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自殺の価値

私は何度も自殺を試みた事がある。しかしその度に失敗してきた。どんなに追い詰められても心のどこかで自殺に対する良心の呵責があったからだ。私は自殺した人を否定も肯定もしない。ただその人の人生は自殺をする為にあったのか。そういう風に考えるだけだ。

死に方と言うのはその生物の価値を決定付けるものだ。野生動物であれば基本的には食物連鎖の中で死んでいく。自ら死を選ぶ生物などあまりいない。基本的に生物は本能として生きることを最優先に考えるように作られているからだ。その上で自殺によってその生を終えると言うことはそれまでのあらゆることは自殺という結論の為にあったことに「する」という事に他ならない。人間には理性がありその理性によって本能を抑え行動することができるからだ。

しかし病気、これについては例外である。私の場合がそうだったのだが病気によって自殺させられてしまう人も多くいる。この場合の自殺は私は病死だと考えている。ので、ここでは扱わない。

自殺する理由として一番多いのは病気、不治の病だったり病気による将来への不安だったりが多いようだ。前者についてはどうせ病気で苦しんで死ぬ位なら死に方くらい自分で決めさせてくれ、ということであれば私は理解できる。病死と言っても良いだろう。しかし後者の場合は生死に関わらないのに自殺という選択をしたという結果だけが残ることになる。個人的には本当にどうでもいい生であるが関係者のことを考えると愚かとしか言いようがない。周りの人達の力を見くびっている行為に他ならないからだ。仮に天涯孤独の身だったとしても過去に誰とも関わってこなかった筈はない。生というのは当者だけのものではないのだ、生きるということは他者を殺して生きることに他ならない。その為無駄な死はそれ自体がそれまでの生の為に糧にしてきた生命への冒涜となることを忘れてはならない。

次の理由として金銭問題が挙げられるがこれについては行政に助けを求めれば何とかなる場合が多い。そもそもの話何のために税金を払っているかと言えば困った時に助けてもらう為である。自己破産なり行政サポートなり打てる手は全て打った上で選択するべきだろう。

改めて言うが私は自殺した人を否定も肯定もしない。ただその選択をする前に一歩立ち止って自分は病気ではないか?まだ打てる手はあるのではないか?と自問自答する価値はあると考える。否定はしないがその生の価値が貶められることに変わりはないのだから……

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