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全てはあとから

記録はなぜないのだろう? 薄々感じていたが、記録がないのではなく、記録は存在できないのだ。その全てが記録になりうる濃密な出来事の内側にあっては、何事も不可能で、それゆえに全てが可能になっている。記述と言い換えてもいい。一分一秒がその出来事の全てを完膚なきまでに指し示してしまうとき、そこから何事かを純化して、取り出すことはできない。切り取られた断片一つだけでは全く機能せず、出来事の〈一〉性を伝えるためには、その出来事の頭から尻尾まで、あるいは排泄物や消化するものまで、全てを再現していかなければならない。それは、人生を同時にもう一つ体験することであり、それに耐えられるように人間の魂は作られていない。

一度に五秒か六秒かしかつづかないけれども、突然、完全に自分のものとなった永遠の調和が訪れたなと感じる。(…)現世的な地上の人間にはとても堪えられるものではない(…)まるで不意に全自然の存在をありありと感じて、思わず「そうだ、これは正しいことだ」と口走るような気持ちなんだ。(…)なによりも恐ろしいのは、それがすさまじいばかりに明晰で、たいへんな喜びであるということなんだよ。もしそれが五秒以上つづいたら——魂が持ちこたえられなくなって、消滅してしまわなければならない。この五秒間にぼくはひとつの生を生きるんだ。そのために自分の全生命を投げ出しても惜しくはない。(ドストエフスキー『悪霊』第三部第五章)

キュレーターになる方法論も、アーティストの確固たる定義づけも、研究の本質的な筋道も、これに関わる記録はどれもその本質へ辿り着こうとしながら、その本質そのものではありえない。周りを迂回しながら、視線や魂の熱をその中心へ向けていることだけがそこで可能で、結局、そこへ向かうのは私以外の誰でもありえない。その航海は、その人ごとに開かれた海があって、そこであなたはあなたの海に畏怖しながら、霧と夜とを認めながら、存在の確かさを引き受けるしかないのだ。

自分しかいない道を切り開いていくことは、結局、何かを引用したり参考にしたりしている限りでは、何も可能にならない。そこで泳ぎ始めるのは、紛れもない〈わたし・あなた〉であって、そこねた全てを抱えて、できることへ目を向けていかなければならない。何もできることはない? とはいえ、「できることはない」と悲嘆することはできている。

悲嘆も歓呼も、それが〈わたし・あなた〉の存在そのものの奥深くから発せられる記号的脱領土化のレーザー光線によって可能になる襞なのだから。


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