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三好利八と『椎葉村史』

柳田国男が明治41年5月24日から8月22日の九州旅行の際に立ち寄った椎葉村において、中瀬淳氏とともに案内した人物として登場するのが三好利八である。この人物について問い合わせがあった。千葉徳爾が『諸国叢書』二輯の解題に「三好利七」と書いてあるが、牛島盛光や山口保明は「三好利八」
と表記している。どちらが正しいかという内容であった。この問い合わせについての結論から言うと千葉の誤字であるが、これまで、あまり椎葉村について調べる機会がなかったので、資料を引っ張り出して、解る範囲でまずはこの人物、三好利八について情報を整理しておく。

前述の千葉の文章は「狩に関心の深い村長中瀬淳氏地域の歴史を研究していた小学校長三好利七(八)とが、柳田先生にこの土地の生活とその史実とを交〃、提供したことがらを、先生の解釈を加えて記録したものである」とある。

ネット情報を検索してまず出てくるのが、「椎葉山根元記」の解説で「明治三九年三好利八が「椎葉村史考」第一巻に収めた書写本が那須家に残る。」という文章である。

https://kotobank.jp/word/%E6%A4%8E%E8%91%89%E5%B1%B1%E6%A0%B9%E5%85%83%E8%A8%98-3105761

松尾宇一『日向郷土事典』には、「神代の日向 郷土史家三好利八著、著者は宮崎郡佐土原町の人、国大に学び地歴を専攻し、永く教育界にあつた。昭和9年5月発行。」とあり、郷土史家、『神代の日向』という著者、佐土原町出身、國學院大學で地歴専攻出身であったことが分かる。

おそらく「神代の日向」とあるのは、三好利八『神代之日向国』のことであろう。この著書は国会図書館デジタルコレクションでも閲覧できる。

さらに検索していると筆者のnoteが表示された。

なんと、『日向郷土志資料』第六輯(昭和7年6月)以降の執筆者にその名前が散見される。前述の『神代乃日向国』は、昭和9年、文華堂書店からの出版である。文華堂書店は、小倉栄嗣が社長を務め、日野巌とともに『日向郷土志資料』を途中から刊行する出版社である。

三好利八の執筆は以下の通りである。
第六輯、昭和七年六月、
  三好利八「日向文学■印に就て」
第十六・十七合輯「佐土原・妻・西都原」特集、昭和十三年四月、
  三好利八「佐土原の伝説地」「佐土原の刀匠」「佐土原の方言」
執筆内容については、後日、紹介することとして、さて柳田国男を何故三好利八が案内することになったのかといえば、当時、椎葉村内の小学校校長で、地元の歴史について詳しかったからと思われるが、三好が著した『椎葉村史』はその詳細が不明である。

昭和35年の『椎葉村史』の序文には、「佐土原町の郷土史家三好利八氏が、本村の教職にあった際著わされた『椎葉村史』がある」と紹介されている。

「三好利八」「椎葉村史」で検索しても、宮崎県立図書館では出てこないが、国会図書館で調べると下記の文献が出てくる。
『宮崎県西臼杵郡椎葉村史』
書誌情報
出版者[出版者不明]
出版年月日[出版年不明]

おそらく、これが三好利八『椎葉村史』に当たるのだろうが、詳細は不明である。ネットで「三好利八」を検索すると、日本の古本屋に『椎葉村史』があった。

昭和7年の印刷なので、謄写版を昭和7年に印刷したのかも知れない。
今後、出版年について情報を収集していきたい。

三好利八が椎葉村の校長であったことは、次の資料にあった。

柳田が訪問した翌年の資料であるが、明治42、43年に椎葉村桑弓野農業補習学校の校長であった。

三好利八は、國學院雑誌に度々寄稿しているので、以下に紹介しておく。

日向国府址の研究 / 三好利八/p55~62

石川先生追悼文 / 佐々木行忠/p57~95
先生こそは道徳実践の権化/三好利八

【参考文献】
牛島盛光『日本民俗学の源流―柳田国男と椎葉村』
飯田辰彦『山人の賦、今も』
飯田辰彦『のさらん福は願い申さん』
江口司『柳田国男を歩く』
山口保明『宮崎の狩猟』
山口保明「日向の狩猟とその伝承」宮崎県立図書館編『宮崎県地方史研究紀要 第14輯(昭和62年度)』宮崎県立図書館
千葉徳爾「解題」『諸国叢書』二輯

今後、追記していきたい。

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