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七ツ山附近の山旅

橋本三八『九州の山脈』朋文堂、昭和十九年(一九四四)

大崩山から日影線横峰驛にむかつて降る途中に、比叡と呼ばれる珍しく大きく露出した花崗岩がある。きまって荷を卸すいい休み場で、その岩に立つて南望すると、いつも心をひかれる一連のあたたかな山々があり、一度はあの山へと、ひそかに心に期すのであつた。それがやうやく好機を迎へ、去る昭和十六年の新秋九月、同行者六名で、三日間、その山を訪ねる事が出来た。所要陸測五萬分一地圖、延岡、諸塚山、鞍岡、三田井。

南部脊梁の準平原山地が、五ヶ瀬川断層線に沿って、 土々呂の海岸にむかひ、 流るるが如く、また堰かるるが如く、大仁田、黒岳、眞弓岳、九左衛門峠、諸塚、石峠、速日峰の山々を起伏させ、どれを捕へて主峰といつてよいか困難な一群の山地がある。
この山群を一部の人々は七ッ山山地と呼んでゐる。「さうでもしなければこの尾根筋は何處に属すべくもなく宙ぶらりんになる」(九州山岳)と、宙ぶらりんをひどく気の毒がつてゐる。
しかし字句の上では纏め得ても事實はあくまで纏らない脊梁山脈の一部、その漠然たるところを、寧ろ特徴として私はこれを七ッ山部落附近の山と呼んであつかつてゆきたいと思ふのである。そしてまたこの七ッ山の山が實はその山とは全然関係がないのに不拘、山と関連して誤解を与へ易いので、その點からも註釋的な意味で右のやうに扱ひたいのである。
なほこれらの山々は「登高者の注目を集め得べき山もない」と簡単に片付けてあるだけにそこには如何にもとりのこされ秘められたなつかしい山村の生活があり、頂から頂を結ぶ長い駄道や、峠が、今は歩く人もなく荒れ果てて、夏草が徒に茂つてゐる有様などにも却つて夢を感じさせるものがあつた。倒れた古い道しるべを起して、そこに消えかけた文字を読んでは山麓の村里を探したり、ある廢家では昔の驛■の名残を聴いたりして、たまらない旅情に咽んだものである。
登行の苦しみとしては、雨の黒岳の密林で濡れ鼠になりながら徑を探したり、不眠の身禮に鞭をうつて夜雨の中を更に十三時間も強行したりなどしたが、僅か三日間の短い山旅としては、古譚や伝説や、地理的に民俗的に種々と興味あるものを拾った。また地圖面の黒岳が、實は黒ダキといふ岩壁の名であつて、 地圖製作者が當時三角點であれば何でも山名をつけねば承知出来なかった爲の、とんだ間違ひであったことも判った。
とまれ大崩山から見たあたたかな山に失望はなかった。

川水流駅に降りて訊ねると、五ヶ瀬川の鉄橋の上に渡し場があるから、それを渡つて行けといふので、国道を少し歩いて川岸に出ると渡し舟が待つてゐた。一行が乗り移ると朝の清々しい河面を舟は滑るやうに横切ってゆく。変つた風態の一行が乗ってゐるので向ふ岸では子供が珍らしさうに並んで待つてゐる。
峠道はすぐ向ひの家の裏からついてゐて、のつけから急な登りなので汗をかいた。峠を越すと、五ヶ瀬川の谷はもう見えなくなつてゐる。峠の尾根の裏側をまた捲くやうにして山懐に入ると、高畑の部落はすぐであつた。部落の人に中小屋までの狀態を訊くと、近年全く人が通らぬやうだから荒れてゐるだらうといふ以外詳しい事は判らない。
まあ、何とかなるだらうと清水峠への小徑へ入り、それを登り切ると大きな林道に出て、そこから珍らしく曾遊の山、大崩連峰が桔梗色に霞んで見えた。ここは清水峠の近くであつて、少し右に入ると觀音堂があり、傍に清水が湧いてゐた。
林道はいつまでも続き、植林に沿うて氣持よく歩いてゐると、今度は植林の中に入り、それを抜けると野が展けた。谷には低い山々が朝もやの中に淡彩畫のやうに霞んでゐる。廣い駄道はまだ早朝のためか人一人通らない。
山の出ツ鼻で一服したが、其處から見る日向の山は視角の違ったせいか、何か未知の山のやうに新しく感じられた。またこれから辿る尾根も低い山ながら、そのたたづまひにはつくづくと山旅の楽しさを誘はれた。
巡り巡って坑山の上の草山を過ぎ、ふと前方を見ると今迄人の気配さへなかつた尾根の頂に澤山の人の姿が見えてゐる。意外に思ひながら何も進んでゆく。駄道はこの坑山の上までで終つてゐるので一度東側に下りて荒れた伐採地に入り、急な尾根を登つて、先刻眺めた問題の頂に出ると、澤山の人の群は思ひがけない學童達で、今日は日蝕なのでその観測に下の村から登って来たのだといふ。皆竹の負籠に弁当を入れて■いでゐる。妙にはにかむ子供達であるが、一緒になつて日蝕を見る。
やがて、子供達も小鳥の去るやうに散って、あとにはわれわれだけがのこされた。妙にさびしくなって急いで石峠へと草原の防火線を下る。
石峠附近は繁つた萩に埋められて徑さへはつきりとは判らなかったがその萩を押し分けると、その中に古い立派な徑と、これも古い壊れた石の指導標が秘されてゐた。満開の萩を潜ってその古い徑を歩く!大變風流に聞えるが、實は首筋から花と一緒に虫が落ち込む藪潜りなのだからあまりいい氣持ではない。
やうやく手入れの届いた道に出ると、道とはかくも有難いものかとつくづく咸謝したくなる。また中小屋のあたりの緑の草の色を見ると、草はかくも美しいものかと初めて見るもののやうに鮮かに感ぜられる。
しかもその廣い峠道からは前方に九左衛門峠の大きな尾根の張り、右の五ヶ瀬の谷を隔てての大崩の連山、左の耳川の谷に蟠る尾鈴の巨峰に繋がる山々、それら思ひ出の山と谷の展望がひらけ、懐しさで一杯になる。
中小屋では取付の農家に立寄つて中食をさせて貰つたが、■先からは七ッ山川の谷を隔てて、高峠が素晴しく秀でてゐる。眺めのいい部落だと感心すると、主人は、嘗つてこの部落は延岡と七ッ山部落を結ぶ駅■として、物資を集散してゐた所で、この峠の中心であつたのだが、鐡道が開けてからは淋れてしまって、今は大部分は廃家となり、現在は踏留まつてゐるのは二三の家に過ぎないと、景色どころではなく亡びてゆく生活を述懐するのであった。
教へられた九左衛門峠道が、変な方へ下る道であったりしてちょっと迷はされたが引返して峠道に入ると、その頃、日蝕は餘程進行して峠道も薄暗くなって来た。
その名には曰くがありさうであるが、至つて無風情な九左衛門峠を越えて、しばらく降ると草原に出て、はじめて前方に諸塚山が黒く浮かび出た。長かった峠道も、やうやく終りに近づいたらしく、柳原川の谷が見えてゐる。
山の斜面に、蕎麦の花が一面に咲いてゐる側を過ぎると、川ノ口の部落の屋根はすぐ眼の下に見えて来た。緩やかな尾根の流れに斜の日を受けた麓のひと群の部落、過ぐる年、大和の大臺ヶ原から降りて来た際の木和田の部落を思ひ出させるものがあつた。階段状に作った唐蜀黍畑の間の部落道を降りて川べりに出ると、再び登らねばならない八百米の尾根が屏風のやうに立ちふさがってゐた。
廻り淵を廻って丸木橋を渡る。澄み切った流れにはエノハが群をなして泳いでゐる。木炭の荷出しに川ベリで祝宴をひらいてゐる村の人達に、峠の徑を教へられて、やうやく暮れて来た山徑に入り、残った飯で腹を■へると、また一山、越しにかかる。
峠で日は全く暮れてしまった。懐中電燈やランタンの灯をたよりに急ぐ。村の灯は眼の下にありながら道はなかなか遠い。星が馬鹿に大きく見えるのも儚い気持。
やつと村の道に下りてただ一軒の宿を尋ねて、何はともあれ「今晩宿を頼みます」と多少哀願的に交渉すると、主人は何も無いからと言葉は濁したが好意がうごいてるたので安心して荷を卸しにかかると、奥からお神さんが出てくるなり「何も用意がしてないから泊められぬ」となかなかの見幕で、亭主も何もあったものでなく、びっくりしたが、亭主はあくまで温順に何はなくとも泊めてあげろといふ。こちらもその時は六人いつの間にか入り込んで荷を卸してゐたので、結局お神さんも折れない譯にはゆかず泊る事にきまって皆上り込むと、それからはお神さん、不思議なやうに人の好い親切な小母さんになつたので俄然愉快になつてしまって、結局あの時お神さんは餘程虫の居所が悪かったのだらうといふことになった。
お神さんは今朝も何かと行届いて親切にしてくれた。昨夜は話す機会がなかったので、役場に出てゐるといふ主人に、附近の山の模様や傳説などをいろいろと慾張って訊くが、いやな顔もせず親切に敢へてくれた。
僅か一夜の宿に過ぎなかったけれども、心に残る宿の人達に送られ小原井へ出發する。丁度學校へ急ぐ子供達と一緒になって元気のいい挨拶をしながら歩く。山腹を■いて畠に出たので振返って見ると、七ッ山部落は意外に急な谷合で、畠は山の頂近くまで拓かれ、溪流はまたはるかの下に流れてゐる。地図ではよく氣付かなかったが 珍らしく壯年期の谷に拓かれた部落で、風趣もなかなか捨て難いものがある。
宮ノ元の橋を渡ると、溪流に沿うて村道を登る。いい道になった行者らしい老人と話がはずんで、いつの間にか小原井に着く。正面に見えてるた黒岳はわづかの間に上半身を霧にかくしてしまつた。村の入口の家に荷を頼んで愈々出掛ける頃になると雨が落ちて来た。今朝宿を發つ時、黒ダキに登ると雨が降ると言つてゐたお神さんの言葉を思ひ出した。大方クロダキには雨乞の神様を祀ってあるのであらう。
谷は奥まで家があつて、山徑が判りにくく、川ベリに行詰ったり、家の玄関に出たりして、やうやく谷のつめの紋原に来て山の様子を訊く、あまり好い返事でもないが大體の様子は判ったので前の徑をたどって山に入ると、取付からいきなり藪で徑は消えかけてゐた。それに雨は劇しく四五間行く間にづぶ濡れになってしまふ。しかしその支尾根を横切ってしまふと後は下生えはなくなって歩きよく、少し登るとガレになつた。ガレで踏跡は消えてしまつたが、尾根を探してゐるとまた見つかったので、それを進むと古い伐木のある小平地に出て、それから主尾根を捲く。するとやがて霧の中に尖った岩が現れてきた。教へられた黒ダキらしいので攀ぢ登ると、新しい祠があり「祭神大山祇神、昭和十三年十二月二十七日」と書いた木札が納めてあつた。晴天だったらする分眺望のよいところらしいが、残念ながら濃霧で何も見えない。周囲も深い断崖らしいがよくは判らない。
濡れた身體では寒くて、霧の■れるまでは待つわけにゆかないので一度降るとまた登って頂上にむかふ。大崩型の密林で劇しい藪潜りの後、山頂らしい平地に達したが方々探しても三角點が見つからない。それかと言つて最高點らしい頂も別にないので、諦めて引返したが、登りの踏付けは消えてしまつてさつぱり判らない。見當つけて降つてみたが見通しが利かないので、下つてゐれば登りに捲いた徑に出るだらうと濡れ鼠になって下るがその径にも出ない。西側に寄り過ぎたかも知れないと、又■いてみるがやはり徑はない。一時間近くも模索を続けてやつと小徑を發見した。やはり西に寄り過ぎて登りの路の右に寄つてゐることは判ったが、これ以上濡れるのもいやなのでそのままその徑を降ることにした。するとやがて立派な路となり、それを左へ左へととつて森林を抜けると、急に野に出て向ひ側に尾根が見え、溪流が見え、部落が見える。さてどこの部落だらうと尚も下つてゐると、何とそれは今朝出發した紋原では ないか・・・。徑は違ったが元に返った譯で、登り口の支尾根の藪漕ぎだけは繰返さずに済んだわけである。気持のいい小徑を辿って紋原の家に着く。
雨もやんだので長閑な氣分となり、小原井の家に帰る。
予定は今日のうちに、諸塚山麓までゆくことになつてゐたのであるが時間も遅くなつたし、着物も乾かしたいので此處に泊めて貰ふことにして家の人に頼み、結局一丁ばかり上の家に泊めてもらふことにきまつて落着く。炊事、衣服の乾燥、火の係と分担がきまるとそこは馴れた一行、直ちに飯が炊け、味噌汁が出来て、囲炉裏の側に山男のすさまじい晩餐會が開かれた。外はまた烈しく降り出した雨の音が軒をめぐつて炉ばたは一層氣分的になつてくる。
「昨日の黒ダキ登行に疲れて休養を攝るべきであつた一夜は蚤の襲撃にくつがへされて、御通夜のやうな夜になつてしまつた。雨に叩かれた身體の懶さも消えず、眼をこすりながら囲炉裏に集まつたわれわれは夜目にも何と惨めな姿だ。かくなる上は早立と決まる。暗い中に朝食を終り仕度を整へて五時には蚤の宿を出發する」
同行の一人はその一夜をかく日記に綴つてゐる。
星もない墨のやうな空の下を、まだ夜中の小原井を後にして木馬道を宮ノ元へ。何のことはない蚤にはれて大の男六名が逃げてるやうなものである。
ほのぼのと明けてくると空には灰色の雲が低く垂れてゐる。宮ノ元から右に川に沿うて大きな林道を飯干に向ったが、睡らない身體は馬鹿に懶い。道ばたに寝轉んで休んでゐると、いつともなしに身體はとけるやうに睡魔に誘はれてゆく。
飯干までの長い道にいい加減疲れて部落に着くと、諸塚登山口の家に立寄る。 此處の親爺は山の様子を詳しく教へてくれた。山のお宮に關係のある古い家らしい。
教へられた通り部落の裏道を少し登ると明るい野に出る。太陽が出て青い空と、白い雲と、緑の尾根が久しぶり見る風景のやうに新鮮ですがすがしい。しかし登りとなると汗が出てきてなかなか苦しい。
やがて登山路を左の森林帯に入ると、いくらか凉味を感ずる。広い立派な道でお岳詣りの登山者の多い事が判る。再び草原に出ると始めて頂上の原生林の一部が紅く彩られて現れ、東側は谷が開けて、一昨日歩いて来た九左衛門峠から中小屋の尾根が見違へるやうに隆々と連なつて見える。
再び森林に入ると樅、栂を混へた濶葉樹林は、やうやく深くなり脊梁山脈の片鱗を見せてくる。途中に吹き晒された半壊の大きな祠があった。昔は相當立派なものであつたらしい面影はあるが、荒れはてて哀れな姿である。それを過ぎると又倒壊した鳥居があつた。其処から東側の深い谷に沿うて登ると左に「神武天皇御遊幸の地」と書いた立派な記念碑が建つてゐる。最後は急斜面を突上げて廣い頂上の墓地に出る。焚火の跡が何箇所も残つてゐる。村民が一夜を過したものらしい。三角點はその北側の隅にあつた。わづかに梢を洩れて日が射してゐるのみで眺望もないが、今日一日の労苦を思ふと頂にゐるといふだけでも愉しい。
又空模様が悪くなって来たので、急いで頂上を下る。登った道をひきかへし、鳥居の横から七ッ山越の道に岐れる。深い密林でその底から溪流の音が氣持よく響いてくる。この溪には十分誘惑を感じたが時間もないので峠へ急ぐ。峠道に出ると思ひがけない幅一間もある立派な駄道で、日の目もみない小暗い密林の中にこの大きな林道があるのは、余程大仕掛な伐採を行った跡と思はれる。空には高壓線が密林の梢を横断してゐる。
九七四米の肩で一休みしてゐると小雨が落ちてきた。氣分は至極抒情的になったが 諸塚山の裏に出ると、谷は散髪したやうに伐採されてゐて、峠は下るほど無味なものとなってしまつた。
秋元に降り、「神武天皇御腰掛岩」といふのを見、近くの店で「これしかない」と出された桃の罐詰に僅かながら糖分を補給し、最後の頑張りで五ヶ瀬川のバス乗場まで、腹の立つ程曲り曲つた道を強行する。小休止に腰を卸してゐても、すぐうとうとしかかる疲労し切った身體へ向も鞭をうつて、五ヶ瀬川を下る時は足もまったくいふ事をきかないまで使ひはたしてゐた。
高巢野の茶店でバスを待つ間に休憩をとり腹を拵へると、後はどつと睡くなり、バスで日影驛へつき、汽車に乘込むとその儘死んだやうになつて、延岡に着いても氣付かず、汽車が日影へ引返す時になつてはじめて氣付いて慌てて降りる始末であつた。
昭和一六年九月二一日 川水流驛六三〇 清水峠九一五 石峠一一三〇 中小屋一三〇〇 九左衛門峠一四四五 廻淵一六四五 七ッ山一九五〇  二二日 七ッ山八〇〇 小原井九四〇 紋原一一三〇 黒ダキ一二四五 頂上一三三〇 紋原一六三〇 小原井一七一五 二三日 小原井五〇〇 宮ノ元六一五 飯干八一五 諸塚山一一〇〇 七ッ山越一三五五 秋ノ元一六〇〇 高巢野一七五五 日影駅二〇四二 延岡驛二二二二

橋本三八『九州の山脈』朋文堂、昭和十九年(一九四四)


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