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ガーデンの人新世的展開

石川初先生が提唱する「ガーデンの人新世的展開」がすごい面白くて、ポッドキャストを書き起こしてみた。
詳しくは、ここを聞き直してもらいたい。


石川初@慶應義塾大学SFC 石川初研究室

コクヨ野外学習センター「新・雑貨論II」第六回

ランドスケープデザインとは、
ニュータウンのような、いったんゼロにした場所において、オープンスペースをどのようにレイアウトするか?
対象は、公園緑地、計画的につくる、都市レベルの、公共的な。

「街は個人の庭でできている」とは
公園などの都市計画レベルとはアプローチとは違うスケールと方向から、個人の庭好きや園芸欲みたいなものが下から押し上げていって街を変えていく。
東京に目にする緑は、個人の緑。
江戸期の庶民文化がスタート。
戦後に団地など、庭がない家、から鉢植えが普及させた。

園芸欲とは
庭が出来ていく過程が面白い。
自分の住まいをDIYでインプルーブする楽しさ。
季節に敏感になる。
自宅から離れた都心(勤務先)の都合で生活をしている。
都心で合意されたカレンダーで進んでいく。
都心と自宅の気温差から、地に足の付いた感覚を抱かざるを得ない。
庭は、自宅と都心の時間感覚を巻き戻す場所。

季節に敏感とは?
庭は庭だけで完結しない。
足らないものは買ってこないといけないので、ネットワークが外に広がっていく。
人にあげたりする。
周りに生えているものの種が飛んできて、雑草や隣の家にある草木の芽が出る。
街を歩いていても園芸店に目が向く。
花屋や園芸店の店頭は季節コンシャスなので、目が向くようになると季節に敏感になる。

そこから、「街は個人の庭で出来ている。」と石川さんは考えるようになった。

「テリトリアルガーデン」という考え方がある。
街を自分の庭の続きと見なすことが、地域に自分のアイデンティティや落ち着きに有効で大切だ。という議論がある。
渋谷は俺の庭だ。=自分がよく知っている、親しみがある場所である
庭とは、自分の切実な場所でもあるし、気を許せる場所でもある。
一方、季節によって変わって行くというような、自分がコントロールできないものが動いている場所である。

ブライアン・イーノ:イン ア ガーデン

人はアートを建築のように考えがちだ。
つまり何かをつくる前には、必ず「プラン」や「ヴィジョン」が必要で、それが出来てからつくるはじめるものと想像してしまう。
しかし私の感覚では、アートの製作を考えるにあたって有用なのは、むしろそれをガーデニングのようなものとして考えている。
いくつかの種を植えて、その間に何が起こるか、どのように命を吹き込むか、どのように相互作用するかを観察し始めるのだ。People tend to imagine that making art is like making architecture - that you have a ‘plan’ or a ‘vision’ in mind before you start and then you set about making it.
But my feeling is that making art can be more usefully thought of as being like gardening: you plant a few seeds and then start watching what happens between them, how they come to life and how they interact.

(ブライアン・イーノ、若林恵訳)
Brian Eno: IN A GARDEN

>若林恵:「都市を建築的に考えるのではなく、ガーデナーのように考えるべきだ。建築家ではなく庭師のように考えるというのは、終わりではなく、始まりをデザインする。未完成であることが庭の豊かさなのである。」みたいなことをブライアン・イーノはいっている。

建築と造園のちがい
建築は、竣工があって、終わりをデザインする。
庭って、できたてはしょぼい。庭にとって竣工はキックオフ、始まりである。これから庭になっていくのを三年くらいかけて、見届けてください、よろしくお願いします。施主に預ける。
庭の写真も三年くらいたった時が、一番良い写真が撮れる。
三年を超えると、あれ?と造園した人が知らないことが起きる。(^^)

制度に委ねると、造園もコントロールやプラン化する。
例えば“生け垣”というものは“敷地境界”というものが形になって現れている。
制度がコントロールすると、その形にとどめる、刈り続ける、ことになる。
造園も高度成長期に、高速道路の中央分離帯の植栽のような、土木と一緒に同じものを植えるということから、発達してきた歴史があり、終わりをデザインしていたきらいがある
いま“維持管理”という言い方が良くない、という議論がある。
造園の場合は“育成管理”みたいな、新しいコンセプトを考えなければいけないのじゃないか。といわれ始めている。

>『動く庭』ジル・クレマン?

“エコロジー”によって世界観が変わってきた。
系や形だけではなくて、動的なシステムを相手にしている、ということが広く知られるようになって、ものに対するアプローチが変わってきた。
エコロジーがもたらした世界観は、建設に対するものの見方を変えたし、これからも変わっていく。

造園の人新世的展開
都市も自然。
「都市の中には自然はない。都市の中にいかに都市的ではない場所をつくろう」と、ランドスケープは頑張ってきた。
しかし都市のほうがドミナントになっている今、「都市が作っている環境は非本来的だ」と言い続けていてもしょうがない。
意外と自然はしたたかで、都市的な環境の中でも、独自の自然生態系を作り出している。
都市“も”自然だと見なすならば、都市的な自然とどうやって、うまくやっていくか?と考え方を変えなくてはいけない。

造園と園芸の乖離
造園とは制度である。
公共の緑、街路樹や公園緑地に植える木は制度として運用されている。正しい木を植えようとする。
実際、東京都が推奨される樹種がリストアップされている。
関東近辺で健全に生育すると考えられている、気候にあった木、植物である。
ちゃんと生産されていて、供給されている、植物材料として認知されている。
輸入されたものは、地域の生態系に良くないと考えられるので在来種、以前から地域にあるものを選ぶ。
しかし、都心はヒートアイランド現象やゲリラ豪雨で気候が変化していて、東京都が定めた推奨樹種が歯が立たないことがある。
推奨樹種、在来種とは全く関係なく、実際にそこにある気候にさっさとアダプトしてしまうのは、個人のガーデン。
そこで育つものを育てるのが園芸であり、且つ公園の樹木と違って寿命が短く世代交代が早いので、ばんばん最適化してしまう。適応が進んでしまう。
さらに個人の庭の個別事情、日陰や湿っぽいなどの微気候、マイクロな環境に対応する解像度が高い。
観察すると、日陰には耐陰性植物が生えている。環境に適応できない植物は枯れかかっている。環境を映し出す指標として非常に過敏。
群としてみると、ある種の園芸生態系みたいなものが出来ているように見える。
ガーデナーが自分のテリトリーで水をやり、育て、お気に入りは残し、枯れたものは捨て、庭主を巻き込んだ植木鉢生態系ができている。
本来ここの自然は、どんな樹木ではないといけないのか?みたいなお題目とは関係がない水準で、その場所の自然を映し出している。

これを、自然を見なす、というのは「ガーデンの人新世的展開」だと考えます。

都市計画的な街のレイアウトを決めるような政策と、その下のレイヤーでは個人が政策に対して、それぞれアダプトするガーデンをつくっている。
ガーデンの人新世的展開の下でのランドスケープデザインは、「ここは60%を空地として残させよう」みたいなレベルの政策しか残らない。
最近、街にオリーブが多い。
ハーブとか、タイムとか、ローズマリーとか、オリーブって、元々は乾燥した岩場で、日当たりが良く、風が強く、石灰岩質の土壌に適応した、地中沿岸の気候に生えていた植物だ。
それは都心の屋上緑化と環境が、すごい似ている。
街がオリーブに適した地中海沿岸気候をつくり出している、とみることもできる。


2022/05/13 8:27

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