ユングの「変容」ー言語的無意識(アーラヤ織)のさらに先へ 中沢新一著『レンマ学』を精読する(9)
今回は第八章「ユング的無意識」である。
無意識と言えばフロイトとユングである。
中沢氏はフロイトの無意識とユングの無意識を、「レンマ学」の言葉で次のように言い換える。
「フロイトの無意識もユングの無意識も、同一のレンマ的知性の働きに根ざしているものであるが、それが混合態で現れるか(フロイトの場合)、純粋態であらわれるか(ユングの場合)の違いがある。」『レンマ学』p.182
フロイトの無意識は「レンマ的知性」の混合態であるという。何と混合しているかというと「ロゴス的知性」と混合しているのである。
レンマ学では、ロゴス的知性とレンマ的知性がハイブリッドになったものを「アーラヤ織」と呼ぶ。したがって、フロイト的な無意識とは、レンマ学の用語で言えば「アーラヤ織」であるということになる。
「フロイトは言語の深層構造と共通の根を持つ「アーラヤ織」の活動のうちに、彼のエス(無意識)を発見した」(p.182)
ロゴス的知性とレンマ的知性のハイブリッドであるアーラヤ織は、私たち人類の脳-中枢神経系(ニューラルネットワーク)において発生する。
ニューラルネットワークは信号の有無の区別を産出し、信号の有無の状態を順番に並べて生み出してく。これを中沢氏は「時間性」と呼ぶ。
脳のニューラルネットワークは、区別され並べられた信号をいくつも、多数、大量に、接続し重ね合わせる。その重ね合わせの経路はいくつもあり、中にはループを形成するルートもある。そこに人間の言語が宿る。
言語は、互いに他とは異なるものとして区別されたシンボルを順番に並べていく形をしている。
と、同時に、言語は、ある語を次々と他の別の語に置き換え、変換し、重ね合わせていくこともできる。
これを中沢氏は「喩」の働きと呼ぶ。
フロイトが無意識と呼んだものは、まさにそういう区別しながら重ね合わせる作用の動作パターンである。
シンボルとシンボルの置き換えパターン、ある象徴から他の象徴への変換、象徴「の」変容のパターンを、夢や妄想の中に観察しようということになる。
ユングの無意識はアーラヤ織ではない
一方、ユングの無意識の方はレンマ学の意味でのアーラヤ織ではない。
ユングの無意識は「脳や中枢神経系によらない」「超大脳的な」事柄である。
脳は言語アーラヤ織であるのだから、脳によらないユングの無意識は、言語の外であり、アーラヤ織の作動メカニズムの外部である。
ここで中沢氏は、ユングが「共時性」と「元型」という言葉で考えようとしたことをレンマの用語で紐解いていく。ここにユングの曼荼羅の話から、量子論の「パウリの排他原理」で知られるヴォルフガング・パウリとユングとのコラボレーションの話までがつながる。
心理学のユングと物理学のパウリがどう関係するのかと思われるかもしれないが、パウリが取り組んだ量子の世界は「時間、空間、因果性という古典的世界観」ではイメージすることも記述することもできない動的な連続体の動き方の癖のようなもの(ランダムではなく確率的な)を捉えようという試みである。
この時間、空間、因果性を超えた領域というのは、まさにレンマ学でいう「法界」の多様な動きであり、そこでパターンを描き出す「純粋レンマ的知性」そのものである。
※
レンマ学の言葉で言えば、ユングの思考が向けられたのは、純粋レンマ的知性の働きが、人間に、人間の脳に、人間の無意識-意識の構造に対して投げかけ写し出す影のうごめきであり、これを言葉によって記述する可能性であったとも言えよう。
私たち人間は、人間の神経系は、人間の脳は、人間の言語は、純粋レンマ的知性を「そのまま」知覚したり認識したりすることはできない。純粋レンマ的知性は「表象不能」である。
しかしそれは人間とは全く無縁ということではなくて、表象することはできなくても、その影を追いかけることはできる。
というか、人間の存在そのものが、その生命体としての一番底から、言語的理性のてっぺんまで全てレンマ的知性の運動から生じた無数のパターンと、それらのパターンどうしの結合等置パターンとしての構造体なのである。
「脳には表象不能な高次元的な運動をイメージとして感知する能力が備わっているらしく、夢の中や統合失調症の症状を通して、ある一定のパターンとして捉えられることがあり、それを心理学者は無意識の示すパターンとして理解しようとしている。対称性を本性とするレンマ的知性は、この時しばしばマンダラの構造をとる。特に大乗仏教ではその時浮上してくる非ロゴス的な知性の働きを「法界」とよんで、全方角に向かって拡がっていく高次元多様体として表してきた。それがマンダラである。」(p.193-194)
ユングの思想、大乗仏教、華厳の思想、そして「レンマ学」の結びつきを中沢氏はこのように記す。
集合的無意識はレンマ的知性
ユングが捉えようとした「集合的無意識」は、表象不能な高次元的な運動としてのレンマ的知性であり、それはパターンを生み出し続けること、パターンのパターンを変容させ続けることを運動の基本的な原理としている。
その運動は、マンダラのように人間に知覚できるイメージへと「変容」する。この変容の「象徴」こそが、夢や神話や妄想に登場するさまざまなイメージなのである。
変容「の」象徴。第一に動いているのは世界そのもの宇宙そのもの生命体そのものとも言える「純粋レンマ的知性」であり、それが人間という生命体に流れ込んで動き回る「レンマ的知性」であり、それが脳のニューラルネットワークに入り込んだ時に、マンダラの様なものへと変容する。
レンマ的知性が、ロゴス的知性のハイブリッドとしてのアーラヤ織へと流れ込んで「変容」し、象徴が生まれる。
ユングが捉えようとしたのは、この「変容」「の」「象徴」なのである。
象徴「が」主語となって「変容していく」ことを考えるのではなくて、「変容すること」が強いて言えば主語の様にそれ自体として動き続けており(正確には主語と述語の区別以前の運動なのだけれど)、その痕跡としての象徴が、人間の頭の中に残る。
その残り物に、身近な祖先たちから伝承された「言葉」が重なり張り付いていく。
問題は何より、その重なり方、張り付き方であり、その多様な可能性と、統計的なパターンと、変容の可能性なのである。
前回の「『レンマ学』を精読する」はこちら
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