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オレンジタルトと話した日のこと

ある曲を初めて聴くときいつも、それが一度でぴったりするすると調和を持って流れ込むことはない。何度も繰り返し聴くうちに、全体としての緩急、音の流れ込むタイミング、言葉、あらゆる要素がようやくまとまりだして、一つの曲として聴けるようになる。いつも不思議に思う、ある言葉を聞いていて、その内容は覚えていられるのにどうして一言一句覚えていることはできないのだろう、と。それを思い出そうとするたびに常に流れ込んでくる新たなシニフィエがいまのこのフレームを横切って、しまいには絡れあった残滓だけがある。なのに依然として私には全体の感覚や熱や伝えたいことだけははっきりと残っていて、私はその密度の差にいつも驚いてしまう。一つひとつの手触りを覚えていられないのに、どうして全体の構造を覚えていられるのだろう。

ふと思い起こせば、私が本を読むとき、いつも覚えているのは全体の調和や構成や、いわば建築物としての柱や梁やそうした堅実なものたちばかりなのだった。文章を書くときもいつも、些細な言葉のざわめきには何も注意を向けず、全体として「こうした建築物を作りたい」と思って書き出すのだった。論文で引用する文献でも、「この言葉を覚えているから、それを引用しよう」と思うのではなく、「全体の調和を成り立たせているこの緩急やひとつの美しい角度を掘り起こそう」と思うのだ。手に取った本のおおよそどのあたりに、その私が望む角度があるのかを、私はおおよそ知っていて、それゆえ、あとはその揺るぎない角度を改めて挿入し直すだけなのだ。

季節、彼らの持つ幾つもの表象——表象という言葉は良い、清潔な印象があって——、その細やかな断片を求めるより、私はそれらの中にある例えばスラッシュやダッシュや、いわば接続詞と言えるようなものを、ゆっくりと肌で知りたいと思う。幾分か温度の下がった風を勢いよく車の中へと滑り込ませながら、コンビニで買ったホットコーヒーを一口飲み、誰も並走するもののいない県道を走る早朝の11月など。あるいは、ウールのロングコートを羽織り、出掛けに軽く纏ったアーモンドの香水の残り香を吸い込みながら、行きつけのブーランジュリーでオレンジの乗ったつやつやとしたタルトを買う昼下がりの11月もそうだ。旅行の記憶もいつも、その断片と同時に全体の甘やかな追悼、あるいは祈りに似た感情で全体のリズムを思い出す。

そこにあった幾つものシニフィアンは散開星団になって、それらにつながっていたシニフィエだけが私の周囲をいろどる。さざめく標、唇の角度、憐憫に似た温度の手のひら、良くないと知りながら乗り込んだバス、背後から差し込む晩夏の光と、縁取る輪郭。

冬、見知らぬ人たちの体温や、暖房で結露したガラス、雪、車輪が音を立てて走り抜ける午後8時の路線バス。あのときの棘は今も鮮烈な痛みを訴えていて、けれどその痛みはゆっくりといとおしさに変わっていく。いつだって記憶はそうで、その幾つもの反転を抱え込みながら、あざやかな痕跡を私たちに打ち付けてくる。フィロデンドロンのみずみずしい切り口、ピオニーの匂い、カシスの果汁。肯うその目を裏切った私の鋭い匿いはいつごろ溶けるのだろう、弄う温もりを知らぬままに誦じた定型文を、いつごろ忘れよう? 

もはや私自身の人生の構造は私自身が抱えきれなくなっていて、複雑に入り込んだ幾つもの路地に、匿っているそれぞれの、例えば甘い邂逅を私はもう覚えていることができない。あの日出会った彼や彼女らのその輪郭は思い出そうとすればするほど朧げになっていって、代わりに思い出すのはいつもそばに落ちていたペットボトルや、その手が握っていた瑣末なものたちばかりなのだった。災害や、予期し得なかった事態に真向かったとしても、私はいつもその顛末を覚え切ることができないで、道端の砂利の数などをいつまでも執拗に覚えているのだった。浜辺に打ち寄せる偶然性の数々、私の人生の構造をそれに委ねて、私はすっかり清々しくなってしまいたい。

こんな夜更けにコーヒーを淹れて、2週間後の予定などを考えている。私には余り切った全体の傾斜、なのに相変わらず目先の瑣末な事柄に振り回されている。どうしたらいいのだろう? 私は例えばそこにいるオレンジタルトに声をかけてみる。

「疲れ切っているのに、どうして2週間後のことを懸念しているのかしら、私は? 責任感が強いだけなのかしら」

オレンジタルトは今にも消え入りそうな小さな声でこう返してくるのだった。

「あなた自身があなたに課している幾つもの後悔のせいではないの? いつも宙吊りになっているシニフィエ、それらがあまりにも不確定で、あなた自身も迷っているように見えるわ。けれど、それを捨てることがよいこととは思えない、そうでしょう?」

「新しい試みなどもうないのに、その循環からどうやって抜け出そう、なんて浅ましいことを考えているの」

「それでいいのだと思うわ、いつだって『これが正しい』と思いながら作り上げたヤドカリのお家はすぐに美しくなってしまうでしょう? そう、美術館が作品を匿って、均質な温度と時間のなかに葬ってしまうように。それはもう、配置によってしか生き直すことができないのよ。配置することだけの全体慣習なんて、面白くないと思わない?」

「そうね、そう……そうだとしても、やはり私は疲れ切っているわ」

「最近見た映画はなんだった?」

「スタートレックだったわ。2001年宇宙の旅を見直そうかと思ったのだけど、幾分か思索的にすぎるかしら、と思って」

「見知らぬ辺境を旅することは、やはり自己の再構成と全体の把握だからね、正しい選択かもしれないし、場合によってはむしろ陥りそうだね。見知った土地をもう一度ゆっくりと歩き直すのはどう?」

「宇宙は最後のフロンティア……だったかしら、そうね。そこに責任は否が応でも付き纏ってくるのだし、そこで私はきっと、私の時間をもう一度組み直さなくてはいけないのね」

「でもあなたが疲れていることは事実でしょう?」

「そうね、少し休みたいけれど」

「けれど、ということであなたはあなたの尊厳を保ってきたのね、そうでしょう?」

「尊厳は自分で守らなくちゃね」

「あなたに相応しい尊厳を与えてくれる人はいた?」

「数少ないけれど」

「与えられた尊厳の細やかな手触りは覚えている?」

私はこの質問に——オレンジタルトから発せられるほんとうに消え入りそうな声——、少し戸惑ってしまったのだった。本当に。

「驚くほど——、ええ、本当に。驚くべきことに、緻密に全てを思い出せるわ。潮騒、燃える破片、繋いだ手の質感、肌のきらめき、真摯な眼差し、態度、私に差し向けられた幾つもの覚悟……。そうだわ、あれを……」

「その逆も然り、その截然とした判断の尺度を丁寧に保ち続けなければいけないのではない?」

「そうね、疑いなく、あなたに賛同するわ。いいえ、私にかもしれないけれど……。疑いないわ」

「それは間違った行為なんかじゃない、そうよね」

「そうよね」

「そうよね」

最後はもう、どちらがどちらの声を発しているのか判然としないまま、私はただ揺るぎない肯いを信じていたのだった。



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