見出し画像

分節即無分節の「ことば」を -鈴木大拙著『仏教の大意』を読む(2)

鈴木大拙 著『仏教の大意を引き続き読む。

『仏教の大意』を読み解く鍵になる言葉は”霊性”である。
霊性とは、感性・知性対立しつつペアになる事柄である。
感性と知性「分別と差別」の動きであるに対し、霊性は「無差別・無分別」の蠢きである。

こういう具合にまとめてしまうと、なにやら「分別と差別」なるものと無差別・無分別」なるものが、それこそ”分別”されて対立しているように思えてしまうがそうではない。

「分別と差別」と無差別・無分別」は二でありながら一、一でありながら二、ニ即一にして一即二である。言い換えると、分別は無分別と対立するものではなく無分別そのものの分別であり、無分別が無分別のまま分別する。

この記事がそうであるような「無分別について語りましょう・論じましょう」という営み自体があくまでも「分けられたもの」たちの中から始まる。

分節が即無分節で無分節が即分節の世界に入り、それを眺めたり、それについて何かを報告しようとする場合、それは「一般の論理的思索では体現不能」である(『仏教の大意』p.21)

分節が即無分節で無分節が即分節の世界について、なにごとかを報告しようというばあい、あらかじめ切り分け済みですよという顔をしたものたち並べたり重ねたり、ひっくり返したり、折り返したり、あちらからこちらへ動かしたり、並べ方をひっくり返したり、重ね方をずらしたりするを過剰なまでに繰り出し続けることが必要になる。その術のただなかで、わたしたちは「分けられたものたち」がダンスする姿の影の向こうに「分けること」の蠢きを幻視する(大拙風に言えば「消息」をうかがう)。

「無分別界の消息を伝えんとするには、どうしても一遍は分別智分袂しなければなりませぬ」

『仏教の大意』p.18

分別智分袂する。これこそが「一般の論理的思索では体現不能」な「差別平等という矛盾した概念の自己同一性ないし円融無礙性」に、私たち人類が触れることのできるほとんど唯一の方法である。

ところで「分別智分袂する」というのは、”分別智がダメで、無分別智ならOKなんですね!”、”分別智はやめて、無分別智で行きましょう”などという部類のことではない。

何かと何かを二つに分けて、どちらがいいか、右がいいか左がいいか、前者がいいか後者がいいか、どちらか一方を選びましょう、選べるのは一度だけです、とやるのはまさに分別智の業である。

これを離れないといけない。

「畢竟ずるに、仏教の根本義は対象界を超越することです。この世界は知性的分別情念的混乱の世界であるから、一たびこれを出ない限り霊性的直覚を体得して絶対境に没入することができません。」

『仏教の大意』p.29

対象界というのは、切り分け済みのものたちが整然と静止して並んでいる、この世界の日常素朴な端的な意識への現れ方である。

この対象界はかっちりと固まった安定した秩序をなしているのだけれども、その秩序の安定性と固定性がひるがえって私たちに「情念的混乱」を引き起こす。

すでに分かれたもので思考する? 分かれ方自体を思考する?

私たちが通常日常的に行なっている「白か黒か、安いか高いか、敵か味方か、食べられるか食べられないか、好きか嫌いか…」式の思考(思索と言ってもいいし、ものを考えることと言ってもいい)は、あらかじめ切り分けられたパーツというかピースを並べたり重ねたりくっつけたり離したりする営みという外観を呈している。

通常の思考は”分別する”感性と知性の働きが、何かと何かを、○と非○を分けた後で、分け終わったあとからスタートする。そこでは「分ける」働き・動き・作用は見えなくなっており、分ける動きの産物である「分けられたもの」だけが際立って見える。

”世界には、あらかじめ白があり、黒があり、敵居り、味方が居る”

”白が白なのは白だからでありそれはずっと白であり、黒が黒なのは黒だからでありそれはずっと黒である”

というぐあいに「分けられたことで出現したという来歴を隠したままの分けられたものたち」が自己同一性を保ちながら永遠にそれ自体としてあり続けるということにしたところで、私たちは束の間安心し怯えることなくものを言ったり考えたりすることができるような自信を得る。

ところがところが。この安心は長くは続かない。

物事と事物が、自他が、はっきりと切り分けられ、分離され、混じらないように領分を固められたところで私たちは”我”と分離された何かの対象と過度に接合融合したいと欲したり逆に過度に引き離し遠ざけたいと欲したりしては、離合が自在にならないことに「情念的混乱」が増大してくる。
空海が『十住心論』で論じる異生羝羊心の分別する世界である。

「我」をもまたそのひとつである切り分け済みの対象たちのなかで意識を覚醒させつつ、この切り分け方では納得がいかない、という思いに苛まれる。

こういう思いに苛まれるのは、至極当然のことである。

わたしたちひとりひとりは、たまたま自分が生まれ、育てられた場所でリアルにバーチャルに出会った他者たちの声によってある特定の”分け方”をセットアップされてしまう

しかし、ここで次のように問うこともできる。
分別智による”分け方”にはいろいろな可能性があるのではないか?

  • 「分ける」働き・動き・作用の働き方、動き方、作用の仕方は、いま私たちが日常的に知っているパターン以外にはあり得ないのか

  • 「分ける」働き・動き・作用の働き方、動き方、作用の仕方には、複数のいろいろなパターンがあり、わたしたちひとりひとりはたまたま誰かから受け継いだパターンを真似て世界に分別をつけているだけで、実は他の分別のつけかたもあるのではないか?

  • 「分ける」働き・動き・作用の働き方、動き方、作用の仕方を変えることができるのではないか?

  • 分別のつけかたを変えることができるのではなか?

これらはいずれも同じことを問うている。

* *

大人には見えないものたちがいたるところで蠢き、鳴き声や叫び声や囁き声を発しては、こちらに視線を投げかけてきていた、まだ分別がはっきりしないーコトバがおぼつかない子どものころの経験世界。

そこを遠く離れて、いつの間にか私たちは大人しく、ありえないこととありえること、現実と非現実を、周囲の他者たちと同じようなパターンで分別分節するようになり、そうして唯一の現実という「切り分け済みの対象」たちの配置の中に己自身をひとつの対象として格納配列する。しかし、これがあくまでも”仮のもの”であることを、私たちの分別以前の智はよく知っている。

まだ「分ける」動きが揺れており、言語的分節がまだ固まっておらず、ゆるかった子どものころの世界。それは大人がもう決して戻ることのできない、遠く分離された過去なのかといえば、実はそうでもない。

ひとたび眠りについて夢のひとつでもみるならば、「切り分け済みの対象」たちの固定性も安定性も静態的姿も、ゆるゆるとほどけていく。

「知性的分別と情念的混乱の世界」を出て、無分別の「絶対境」に入る、その入り口は、至る所に口を開けている。

なんといっても、分別境と絶対境は別々に切り分けられた二つものではないのである。

大拙は次のように書いている。

絶対境を分別境と対抗させてはいけないのです。このような対抗はなお分別的二元の境地を離れていないことになります。これらはわれらのいつもおちいりやすい陥穽でありまして、何でも対象を出離せよというとその対象にまた新たな出離という対象をおくことになるのです」

『仏教の大意』p.29

「絶対境を分別境と対抗させてはいけない」、ここはとても重要なポイントである。

それにしても、”絶対境”と”分別境”が二即一にして一即二であるとして、分別そのものが実は無分別の絶対境であることを私たちに明かすときには、どのような言い方があり得るのだろう。

言い換えると、無分節ということをあえてわざわざ分節言語で記述しようとするならば、どのような言語を用いればよいのだろうか??

そのひとつの応えが、おそらく、空海が『秘密曼荼羅十住心論』の第十住心のところなどで書いている法身説法(大日如来が、大日如来自身のために(衆生のためではなく)説法する)と、「真言」としてのことばにある。

/ / / /

はっきりと分別をつけている表層のインデックス的記号(●=●)の世界で、明晰な意識を保ちながらも、それがあくまでも深層と分別され対立させられる限りでの非-深層としての表層であると知ること。

表層を非-深層としてみるとき、そこには●=●の二項対立関係の下に、それと対立するもう一つの二項対立関係が沈んでいる姿がゆらゆらと見える。そしてさらにそのゆらぎの影に、もう一組別の二項対立関係の対立関係である四項関係が見える。二つの四項関係はずれて重なり合っている。

この二項対立関係の対立関係の対立関係である、八項の関係の読み解き方については、
下記の記事を参考にどうぞ。

意味分節理論応用編(1) 空海『吽字義』を深層意味論として読む /表層の四項関係と深層の四(両義的媒介)項関係を重ね合わせた論理発生装置としての曼荼羅
https://note.com/way_finding/n/nb3d804bb2e0c

第二の四項関係の項は、第一の半分表層に露頭した四項関係の項と項のあいだを結びつけつつ分け=分けつつ結びつける働きをする。第二の四項関係にとっての項○は、第一の四項関係においては項●と項●の間を分けつつつなぐ動き”=/="に変身する。つまり、第二の四項関係にとっての項○は、第一の四項関係においては項●と項●の間を分けつつつなぐ両義的媒介項の役割を演じる。

このことを説くのが、胎蔵界曼荼羅の中大八葉院、金剛界曼荼羅の羯磨会なのではないか??と思う。これについてはもっとしっかり勉強したいところである。

まとめ

ものの分かり方、分かってしまい方、分かってしまったと思う思い方、思考様式、思考のパターン、考え方…。などなどと呼ばれる事柄が、一体どのように発生するのか?どのようにパターンを形成するのか?

このような問いを問い、そしてその形成プロセスと、形成せれたパターンなるものを、どういう記号の体系で仮に記述するのか?

これらの問いに仮の応えを与える強力な導き手が、分節即無分節の動きのことを分節システムの中で記述することを可能にする二項対立関係の対立関係の対立関係としての八項関係である。

仮にこれらを記述できたとして、その次には、これらの事柄を発生させるプロセスを、私たちの有限で日々不具合に苛まれがちな身体において、感覚器官において、どう実行させるか。

さらには言語において、言葉を聞くこと言葉を発することにおいて、どう実行させるか。

その実行ために必要なコミュニケーションのためのメディアは(言葉全般、特に言葉と言葉を結びつける言葉、人と人のコミュニケーションが生じる場)はどのようにしつらえてあるとよいのか。

このような問いを問うための言語=意味分節システムを開発するために、分別の”裏側”としての「霊性」が、あくまでも”分節”の側に躍り出てくるところにこだわってみる値打ちがありそうである。

関連記事


最後まで読んでいただき、ありがとうございます。 いただいたサポートは、次なる読書のため、文献の購入にあてさせていただきます。