まだ可能な介入について

少し目を落とす。カロリーメイトの箱が机の上にある。香水瓶、郵送しなければならない書類(しなければならないと思いながらすでに2日経つ)、本、ペン、充電器。閉じている、と思う。スターバックスのカップ、スマホ、紙袋、パソコン。ある方向からある方向へ向かうときに、いずれ止まらなければならないものたち。地球、ゴミ袋、クッションカバー。A地点からB地点の中間地点Mが存在していて、Mが窪みになっている。袋は便利だ。ものを投げ入れれば、ものたちはそこに溜まることができる。入り口の定義を鑑みよう。

入口(いりぐち、いりくち)、入り口 中に入るための口。「出口」の対義語。

入り口は囲まれている。つまり、入り口ではない部分によって囲まれていて(逆に言えば入り口という存在が穴を作っていて)、それゆえに私たちはそこへ歩み入ることができる。入り口ではない要素、壁、紙、筐体、什器。それらによって明確にある「穴」が指し示されるのだ。つまり、入り口は何も「入る」ことによってのみ規定されているのではなく、入らないこと(場所、こと、もの)によっても規定されていると言える。これは出口においても同様で、「出る」ことだけでなく、出ないことによっても規定されているのだ。私たちはこの双方を同時に認識することで、「入る」ことと「出る」ことを認識している。

囲まれた——それではないものたちによって一斉に名指されるそれ——入り口、その内側に足を踏み入れると、「底」がある。窪みでもいい。反転する境界線とも言える。中間地点で、入り口と出口との相対的距離は等しくなり、そこが「奥」であり「底」であり「反転する境界線」となる。つまり、中間地点Mでは、AがBになり、BがAになる。AとBが重ね合われた状態で(AでもなくBでもなく、ただの「口」に変貌するその瞬間)、ものたちは待機している。入ることもなく、出ることもないそのマージナルな場所でものたちは(私たちは)収容物に成り代わる。

閉じることで便利になる。中間地点を内部に措定し、入り口や出口をそれでないものたちによって言明することで畳合わせ、外部と内部の境界線を作る。皮膚は内臓だ。胃袋の内壁のある部分を指さしてみよう。そこから入り口(口腔内)へ指を滑らせてゆく。そうして歯に触れ、唇に触れ、皮膚に触れていく。私たちはある「穴」であって、皮膚は穴の外側にすぎない。本当の内側は胃袋の外部にある。

物事はいくつもの袋小路に入っていて、行き詰まっている。言葉を持つことで意味を持ち、何かの入り口に入っていく。出口へと向かうこともできず、意味たちは別の飛翔体になる時を待ち続けている。落ちることは容易いけれど、出口に向かうための揚力は簡単に与えられない。

袋に入ったものたちを外に出すとき。手を突っ込み、探り当て、引き出す。あるいは、袋を逆さまにして中身を出す。内側に入ってしまった意味たちを外に出すためには、何かを突っ込んで引き出すか、それ自体の領域を逆さまにするほかない。生体の場合は臓器的機能、オートポイエーシス、フィードバック、ホメオスタシスによって内側から外部を目指す。意味の内側から外側へ向かうためには、外部からの要請と、あるいは内側からの生体的自発運動が必要になる。

けれど、考えてみよう。それは袋という前提ゆえに成り立っている要請であり、いわば袋からのアフォーダンスとも言える。サピア仮説的な話かもしれない。我々は袋に求めていることばかりを見ていて、袋から私たちに求められていることを忘れてしまいがちになる。ゆえに、袋を袋で無くして仕舞えば良いのではないか。けれど、そのためには前提条件の見直しが必要になる。袋はどこにあるか? というアポリアだ。少し問題を見直してみよう。

H1、我々は論理の袋小路にいる。
H2、袋は入り口と出口があって(なおかつ、口とはそれでないものたちによって囲まれることで成立している)、その中間地点では反転する境界線が存在する。
H3、内部に存在するものたちを外に出すためには、外から運動を加えるか、生体的運動が内側から生じる、いずれかの必要がある。

AH1、袋を破ることで内部の存在を明るみに持ち出すことができるのではないか。
BH1、袋の外には何があるのか?

このBH1に課せられた問題意識はつまり、袋の内部に働く力学と、袋の外側にある力学が等しいかどうか、という懐疑に基づくものである。いわば、数学の形成力学とその外部の力学は等しいかどうかという問いでもありうる。簡単な例を持ち出してみよう。地球もそれ自体袋であるのだし、その袋(それとそれ以外によって構成される境界線=球体の内外)を崩壊させたとき、内部に働いていた力学は別の力学によって浮遊せざるを得なくなる。重力が働くことによって、私たちは袋の内側に「とりあえず」放り込むことができるが、その力学が通用しなくなったとき、事態はむしろ悪化する。

AH2、袋をひっくり返すことで内部と外部を逆転させ、秩序を作り直す。
BH2、ひっくり返す主体は誰か?

この問いかけはH3の問いにもつながるところである。外部からの介入は果たして善でありうるか。もとい、外部とは何によって措定されるか。外部には無限外部と有限外部がある。演繹的外部か帰納法的外部か、という違いにも近い。無限外部は、あらかじめ定められた内部の集合の要素を考えることによって導き出される。内部集合が規定しうるのは外部のある限られた属性と、〈外部から措定することのできる内部の全ての属性〉であり、外延は無限に拡張していく。一方、外部集合を任意に決定し、内外の区別を措定するとき、外部は有限になる。これは言語論の限界でもあり、いわば言語というカテゴリーの限界でもある。カテゴライズするという思考は常にこの有限外部の問題を孕む。有限外部を措定する思考が、そのまま外部につながるのならば、有限外部の理解者はつねに内部の理解者でもあり、その意味で内外の区別は単に境界線の問題になってしまう。よって、我々は有限外部の状態を候補から外さねばならず、考えるべきは無限外部の問題となる。無限外部に置かれた形而上的主体は実在を持たず、一であり多である状態になる。プルーラリズムのことを考えるとき、プルーラルであることの暴力を考えなければならないように、ある一つの状態への固定(あるいは多である状態への固定)は、いずれにせよ無限外部のことを理解する手助けにはならない。スピノザの主張する汎神論のように、絶対的無限であり、そのうちに我々が考えるべき外部が存在する。ここにカタストロフの限界がある。

袋を開けることで(もう少し詳細に言おう、入り口を二つ作るのだ)、ある崩壊を作る。論理の究明はある種の崩壊に近い。原子それ自体を探り当てるためには、分子の崩壊を必要とするように。我々はdoxaをそれ自体として持つ論理体系から脱して、別の思考を可能にするためには、ある種のカタストロフが必要になる。けれど、そのカタストロフは無限外部、無限に延伸していく意味の体系から齎されなければならない。我々は有限の方から無限を考えることはできるのだろうか? すなわち、無限を措定する力学を発生させることはできるのだろうか?

神秘とは世界の外部の知ではないのだ。それが示しているのは、世界が存在するということを科学が思考することの不可能性なのである——ヴィトゲンシュタインの言葉が思い出される。存在者が存在すること自体、存在者における大いなる贈与を、表象における本質的な裂け目なのだ。大いなる他者を他の思考(様式)に委ねることはここから生じる。例えば人工知能によって生成された新たなイメージ(新たな思考の表象)は、存在が本質的に内具している奇妙なねじれをある地平へ引き出すことを可能にする。さておき、思考不可能なものは私たちに対し、私たちの不能性を突きつけるのみであり、この帰結は(特に重要なのはこれで)絶対的なる外部の思考それ自体、その運動の消滅ではあるが、しかし絶対的外部の消滅ではないということを導き出す。メイヤスーはこう表現する。「相関的理性は、どうにもならない限界の引き受けを自覚しながら、絶対者へのアクセスを権利主張するあらゆる言説を、それらの言説においては何も、それらの妥当性の合理的な正当化には似ていない、という唯一の条件下においてむしろ進んで正当化したのである」。

よって——次なるアポリアは——「循環を開かねばならない」ということではあるのだが、袋の割れ目は内側から作り出せるのだろうか? つまり、内側からの割れ目は、内側の自由意志でありうるだろうか? 雛は自由意志で卵の殻を割るのではなく、「殻を割るために内側にいる」のだというテーゼを破壊することはできるのだろうか。さておき、けれど私たちは袋を破ることはできるのだ(文字通り)。カロリーメイトの袋を破るように、ある有限外部においての袋小路を破ることはできる。その手段は問わない。有限であることはいつも常に無限であることの内縁である。よって、有限な論理の割れ目を少しずつ破っていくこと自体は、まだ可能なのだ。それが全ての集合に対して循環を開くことにつながるかどうかはまだ推論の余地があるが、少なくとも日常の一つの実践としては「まだ可能」なのだ。


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