では、「幸福とは何か」ということについて検討します😊 今回は、人が幸福を問題にするときとはいつかということと、幸福の便宜的な分類を示します。 次回は、哲学の三大幸福論と言われるアラン、ラッセル、ヒルティの幸福論の検討をします。くわえて、古代ギリシア・ローマの思想と仏教&キリスト教、さらにはシェイクスピアと椎名林檎まで触れて、僕なりの「幸福観」を提示します!(カオスですね笑) 幸福を問うとき人は幸福であるとき、おそらく「幸福とは何か」と”切実に”問うことは

自分が自分を監視するということ──規律、権力、犯罪者

絶対に轢かれないのに信号を守る必要があるのか?僕は信号を無視しない。それを「当たり前」のことだと思っている。夜、見通しの良い交差点で絶対に車が来る可能性がないとしても、律儀に突っ立って待っている。 だからこそ子どものころ東京に行って驚いた。というのも、多くの人が「当たり前」に信号を守らないという出来事を目にしたからである。 合理的に(小賢しく)考えれば、信号機が設置してあるのは歩行者からしてみれば自分の身体が害されないためであり、だから車が全く来ないのであれば信号機に守っ

問うことが「自分にとって」何よりも重要である理由

問うことができるという特権人は、問うこと(Fragen)ができます。対して、人間以外の存在者(Seiende)は問うことができません(ここでの存在者とは、事物的存在者=モノだけでなく、人間以外の生命体も含みます)。問うという可能性に開かれているという点で、存在的な優位(ontischer Vorrang)が人間にはあると言えるのです。 問いの経験による変容問う者(die Fragenden)は、問われるもの(問いの対象:das Gefragte)との関係において変容します。

呼吸とは生命の営みであり、そして世界を開示する──テッド・チャン「息吹」から

このページを目にした「あなた」も(つまりこのページを読もうと意識した人だけでなくタイムラインで一瞬このページを目にした人も)、この記事を書く僕にも、現にいま、ある場所で必ず呼吸をしている。人間の生には、不可避的に呼吸という運動が含まれる。 人間は、意識的存在者ないし理性的存在者である前に、呼吸する存在としてまず存在していなければならない(眠っている間、物心つく前などは、自己意識がなくとも呼吸する存在者として存在しているだろう)。 けれども、おそらく多くの人は「呼吸」をふだ

言葉が過剰な時代に、どのように言葉を紡いでいくか

本記事は、僕のnote初期に出した記事のアップデート版になります! 論文として仕上げました😁 1. 言葉と人間の新しい関係 言葉と人間は、相互にその存在を支え合う関係にある。すなわち、言葉があるから私たちは現在のような生活が営める一方で、人間が存在し言葉に関わらなければ言葉は存在しないという関係である(1) 。  ところで、言葉と人間の関係は、従来の関係とは少し変わったものになってきていると言える。というのも、その関係がインターネットの影響を大きく受けているからだ。すなわ

哲学は「答えがない問いについて考えること」なのだろうか?

哲学は「答えがない問いについて考えること」だとしばしば説明されます。けれども、このような説明の仕方に僕は違和感を抱いてしまいます。というのも、「問い」であるならば、なんらかの志向性が認められるはずだからです。ここでの志向性とは――専門的な意味ではなくて――問う際には、問いの対象(問いにおいて求められているもの)が目指されているだろうという意味です。 さらにこの事柄を考えるにあたって、いわゆる「哲学的問い」の言い回しである「そもそも〇〇とは何か」という型の問いを取り上げましょ

祈りの「効用」——自己の関心の明確化と願いを遂行しようとする意志の強化

「ご利益」ばかり気にする利己主義者の皆さまこんにちは😆 うぇいです。 本記事ではお祈りの「メリット」について考えたいと思います。というのも、最近神社に行ってお願い事したりおみくじ引いたりしたときに、そもそもなぜ人は祈るのかを疑問に思ったからです。 「祈っても何も変わらない!」と言う人もいますが、祈っている当人には何かいいことがあるから祈っているのでしょう。ほんとに何の役にも立たないもの・単なる時間の無駄だったらすぐにその習慣はなくなるはずだからです👍 本記事は、世俗的な

プロポーザル(提案)としての哲学

「わー、ずっと悩んじゃう😥」という思考の沼に陥ることが誰しもあると思います。例えば、自分の進路を決めるとき、突然不幸に襲われたとき、また漠然とした不安を抱えたときなどです。 解決の糸口が見えない難問(アポリア)に直面したとき、哲学で提出された議論を参照して何らかの立場を採用してはどうか――これが、本記事の結論です。つまり、哲学者たちの概念や議論に触れることで、一見何も手掛かりがなさそうな問題に対してうまく「付き合える」かもしれないという話です。 1. 哲学は思考の整理に「

生きている人間を「状況の産物」として眺める

遺伝か環境か――このような二分法は適切ではなく、「遺伝も環境も」という言い方が適切だろう。 「自らは自由に意思決定している」。このような信念を抱く者は多い。現行の社会制度もこの考えを下地につくられている。 けれども、個人の選択によって影響を与えられる範囲は限りなく狭い。なぜなら、当人は、物理的な身体及びその身体をとりまく環境に大きく規定されているからである。 現代の脳神経科学が示すところによれば、行動をする直前にそれをしないか否かを決定する程度の選択しか私たちはなしえな

ゴミみたいな文章を一度は読まなければならないことが、Twitterのデメリット

以前論じたのですが、現代は「言葉が過剰な時代」だと言うことができます。みんなが言葉を発信できるからです。一方インターネットが登場するまでは、文章を発信できたのは比較的頭のいいエリートに限られていました。 僕は基本的にこのような現在の言葉の状況は好ましいと考えています。というのも、特権的な人たちだけが関われた書き言葉の世界に、みんなが参加して議論できるようになったからです。 各個人の視点から言葉が紡がれ、発信され、より良い世界が目指される――様々な価値観を持った他者と共生す

なぜ「個性」があったほうがいいのか? J.S.ミル『自由論』から考える

どーも、うぇいです。最近、「多様性が大事!」とよく言われますよね。ここで言われている主張とは要するに、「みんなそれぞれ好きなように生きていいよね」ということだと思います。 ではなぜ、同じような生き方をするよりも「みんなそれぞれ」の生き方をしたほうがいいのでしょうか。 この問題を考えることは、「個性」の重要性を考えることでもあります。 本記事では、イギリスの哲学者ジョン・スチュアート・ミル『自由論』第3章「幸福の要素としての個性」をもとに、多様性の問題、個人の生き方の問題

「豊か」でいるための思想——「満たされてる感」のレベルを下げること。過剰であることに喜びを感じること。

豊かさとは何か?——この問いを抜きにして、「豊かな人生」や「豊かな社会」を語ることはできないように思われます。 なぜなら、豊かさについての意味内容を曖昧にしたままでは「豊かな〇〇」に向けた具体的な行動を「あなたがする意味」を考えることができないからです。 例えば、「これが豊かな社会を実現するための仕事だ」と言われる仕事はたくさんありますが、その中であえて「あなた」が特定の仕事に従事する意味は何なのでしょうか。すなわち、社会貢献できる仕事がたくさんある中である特定の仕事を選

毎日頑張ろうとするとそれはそれで緩急がなくなり間延びしてしまうから、「休日」を意図的に設けたほうがいいかもしれない

何か大きな目標があるときは、単調な努力を重ねなければならないでしょう。コツコツとか、泥臭くとかそんなふうに形容される行動の積み上げです。例えば、受験勉強とか部活動の大会に向けての練習です。 でも、そうやって必要なことを淡々とこなしていくのは案外難しいものです。これには1つの大きな理由があるように思われます。それは時間(Zeit)の問題です。 目標達成のために毎日淡々と過ごすというのは、昨日と今日と明日がほとんど区別されない等質的な時間を生きることと言えるのです。人は、平均

ため息、諦め、パラドクス

お酒はあまり飲まなくなったが、一方でタバコを吸いたいと感じる瞬間が増えてきた。ただ、僕の趣味はランニングだから、ランニングの心地よさを減じてしまうようなタバコにハマるわけにもいかない。 というわけで、今は友人が喫煙者だった場合に数本もらうという状態で落ち着いている。 (以下、本記事の内容はとてもネガティブなものです。したがって、「幸せになるために人は生きている」という信念を抱いている方には読むことを勧めません。他の楽しそうな記事を読んでいただければと思います。) ふつう