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宮崎県沿岸部の漁法について

『宮崎県地方史研究紀要23 』(宮崎県立図書館、平成9年3月)原稿

はじめに

 宮崎県における民俗研究は全般的に遅れているが、神楽、狩猟、焼畑をはじめとした山の民俗や小野重朗氏が年中行事とともに調査した稲作や畑作の民俗などは比較的研究の進んだ分野といえるであろう。しかしなかでも漁村の民俗については手の付けられていない。
 宮崎県の漁撈習俗全般に関しては田中熊雄氏の報告『日向の漁撈習俗』(註1)があり、これは後に『宮崎県史 民俗1』(註2)にまとめられている。また漁村の民俗誌としては沢武人・泉房子両氏による『離島調査報告書 島野浦の歴史と民俗』(註3)(宮崎県総合博物館、昭和四九年)があり、歴史史料・民俗資料が豊富に盛り込まれたものである。漁法に関しては『宮崎県漁具図譜』(註4)が代表的な地域の漁具、漁法を具体的に図面で紹介してあり詳細である。また『日向地誌』(註5)では「物産」の「動物」の項に魚種と漁獲高が記されており、近世末から明治初期の魚種・漁法についての参考資料となるであろう。
 本稿では、宮崎県の漁撈習俗を研究するうえで重要かつ複雑な漁法について、文献資料を中心に整理し地域的特色を把握する。

一、宮崎県沿岸部の魚種

 1、漁種の特徴

 ここでは、県内の各漁村でどのような魚種が漁獲されてきたかを昭和二十九年の『水産資料』(註6)で見ていくこととする(表1)。

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さらにあわせて『みやざきの魚』(註7)などを参考に魚種の地域性についても簡単にふれていく。また最後に漁業暦(註8)を紹介しておく(表2)。

表2文書名渡辺一弘「宮崎県沿岸部の漁法について」『宮崎県地方史研究紀要』_ページ_2

ウルメイワシ(方言マルゴ) 沿岸性の回遊魚。体長は一歳で約一六センチ、三歳で約二二センチで、寿命は五年前後である。漁法はまき網、定置網、パッチ網などあり、宮崎県ではまき網が中心である。食べ方は刺身やオビキ(頭、内蔵をとり、皮を剥いで三枚におろす)にし、醤油や酢醤油にショウガを添えて食べる。煮付けや塩焼きでも食べる。
カタクチイワシ シラス漁場は大きな河川水の流入域に形成され、この八~九割がカタクチシラスである。シラスはチリメン干し、未成魚はイリコやゴマメ、成魚はミールや養殖餌料、干し物、カツオ釣りの活餌として利用される。シラスは鮮度落ちが早いのでパッチ網(船曳網)で水揚げされると三〇分以内に釜で煮て天日で乾燥される。カタクチイワシの漁獲はマイワシと反比例し、昭和四九年以降はマイワシが増加し、カタクチイワシが減少している。
マイワシ 他のイワシと違い体側に一列になった黒点が大体七つあり、「ナナツボシ」ともいわれる。回遊魚で、夏季になると北海道まで北上し、冬季になると南に下だる。漁法は巾着網が主である。
カツオ 三月から五月にかけ暖流にのって日本近海へやってくるが、それには二つのルートがある。一つはフィリピン近海、沖縄、九州南部、中国、紀州、関東、三陸へ向かう黒潮系と、もう一つはミクロネシア、小笠原、伊豆七島、本州列島沿いに三陸沖へ向かう群がある。秋に南へ向かう「下りガツオ」は初夏につぐ旬である。漁法は一本釣や曳縄である。
マグロ マグロは大きく分けてマグロ類とカジキ類に分類され、マグロ類にクロマグロ、ビンナガ、メバチ、キハダ、コシナガなどがあり、カジキ類にはマカジキ、クロカジキ、シロカジキ、メカジキなどがある。八キロ以下のヨコワと呼ばれるクロマグロの幼魚は曳き縄などでとられる。キハダマグロは宮崎でシビと呼ばれる。本県のマグロ延縄漁業は明治三六年県水産試験場が千葉県布良から漁具を導入したことに始まる。ビンナガマグロは、ビンナガ、ビンチョウ、トンボと呼ばれる最も小型のマグロである。ビンナガはカツオ一本釣り(五~七月)、マグロ延縄(一~三月)、曳縄(三~四月)でとられる。良質のシーチキン缶詰はその年の近海ものを使う。
サワラ 幼魚をサゴシといい、新富町日置の地曳網で漁獲し、大阪方面に出荷されたという。サワラ・サゴシは宮崎市青島では正月飾りのオバンザオに飾られていた高級魚の一種である。漁法としては流し網、まき網、延縄、曳縄などあるが、日向灘では春と秋に曳縄でとることが多い。串間市ではおとりを利用したサワラ突き(註9)が行われている。
シイラ 宮崎ではマンタ、マンビキという。シイラが流木などにつく性質を利用して県北などではシイラ漬けという漁法がある。竹を束ねて海面に浮かせ、竹竿の先に前にとったシイラをくくりつけたオトリマンタというもので海面をたたき、シイラ漬けについたものを網でとる。
トビウオ 日本近海には二四種類ものトビウオがおり、日向灘には、五、六月にツクシトビウオ、六月頃にホソトビ、七月頃にアヤトビウオ、九月頃トビウオ、十一月頃ハマトビウオなどがやってくる。漁法にはトビ流刺網、トビ敷網、トビ延縄などがあり、現在定置網と延縄が多い。飛魚は海流にのって寄り来る魚種として、鰹と並んで、様々な視点から研究の対象となってきた。下野敏見氏による屋久島のトビウオ招きの儀礼(註10)を中心にした研究や野地恒有氏による回遊魚と回遊漁民との関連を指摘する研究(註11)、漁撈技術について川崎晃稔氏の詳細な報告(註12)などがある。

 2、魚種の方言

 『みやざきの魚』(註13)と『宮崎の海釣り』(註14)に掲載された魚種の方言名のみを次に列記しておく。( )内が地方名である。

 アイゴ(アイノバリ・イソエ・バリ・ウエ・ウニ・ウミエ) アオブダイ(アオイガメ・バンド・アオバチ・バチ) アオメエソ(メヒカリ) アオリイカ(ミズイカ・マイカ) アカアマダイ(ビル) アカハタ(マアカバ・アカホゴ) アカメ(マルカ) アラ(ユラ) イサキ(ハダサコ・ハンサコ・ショウフ) イシガキダイ(チシャ・コリウオ・コメジシャ) イシダイ(コリウオ・シシャ・チシャ・コテ・コリ) イシモチ(シログチ・グチ) イスズミ(キチ・シツオ) イタチウオ(ナマズ) ウシノシタ(ベロ) ウチワザメ(ナベノフタ) ウツボ(ヒダコ・ヒダカ・キダカメ) ウマズラハギ(ハゲ) ウルメイワシ(マルゴ・ウルメ・セタ) オキアジ(クロエバ) カイワリ(メツテエ・オニバエ・エバ) カサゴ(ゴチョオ・カガラ・アカバ・オゴゼ・ゴチョホゴ・ホゴ・イソホゴ・ホゴジロ) カタクチイワシ(タレ・セグロ・タレクチ) カマスサワラ(オキザワラ) カワハギ(キンソバ・キンツハゲ・ハゲ・ホンハゲ) カンパチ(ニリ・アカバナ・ソジ・アカバラ) キダイ(レンコ) キハダマグロ(メジ) キュウセン(ベラ) クエ(アラ・サヤゴ・ヌメリコ) クサフグ(シオセ) クロサギ(マケラ) フロサバフグ(アオフグ) クロダイ(チヌ・チン) クロマグロ(ヨコワ・マグロ) サカタザメ(コツザキ) シイラ(マンタ・マンビキ・ヒス・マビキ) シマアジ(ヒラアジ) シマイサキ(スミヤキ) シュモクザメ(カネウチ・ツマル) シロカジキ(シロカワ) シロサバフグ(キンフグ) スズキ(セイゴ) スマ(ヤイト) タカノハダイ(ヒダリマキ) ダイミョウサギ(マケラ) チダイ(チデ) ツバメコノシロ(アギナシ) ツムブリ(チョカキン) テンス(ナンキモ) トビウオ(ヒジロ) ニザダイ(コベ・サンノジ) ニベ(クイチ) ネズミゴチ(ノドグサリ) ノミノクチ(イギス) ハマフエフキ(クチミ) ハリセンボン(イガフグ) ヒイラギ(ヒラゲ) ヒメジ(メンドリ) ヒラマサ(ヒラス) ヒラメ(カレイ) フエフキダイ(タバミ・タマミ) ブダイ(ハチ・イガメ・ゲイシャ) ブリ(ハマチ) ヘダイ(ヘイマ) ホウセキハタ(イギス) ボラ(ツクラ・イナ) マイワシ(ヒラゴ) マツダイ(カラス) マトウダイ(マテ) マハタ(アラ) マルソウダ(メジカ) マンボウ(マンダイ) ミナミホタテウミヘビ(ドテトオシ) メイチダイ(メダイ) メジナ(クロタコ・グレ・タコ) メダイ(モチウオ・タルメ) メバチ(ダルマ・バチ) ヨコスジフエダイ(シブ)

二、宮崎県沿岸部の漁法

 宮崎県沿岸部の漁法の特徴については、一般に北の網漁、南の釣り漁といわれるが、それは延岡市のブリ大敷網などにみられる定置網が入り組んだ日豊海岸の地形にあっていることや、黒潮の海流を利用した近海カツオ漁から日南市や南郷町でのカツオ・マグロを求めての遠洋漁業への移行したことなどからのイメージであろう。
 しかし、漁業ほどその技術進歩の早い生業はなく、魚がとれればすぐにその技術を導入するので、北であろうと南であろうと漁法はすぐに伝えられ、現在ではどの漁法がその地域の特徴かなどについて言及することが難しい状況である。こうした漁村における技術革新は特に明治以降急速になった。なかでも漁船の動力化が漁場の拡大、遠洋漁業を可能にした。ここでは昭和二十九年の『水産統計』(註15)を紹介するが、この資料からは古くから存在していたであろう地域の漁法の特徴と、新しい技術の導入によって均一化してきた漁法が読みとれる。次節の地域別の漁法と合わせて参考資料としていただきたい。

表3文書名渡辺一弘「宮崎県沿岸部の漁法について」『宮崎県地方史研究紀要』_ページ_3

 つづいて漁法の改良について紹介するが、漁業関連資料は記録が少なく、なかでも釣り漁など個人的なものに関しては資料が特に少ない。ここでは網漁を中心にその起源と改良に関する資料を紹介する(註16)。

  第二水産博覧会へ当組合より出品せる各種漁具に実する取調事項、左に及御答申候、尤も各種各事項共由来甚だ不分明にして、頗る其要領を得て■■伝記の之を徴するなきと、県内旧藩封土の錯雑に彼是入会漁業を為さざりし為め、使用漁具の本源は沓として今日より認め難く、例へば或は一種の網具に就き、各地に於て其起原を討ぬれば各地皆自己の居住する漁村を以て、其網の起原地とするが如き情況にして到底信を措くを得ざる有様に候、只為参考左に稍々信憑すべき事項を故老■伝等に由り列記致候、
一、岡富村大字方財島高島新三郎出品
 中曳網は寛政元年の頃、紀州塩津村の人(姓名不詳)、方財島に一ノ鰛網(方言をモガタ網)を持ち来たり使用せし後、高島新三郎の祖先新蔵と同心協力し改良したるものあり、之をシバリ網と云う、然るに新蔵之を基礎とし取捨工風をなしたるもの、即ち中曳網なり、其後新三郎に於ても亦所々に改良を施したり。
一、同村同大字高濱源太郎出品
 追込網は一名タタキ網と称し、従来使用せし普通の鰛網を基とし文政元年の頃塩月春治(方財島の漁業者)の祖先清兵衛工風したるものにして、高濱源太郎更に改良を施したり。
一、北浦村大字市振酒井万太郎出品
 鰛まかせ網は酒井万太郎、明治二年頃地曳網より案出したるものにして、始めは普通の地曳網の網袋の下端に網を付し曳き揚げたるものなりしが、効果宜しからず、故に種々考案の上、明治十九年の頃、大に構造を改良せり。
一、同村同大字吉田善十郎出品
謀計(棒受)網は今を去る数百年前本県東臼杵郡南浦村大字島野浦の人(姓名不詳)、大分県蒲江村より移したるものにして、終に北浦市振においても使用せり、然るに善十郎も明治元年より本業に従事すと雖も、少しく完備せざる所あるを以て漁獲意の如くならず、故に構造等改良を施せし為に漁獲高年々増加せり。
一、鰤刺網
 該網は凡三四十年前より使用し来る、其最も主たる漁村は南那珂郡及び東臼杵郡細島等とす、但始めは嚢を付せず、只其刺羅りて目的とせしが、近時豊後コビキ網に倣い、袋を加え嚢中に駆り入るると、袖網に刺さしむるの両途とせり、
 凡て該網と近年大に其使用を減じ、県下を通じて廿張に過ぎず、是れ近来一般に大敷網を以て鰤を漁獲するによる。
一、棒浮子網
 該網は名字の示す如く、其始めは浮子に一の棒を用い、極めて構造の小なる者なりしが、後年に及び此の如く大なる網となり、浮子も板を用するに至れりと云う、其起源は詳ならず。
一、鰹餌網
 該網は鰹の餌料なる鰛を捕う、但其構造の此の如く小なるは常に鰹漁船に備え置き、出漁の際、先ず之を以て餌魚を捕ふるに過ぎざれば、特に簡便を主とするなり、其起源は宮崎郡折生迫漁村に在りと云う。
一、ナゴ網
 此網も亦岸辺の小魚(即ちナゴにして鰹の最一良餌)を捕らえるが故に、最も軽便の構造とせり、此網は南那珂郡目井津漁村のみに於いて年来之を使用す、是れ該小魚の同地にのみ多きと聞る。
一、手繰網
 該網は県下一般之を使用すれども其
網を使用するは東臼杵郡門川村是と同地近海は砂底にして風波の穏なる処なるを以てなり起源詳ならず。
一、ネリゴ網
 該網はカンパチの稚魚を捕獲する小なる刺網なり、古来専ら宮崎郡折生迫漁者之を使用す是れ同地の付近に該魚・群集する一個の好漁礁あるに由ると云う。
一、ヘント網
 該網は東臼杵郡細島近傍ら、其起源地とすと云えども、甚だ明らかならず、但嚢の上辺に魚の出口を倶ひたるも亦同地より始まりたりと云う。
右之通に候也、
 明治三十一年二月三日
      宮崎県漁業組合本部
 宮崎県内務部御中

 全国水産博覧会は漁業者の漁具の発達をすすめるうえで新しい漁法改良の情報を得る良い機会であり、各都道府県から代表的な漁法が報告された(註17)。
 前の資料が県北を中心にした報告であるので、次には県南の資料として『都井村史』(註18)を引用する。

飛網 本漁業の元祖は立宇津小網なり、元禄の交鹿児島県種子島に於ける同漁法を伝え之を改良したるものなりと宮之浦浜網も同年代の創設なりと伝うるも何れも確たる口碑なく、其如何なる人に依って創始せられたるか不明なり、次で立宇津大網、宮之浦在網、黒井網、今町金屋網等を見るに至れり、之旧藩時代に於ける制限網にして、之以上には 濫りに新設を許されず、迫、宮原網の起こりは明治の初年にして、廃藩後制限解禁後の設置なり。
 (中略)漁法改良の議は常に当業者間に交換されたりと雖も、入漁慣行の広きと、漁業者の一致心に乏しきとは之が決行を見るに至らざるを遺憾とせらるる明治三十六年には迫、宮原、黒井の三部落共同の下に沖廻網を試みたるも当年は魚群少なく、且つ網の構造及使用法の欠陥に依り、遂に失敗に帰し一年にして之を廃したるは残なり。
瀬立網 弘化、嘉永の交、大隅の国佐田村の人にて萬太郎と云へるが瀬立網を持参し数名の舟子を同道して、宮之浦沖合、ゾーズ、善五郎に布設したるを嚆矢とす、永坂吉六・浜田寅衛門、土肥甚吉、氏等が伝授を受け爾来鰾立網として本村特殊漁業となるに至れり。斯くて漸次発達し一時本村唯一の漁法として歓迎せられ、遂ひに他郡に出漁を試むる盛況を見たり、都井方面にては中ノ瀬、地バイ等が古き漁場なり。近年に至り黒井地先に新アジロを発見し相当漁獲を上げつつあり、而して宮之浦に於ける本漁業権者河野善次郎外三十九名は、大正九年二月本漁業権を放棄し、改るに鰤大謀網式漁場を以てし、並びに全く宮之浦瀬立網を休止したり。
マカセ網 本漁場は都井前ツボを中心とせる沖廻船引網にして、嘉永の交大分県臼杵の人にて井上重吉氏の伝授に起原せり、立宇津独特の漁業にして年々相当漁獲あり。
謀計網(棒受網) 鰯鰘を目的とし明治廿四五年の交大分県より伝はれり、爾後大いに盛大となり、明治三十年より同四十年頃には村内にて約二十張の出漁を見たり、口ノ園、白ハエ、中瀬等が当時有望の漁場とせられたり、明治の末世より漸やく衰へ、大正に入りては全く其影を存せざるに到れり。
鰤大謀網 大正九年二月前記河野善次郎外三十九名が、鰤大謀定置漁業免許を受け(之を第一号と名ず)、東臼杵郡伊形村赤水日高栄三郎と共同経営を以て布設したるを嚆矢とす、本漁場開拓に際し奔走したるは永坂藤蔵氏なり、其効績は決して没却すべきに非ず、而して前記四十名が宮之浦唯一の瀬立網を廃し、本漁業に変更したるも亦大いに紀念すべき英断と謂はざるべからず、(後略)

地曳網 地曳網は多くの砂浜で行われていた漁法で、季節の風物詩(註19)として多く人々の記憶に残されているようである。この漁法は漁村のみで成り立つものではなく、多くの農村から協力に来ていたということにもよる。現在地曳網は新富町三納代や日向市のお倉ヶ浜で観光用に行われているのみである。地曳網漁業の歴史や漁法については『檍郷土史』(註20)に詳しい。また、明治期からの宮崎平野部沿岸地域の地曳網が産業として成り立つようになった歴史的な背景については、新富町三納代の山西水産の歴史(註21)が参考になる。
ブリ定置網 宮崎県の漁具改良の歴史のうえで重要な人物として日高亀市が上げられよう(註22)。寛永年間に紀州より移住してきたという日高家は元禄二年(一六八九)に現在の延岡市赤水に移住。弘化二年(一八四五)生まれの亀市は底刺網によるブリ漁法を改良し、沖廻刺網を発明した。しかし過剰操業とブリの来遊が減ったため明治十七年廃業に追い込まれる。その後亀市は長男栄三郎とともに漁具漁法の改革に取り組み、明治二五年日高式ブリ大敷網によるブリ漁に成功した。国内の博覧会ではブリ敷網が毎回一等賞を受賞、明治四二年ロンドンでの日英博覧会でも一等賞を受賞した。明治四三年には緑綬褒章、大正元年には藍綬褒章を賜り、大正三年には日本水産会総裁から功績賞を受けた。

三、地域別漁法の特徴

 ここでは特色ある漁法を市町村別にみていきたい。文献資料と聞き書き資料をもとにまとめていくが、資料によりその内容が異なるためにそれぞれの資料を整理する。

【北浦町】

 『民俗事象調査』(註23)には、刺し網・棒受け網・地曳網・大敷網・磯建網・ゲートーキ網、イカ釣・イサギ釣・マグロ釣、ひじき・天草の例があげられている。
 『北浦村史』には、棒受け網(いわし・さば・むろ・あじ・たれ)・流し網(北浦湾内では、ひらごいわし。湾外では、うるめいわし・ぶり・たい・いか)・地曳網(きびなご・ぼら)・へんとう網(まぐろ)の例があげられている。(註24)
 『ふるさと北浦』には、天草取り(具体的記述有り)、地曳網(具体的記述有り、キビナゴ)、伊勢エビ漁(タコを使った方法は北浦で発明された。)、巾着網(取れた鰯・鯖は冷凍保存してハマチの養殖の餌にした。)、棒受網・定置網、一本釣、素もぐり、いさり漁、磯建網、小巾着網、底曳網の例があげられている。(註25)
 磯魚追い込み網(ハゲ網)漁は、伊予(愛媛県)から伝えられたといわれており、戦前から昭和四十年頃まで当地で行われていた漁法である。イサギ・グレ・タマメ・コリ・クテなどの魚を獲った。おどしを付けたブリヅナ(おどしを下げた綱)は、長さ八百~千尋。カリ網は長さ百五十~二百尋程、高さは身長程。カリ網を二隻、ミ(箕)網を一隻、ブリヅナを積んだ船が四隻の計七隻で漁を行った。全員で二四~二八人程度。北浦町宮野浦で四統あった。延岡市安井町に一統あった。真っ白になったサンゴの死骸を縄に通したおどし(イチョマン)を全部の船の表から下げる。十二、三人は潜って、箕網の口に縄を結ぶ。七~八尋の深さに潜って網をせっていた。タテ網、箕網、セリ網(鉛の重りが付いていて、海に落とすとすぐにしぼむ)、ソデアミ(箕網の袖に付いている網)で構成される。ミアミだけは黒い染料で染めた。伝馬船には、四人が乗り込み、艪を漕ぐ人が一人、網を引く人が二人、網が狭まった時にイチョマンを揺さぶる人が一人の最低四人が必要となる。潜る人は他より一・五倍の報酬をもらった。全員が潜れたわけではなかった。大分県蒲江町の大正丸や兵庫県神戸市の住吉丸などの生船(ナマセン)に積み込んだ。
 エバ網(シマアジ)漁は、沖から陸に向かって「振り出し」(裸)の人間を泳がせながら、それにシマアジを付かせ、100尋位の網を積んだ伝馬船(二隻)で囲んで箕網船から箕網・ソデ網・タテキリを落としてとる方法である。泳いでいる時にシマアジが付くと静かに手を挙げて伝馬船に知らせる。声を出したり不自然な動きをすると逃げられるという。発見した人は「ミテノシロ(見手の代)」(見つけた報酬)をもらった。

【延岡市】

 『民俗事象調査』には、ブリ大謀網・建網・棒受け網、ひじき・はば・天草・鮑、アバの例があげられている。
〔延岡市鯛名〕
 すくいタモ漁によるモジャコ(ブリの子)漁は、鯛名地区の最も伝統的な漁法であったが、現在水揚げの半分を占めているのは、モジャコ巻網漁(四月後半~五月後半)である。海面を浮遊する藻の周りにつくモジャコを大きなタモですくって獲っていた。獲れたモジャコはその日のうちに、当時ブリ養殖をやっていた赤水に買ってもらっていた。船は、二トン程の木船。焼き玉エンジンで、一人乗り。近場で漁をしていた。
 底引き網によるメヒカリ漁は七月から翌年の四月までで五、六月は禁漁である。昔は、深海エビ(ヒゲナガエビ)を深海底曳網によって獲る際に深海エビに混じって獲れていた。沿岸底曳網がクルマエビ・ヒラメ・ハモなどを対象とするのに対し、深海底曳網では、メヒカリ・深海エビを対象にしている。現在、深海底曳網を行っているのは鯛名(六隻)と北浦(六隻)と青島(四隻)と土々呂(二隻)のみである。
 磯建網による伊勢エビ漁は九月一日から翌年四月十五日までであるが、主は九、十月である。刺し網では、アジ・タイ・イシダイ・カマスなどを年間を通してとる。
 釣漁としては、カツオマギリ(曳き縄)が主体である。五トン未満の船で、両舷から出した竿から六本、船尾から一本、計七本の縄を曳いて釣る。カツオ以外にもシビ・ヨコワ・シイラもとる。
〔延岡市安井町〕
 磯建網による伊勢エビ漁は昭和初期から行われていた。四月一日~九月一日は禁漁期で、この期間は伊勢エビをとらずに、この網を浜建網としてウシノベロやコチをとった。昼の二時頃から出て四時頃には網を仕掛け終わり、遅い人でも夜中の二時頃には網を揚げた。
 獲った伊勢エビはエビカゴ(イカシカゴ。地元でクロ竹で作る)に入れて、生け簀に浸けていた。大分県から仲買人がイカシ船で来て問屋から買った。
 昔は帆船で漁をしていた。浦城の近くまで行くとかなり時間がかかった。冬は風が出るので片道は帆をかけて航海した。船は三尋船であった。網は綿糸網であった。延岡の店で綿糸を購入し、自分で思い思いの目合いにすいていた。アバ(浮き)はイサギの木を使っており、ナタで粗削りをして小刀で仕上げ、ハナツキ(コウモリ傘に似たもの)で調整した。おもりは焼きユラ(瓦土で焼いたもの)といい延岡市伊形で瓦を焼いている人に注文した。ユラ縄はシュロの皮にイサギの木の皮をほぐしたものを混ぜて自分の手でなった。網をすく際のアバリは自分で竹を切って作った。
 棒受け網では、イワシ・サバ・ムロなどをとった。現在の巾着網以前の形態である。夏の昼、六尋船に六~十人が乗り込み行っていた。船を流しながら風が凪ぐ時分に、沸き上がってくるイワシを見つけ、餌づけをして網の中に誘い込んで獲った。
 四張り網はマイワシが主体の冬の夜の漁である。無動力船を使っていたが、四隻の網船と一隻の灯船を使い、網船の長さは四尋程度。船幅五~六尺程で、灯船は長さ三尋、幅は四尺五寸~五尺程であった。 追込網は田植え時期、六月~八月頃の昼間の漁であった。地区を挙げて若者が行った。門川から美々津辺りまで行っていた。戦前から終戦中にかけて行っていた。藁縄に、白いペンキを塗った板を下げたり、白布を巻いたりして魚を脅したり、石やサンゴに穴を開けたものを船から垂らして、魚をタテキリ網(高さ六、七尋)に追い込んだ。タテキリ網は、若者が数人で潜って、肩に網をかけて海底を這いながら引いて行った。海底が比較的平らな所でないと効果がなかった。海底が凸凹していると魚が逃げてしまう。一隻の船に五、六人が乗り込み、安井地区で四〇~五〇人が出ていた。時には、タテブネ(ナマセン。魚を生かした状態で運ぶ船)いっぱいに、イサギ・イシダイ・クロハゲなど何千貫も獲れることがあった。タテブネは大阪辺りまで搬送した。
 イワシ巾着網は、戦後島野浦や市振辺りの船がイワシまき網を始めた影響で、我流でイワシ巾着網を始めたが漁は良かった。四、五月頃まで漁をしていた。イワシのまき網が島野浦辺りで盛んだったのは太平洋戦争が始まった頃で、この漁が盛んになり棒受網による漁が衰えた。当時の漁の形は今と異なり、モロテと呼び、網船二隻とそれを引く漕ぎ船二隻、灯船二隻、計六隻で漁を行った。
 テグリ(手繰、底曳網)漁は、小さい藁縄をたぐって漁をした。カナガシラ(ホウボウに似た魚)やトウモリ(イシダイに似た魚)を獲っていた。
 マギリ漁には、冬、北風の吹く新正月~旧正月にかけて漁に出た。シビコやヨコワをとった。擬似餌(昔は牛の角や馬の毛、ニワトリの毛を付けたもの)を用い、帆柱の上や船の両舷から直接、三、四本竿で曳縄を流して釣った。普通、トモロ、ワキロの二チョロ(丁櫓)の船で漁をしたが、マエロのある三チョロで漁に出ることもあった。船の長さは、五、六尋程度。親子で漁に出ていた。船の帆柱の数は二本。戦中まで船を見ることができた。戦後は、姿を消した。
 素潜り漁も行われた。戦争で男手がない時、素潜りの講習のために、県の招きで三重県から夫婦の講師が来たことがあった。女性の人を対象に講習が行われた。トコブシを一日二、三貫ほど獲っていた。
 その他では、「持ち合い」といい、漁によっては安井地区の寄り合いで船を使い分けた。出した船は分け前が多かった。また獲れたもの(ヒダリマキ・ムギヅル・アカバなど)をホゴカゴ(天秤)に入れて坂を越えて追内から東海、延岡と行商に出る女性もいた。また、北浦・南浦方面から延岡に向かう巡航船に下ろすこともあった。船幅は、広いと速く漕げないが多く積める。逆に狭いと速く漕げるがあまり多く積めないので目的に応じて使い分けた。

【門川町】

 『民俗事象調査』では、刺し網・追い込み網・カツオ釣・ブリ釣・マグロ釣・ガラモ採りなどがあげられている。
 『門川町史』(註26)には、流し網に関する文政五年の記述があり(三一七頁)、『ふるさとの轍』では、棒受網(鰯・鯖。ビロウ島)・巾着網(鯖・鰯主体)・地曳網(具体的記述有り。一〇二頁)・片手巾着網・小型底曳き・ブリ大敷網、ミナ拾い、マカセ網・追込網・刺網・船曳網(チリメン網)・いりこ網、カツオ一本釣、手繰り網、鰯巻き網などがあげられている。(註27)
 門川町の漁村の調査報告としては社会学からの詳細な報告が発行されているので、『近郊農・漁業の研究』(註28)から概略見ていく。
 門川町尾末では、二百年も前から「鰛巻かせ網」が行われるようになったとされ、当時の俗謡に「川内ではやるは樫やたら、尾末ではやるは巻せ網」とあり、当時の盛況を物語っている。その後「巻せ網」は追込網にとってかわり、棒受網とともに鰛漁業の中心となった。棒受網は漁船の小型発動機装置や火光利用(大正十二)により、漁獲高も飛躍的に増大した。夜焚原料として肥松を使用していたが、価格騰貴により明治四十一年に「カーバイト」を導入し、昭和になりバッテリーへと転じた。また鰹の餌用の小鰛類の漁獲は小規模の二艘張網の使用から火光利用(昭和五年)の縫切八田網の出現により更に発展し、さらに島野浦から巾着網が導入されるにおよんで網漁業は拡大された。明治四一年に静岡県焼津から動力漁船が導入された。明治末期、網漁業に先んじて鰹漁業が動力化し、大正期を通じ釣漁業は沿岸から沖合近海へと他県出漁の形態をとった。(註29)
 門川町尾末の漁業は、網漁業として棒受網ー舟曳網ー縫切八田網ー揚繰網(巾着網)の系譜と、釣漁業として一本釣ー延縄ー鰹釣漁業と対蹠的な二つの漁業に分けられる。沿岸漁業としての網漁業では、棒受網・舟曳網を、釣漁業では一本釣・延縄漁業があげられ、沖合漁業として、網漁業では八田網・揚繰網を、釣漁業では鰹釣漁業をあげることができる。(註30)
 門川町庵川での明治後期の漁業は、小型定置網(イワシ)が明治三五年頃、ボラ廻網が明治二十年頃、ハモ延縄が明治三十年頃、ボラ桝網(地獄網・タンポ網)が明治末期からそれぞれ始まったという。小型定置網としては桝網、台網類の小型があり、イワシ取りとしては追込網・小型定置網があった。磯建網は明治初期にはすでに使われていたといい、中期以後盛期になった。イリコ製造は尾末より庵川が古い。種々雑多な魚種が対象であるが、イセエビとハモが主要な漁獲物である。(註31)

【日向市】

 『民俗事象調査』には、刺し網(棒受網)・地曳網、一本釣り、延縄、ワカメ・ヒジキ・天草、鮑・サザエ・カラス貝、定置網、夜焚き、丘テグリ、地曳網、投げ網、ボケ網、刺し網、一本釣り、ワカメ・ケコ、キキンベ・カラス貝があげられている。また『美々津郷土誌』には地曳網について具体的記述がある。(註32)。

【都農町】

 『郷土調査』(註33)には、地曳網・四つ張網・鰛さし網・鰆流し網・手釣一本釣・のび網・曳き網があげられている。(註34)江戸時代中期以前の漁の形態は、立て網漁と陸ひき網漁が中心と、「高鍋藩・本藩実録」の明和九年の町別当緒方家に関する記載がある。

【川南町】

 『川南町史』(註35)には、一本釣り(小鯛・鯵・鯖 細島からの移住者。)・鰯刺し網、天草・カジメ、刺し網、謀計網(棒受網)、海老建網、鯛延縄・鯵一本釣、サワラ曳き縄、鱶延縄、密漁船の記事などが記載されている。通浜の下浜地区には、明治元年から細島より人の流入があり、タイやカツオを釣る手段として一本釣りの技術がもたらされた。

【佐土原町】

 『佐土原町史』では、地曳網でのブリ・サゴシ漁について書かれている。(註36)

【宮崎市】

 『民俗事象調査』には、鰯刺し網・地曳網(鯵・鯖)・建網(磯魚)、マギリ(鰹・万引)、天草・ウニ、スイッ・スリン(素潜りのこと。鮑・サザエ)についてふれている。
 『郷土誌青島』(註37)には、鰹、鱶漁、棒受網(鰯・鯵・鯖)、夜焚き、伊勢エビ建網、鮪延縄漁、伊勢エビカゴ漁業、小型帆船による一本釣り、密漁船の問題などが書かれている。
 『宮崎市史』(註38)には、底曳網(檍地区)・地曳網(赤江地区)・流し網(赤江地区)・機船底曳、一本釣(青島地区)、一本釣・延縄(内海地区)があげられている。
 『檍郷土史』(註39)には、刺し網(鰯他)・手繰網(小海老・車エビ他)・棒受網(鯵・鯖・鰛)・建網(鱶・鰤)追込網(鰛)・八田網(鯵・鯖・鰛)・ナゴ網・地曳網、延縄、竿釣り、手釣り、潜水があげられている。
 また、宮崎平野の沿岸部では小型の帆掛け筏による延縄漁が行われており、特徴的な漁法として取りあげられている。(註40)
 宮崎平野の沿岸部の砂浜では、フネと呼ばれる帆掛筏を利用した延縄漁法が現在も行われている。筏は一~一・三メートルの太めの縦木二本を五〇~六〇センチの細目の横木でつないだものに帆柱を立て、肥料袋などで帆を張った簡単な構造である。西風にのせて筏を沖へ流し、冬にはボラを、夏にはフカを釣る農閑期の農家の漁法のようである。
この漁法については『漁村歳時記』には、

「宮崎県の南部の鵜戸神宮あたりの海を、赤江灘という。このあたりに帆掛漁という珍しい漁業がある。帆をつけた板を浮子として、これに三十本ほどの枝糸をつけた延縄を、風を利用して岸または船から沖に流す。クロダイ、ボラ、ウナギなどを対象とした漁業であるが、いかにも春の漁らしい長閑な漁業である。戦後どういう関係でか、宮浦湾で操業されるようになった。主として老人が就業しているが、地方から吹く西風の日が漁がよく、外海での操業ゆえ、フカを獲ったこともあるという。」(註41)

と紹介されており、その分布の広さをうかがわせる。

【日南市】

 一般に日南市の漁法の特徴は、大堂津がカツオ一本釣り、油津がマグロ延縄主体、鵜戸が磯建網・定置網主体であった。
 『民俗事象調査』には、マグロ漁業、曳縄釣、シイラ延縄・小鯛延縄、トビ延縄、刺し網、地曳網、ボケ漁、ブリ大敷網、ツキンボ漁(カジキマグロ・フカ)、鰹釣漁(一本釣)、マギラカシ、磯建網、ブリ網漁、ササセ網・曳回網・大謀小台網・定置網・落網式があげられている。
〔日南市油津〕
 『民俗事象調査』には、細川隆介氏がそれぞれの漁法の歴史に触れてあるので紹介する。
ブリ網漁 ブリ網にはササセ網、曳回網がはじめで、明治三三年頃油津の河野氏と山崎九郎氏との共同経営があった。明治三八年には小台網(定置網)に、大正元年には大謀網(大島漁場)に、大正十二年には初網(穴貫漁場)にと代わっていった。大正九年に高知県で改良された落網式の定置網も取り入れられた。昭和三〇年頃まで豊漁が続いたが、モジャコ(ブリの子)捕獲でハマチ養殖が盛んになり、天然ブリの回遊も少なくなった。
鰹釣り漁業 油津港のカツオ漁は近世からすでに行われていたという。往時、九尋で六丁櫓の帆船に一五~二〇人が乗り込み、油津沖を主に折生迫沖から都井岬沖、さらに鹿児島県内の浦沖までを漁場とした。漁期は三~九月末までであった。餌は小さなヒラゴイワシで、五尺樽という餌樽に餌を活かして出漁する。明治三七年頃から船内に活魚艙を設置するようになった。動力船の出現は明治四二年電気着火二〇馬力に始まり、明治四五年蒸気機関八〇馬力に、大正五年に焼玉エンジン二五馬力になった。さらにディーゼル機関の改良で船も大型化し、昭和四〇年代には遠洋漁業の発達をみた。カツブシ製造も振興したが、大正後期から昭和初めにかけてマグロ漁の稀にみる豊漁となったので、鮮魚仲買人を兼ねていた加工業者マグロ類の取り扱いに重点をおき加工業は衰退した。このために大型カツオ船は鹿児島県山川港、枕崎港へ水揚げするようになった。
マグロ漁業 明治四〇年には、マグロ漁有望ということでカツオ船がマグロ延縄に出漁したこともあった。当時は七尋以上の船に許可したが、漁場も陸地の見える範囲で、漁具も小規模のため、七五キロ程度のキハダ、メバチ、ビンチョウ、小シビが漁獲された。大正元年のマグロ漁は稀にみる豊漁で漁場も種子島近海にまで拡大された。近年の漁具は延縄の幹縄一万四千尋(約二一キロ)、枝縄も一鉢一本付けだが、当時は簡単なもので、枝縄四本付け浮玉も樽やブリキ缶を用いていた。のちに浮子にガラス玉を使用、現在はポリエチレン製浮玉を使用している。延縄漁具は、幹縄百尋(一五〇メートル)、これに枝縄四〇尋(六〇メートル)の先に鉤を付けて餌を刺し篭に入れる。これを一鉢といい、一鉢ごとに赤白の旗をつけ各鉢をつなぎあわせて順次海に投げ入れる。継ぎ目には直径一尺のガラス玉を付け、一〇〇~一五〇鉢を入れた。普通未明に海に延えて一二時間程で揚げた。ラインホーラでは一万四千尋を四時間で、人力では三人ぐらいで交替して一〇時間ぐらいかけて引き揚げた。
曳縄釣 昔から行われてきた漁法で、往時はチョロ(五尋の帆掛船)でマギラカシ(トローリング)で竿を出したり曳き縄をしたりで、ヨコワ・カツオ・サワラ・鯛など赤もの、回遊魚が対象である。昭和三二年に動力船にかわり帆走のチョロ船は油津から姿を消した。
シイラ延縄 明治四〇年頃、油津の本堂平被氏が研究して始めた当地独特な漁法という。シイラをマビキと呼ぶ。活餌、サバ子、アジ子を使う。漁期は五~八月。日向灘南部が漁場である。
小鯛延縄 昔から行われている漁法、アカアマダイ(ビル)を主漁としているが、レンコダイ(小鯛)、シロアマダイ(白川、宮崎県の特産)もとれる。漁期は周年である。
トビ延縄漁業 明治三七年頃から油津で松尾善助氏が操業を始めた。トビウオを延縄でとるのは宮崎県内でも南部だけであり、他県ではあまり例を見ないという。対象となる種類はカクトビで、油津ではコシナガと呼ぶ。餌はイカの切り身。漁期は九~十一月で、油津から鵜戸の沖合が漁場。トビウオはクロマグロの餌に好適で、曳縄漁用として昭和十五年頃一尾九円の高値もついたという。
刺  網 油津沿岸で春にバカイワシ(マイワシ、大羽イワシ)の豊漁が続き刺網が盛んだったが、大正六年にぱったり漁がなくなった。盛漁期に大漁のイワシに困り、大部分を締粕、また農家の肥料に向けられることもあった。当時七統が操業した。
アジ漁・夜焚網漁 夏から秋にかけて沿岸に来遊するところを強力なガスランプを焚き、四艘張の夜焚網で漁獲する。終戦後は電力不足でカーバイトが入手できずバッテリーで焚いた。
地曳網 明治時代、油津には平山・風田・梅ヶ浜・油津港小浜・石河の漁場があり、地曳網は一一統あった。旧藩時代からあり地曳網は城主(伊東家)の許可が必要であった。小船三隻を用い二〇人位で曳き、カグラサン二台で巻き寄せる。主にイワシ・アジ・サバ類をとった。刺網が普及することで地曳網は廃れた。
 以下、聞き書きの調査についても触れておく。
 無動力船(チョロ船)によるカツオ一本釣り、引き縄や手釣りの一本釣りが盛んであった。無動力船に親子で乗り込んで漁にいった。引き縄の一本釣りが主。竿を両側に二本張り出して、釣り糸をつけ、船を走らせる。八チョロ(艪が八つ)動力船に変わっていくのは、昭和二六、二七年以降(日本パルプからの漁業補償金を得て)であった。
 糸の先には、えさをつけたり、擬似餌をつけたりする。カツオが食いついたら竿を引き寄せて釣る。カツオの群れに当たった場合は、そこで湧いているイワシをすくって、船の中に泳がし、ためておいて、その餌(イワシ)を魚群の中に撒いて、カツオの群れが逃げないようにして、適当に食わして浮かしておきながら、その間に別の二~三メートルほどの短い竿(一本釣りの竿)にえさをつけて釣る。あるいは、食いが激しくなった場合は、擬似餌でも食いつく。だからできるだけ船員が多い方が、そういった群れにあった場合、収量が多い。
 風がないときは困った。北東の風が最もよい条件の風。雲の流れを見て風の流れを見た。盛漁期は3月からお盆のころまで。昭和のはじめ頃、舷側に波返しのためのへりをつけて、船の安定度が増した。それでずっと沖合にまで漕ぎ出し、風の状況では沖合でも漁ができるようになった。
 油津では、かつて本マグロの水揚げが盛んだった。大分県保土島、鹿児島県串木野など各地のマグロ延縄船が、日南の沖合から種子島、徳之島の沖合にかけて集まっていた。トビウオ(昭和六年、餌となるトビウオは一匹十円ぐらい)を餌にして、両舷から引っ張って青空の下を全速で走って回っていた。
 帆船による漁は終戦まで多かった。主にレンコダイを釣った。川でシラスエビをとり、生き餌にして釣っていた。カツオを主に、時にはマグロを釣ることもあった。曳縄を五~六つもさげて、走って回った。長さ四尋三尺(昭和初期は五尋二尺)。幅二尋程度。帆は、船首からチャンコロボ、ナカボ、ホンボの順に三枚張った。
 ジュウセン(無動力の漁船)による漁は十人乗り、八人で艪をこいだ。カツオを釣っていた。「長崎県の五島列島付近まで、風がないときは一週間も十日もかけていったことがある」という話があった。帆も併用。八チョロが最大。長さは十五メートル(八~十尋)ぐらい、幅は三メートル半(十一尺)ぐらいあった。
〔日南市大堂津〕
 昭和6年ごろから動力船(一二~一三人乗り)に乗っていた。正月前~三月頃までマグロ延縄漁で、それ以降はカツオ一本釣りに切り替えた。

【南郷町】

 『民俗事象調査』には、大敷網・ボケ網・イワシ刺し網・地獄網・海老建網、イカ釣り、夜焚き(鯵・鯖)、コデ網があげられている。
〔南郷町栄松〕 豪快な漁をする人が多かった。カツオ漁とマグロ漁を行った。無動力船によるマグロ漁は、昭和七~十年ごろ、帆船(長さ七~八メートル、幅三~四メートル)でマグロを釣りにいっていた。トビウオを餌にした曳縄漁。竿を二本ばかり使ったトロ-リング。一人で四、五匹釣ることもあった。船につめないときは、右舷、左舷に下げて運んだ。一人で乗ったり二~三人乗りの帆船も多かった。栄松地区では、多く見られた。死んだトビウオが生きて泳いでいるように見せかけるために、カブラ(スズ製)を頭部につけた。縄の部分は綿糸、テグスの部分はワイヤ-、その間に細い麻を用いた。
 動力船によるマグロ漁 延縄縄、昭和4年ごろには、15馬力程度の焼き玉エンジンをもつ動力船があった。一日にマグロが三〇〇~四〇〇本あがることもあった。一番多い日で一二〇〇本あがったこともある。昭和一八年を境に姿を見せなくなった。その後、今から十年ぐらい前、イワシの大群がこの近海に寄せたときに合わせて、マグロが釣れるようになったことがある。
 古老の話にはマグロをとった話はあまり出てこない。歴史的にはカツオ漁の方が古い。船の中央に設けたイケスにイワシを生かして、それをまきながら釣る。まき手は一人で残りは釣り手。艪を漕ぐ人が六~七人。帆も併用した。一人乗りで曳縄によって、マグロを釣るのと同じ方法でカツオも釣れるが、カツオは量をあげないといけない。採算が取れるようにするには、大人数で効率よく釣り上げないといけない。キンチャク網によって漁をする方法も昭和十年ごろ日向丸によってなされていたが、零細な一般の漁師ではできない。また、沿岸のブリやヒラマサと違って、カツオは沖合に出なければ釣れない。
 一人六~七本の竿を持って船に乗り、カツオの大きさに応じて太いのから細いのまでを使い分けた。竿材としての竹、地元の竹(コサンチク)が少なくなって、昭和四二~四五年ごろから、土佐産の竹(ハチク)を一括して取り寄せた。その後は、プラスティック製(グラスファイバ-)へと推移した。服装など、下はフンドシ。ドンザからハンプ(帆布)が出回るようになって、そのハンプを使った「カツオダキ」(カツオを抱くための上着)を作った。市販もしていた。
 カツオの水揚げは大量にとると、こちらでは処理ができないため、ほとんど山川に水揚げしていたという。山川は天然の良港で、当時枕崎は現在見られるような港がなかった。
 延縄漁としては、トビ縄、ベンコダイ延縄など周年行われた。三~五トンの動力船を使う。トビウオは延縄で昭和三十年代までやっていた。都井岬沖の黄金の瀬は好漁場である。十月から北風の吹くころになると漁をしていた。
〔南郷町目井津〕
 近海のマグロ漁(無動力船)では、昭和六年頃、大分からマグロ帆船が百隻ほどやってきた。マグロを竹のすだれを編んだもので包んで、腹に氷をつめて貨車で送り出していたという。
 マグロ延縄漁(動力船)は昭和三四、五年頃までは、カツオ船で操業した。その後、アジを生き餌にしてやり始めた。一九トンの船(八~九名乗り)で、東シナ海を漁場とし、沖縄復帰後は、沖縄の東からフィリピン沖にかけて操業した。シャチが多くなって、ハエ縄にかかったマグロを食べてしまうのも減収の一因となっている。
・マグロの種類としては、ホンマグロ(クロマグロ)、メバチマグロ、ビンチョウマグロ、キハダマグロ、カジキマグロなどがある。目井津の船がとっているのは、キハダマグロが主である。
 シイラ延縄漁はマグロ延縄漁よりも歴史は古い。
 トビウオ縄漁は目井津と大堂津が主体であった。昔は、大堂津が盛んだった。マグロの餌を確保するためにも重要だった。
 カツオ漁は、昭和八年頃カツオが来るのを待って漁に出ていた。三月頃カツオが南西諸島に入ってくるのを見計らって出漁した。その前の時期はマグロ延縄に行った。同じ船で一~三月はマグロ漁に行き、カツオの北上に合わせてカツオ漁にかわった。カツオ漁は十~十一月ごろに終わる。その後は、同じ船でマグロ漁を始めた。二十数名乗り込んでの漁だった。群れを追って、都井の沖から土々呂の沖にかけて操業していた。カツオの餌のヒラゴ(イワシの子)やサバゴは、大島周辺でとれていた。当時町内にはカツオ節の製造所が多かった。昭和二十年当時は、二五馬力の船だった。昭和二四年頃から五〇馬力の焼き玉船(三〇トン)にかわった。
 無動力船(帆船)による漁はヨダキといい、夜、カ-バイトを炊いて、光に寄ってくるアジ、サバを釣った。マグロの曳縄は二本、餌はトビウオ、餌が回らないようにトビウオの頭の方に鉛のついたもの(ガンブリ)をかぶせた。カツオの曳縄、二本、餌は擬似餌。擬似餌はニワトリの羽や松の根っ子を使って自分たちで作っていた。

【串間市】

 『民俗事象調査』には、ハツダ網・ボケ網・地曳網・スイリ・イカ釣・一本釣・延縄・地獄網・タンポ網・ブリ大敷・エビ網・刺し網、カナツキ、夜焚き(一本釣)、建網があげてある。
 『都井村史』には、

 本村沿海が魚族の多産なると、鮑、万年貝(ながらめ)等の貝類豊 富なるは、生活上最も便利を得たるものにして、殊に気候温暖の関 係上、御崎の沿岸及当海浜にて漁貝採取に便じたる方面に居を構へ たる如し。貝類の採取に次ぐものは釣漁ならん、鰹釣、小鯛釣、夜 ダキ等は相当年代を経たるものと察せらる、漁船建造は近年ならん も不明なり、網漁にて最も古きものは飛網なり、

として、飛網(元禄時代に種子島から立宇津小網として伝えられたものという。干飛製造・飛の団子)・瀬立網(本村の特殊漁業であったが、その後、鰤大謀網にとってかわられる。)・マカセ網(沖廻船曳網。嘉永年間大分臼杵より伝授。立宇津独占の漁業。)・謀計網(棒受網、明治25年ごろ大分より伝わる。鰯。大正時代には廃れた。)・鰤大謀網を紹介している。(註42)
 『郷土事物調査』(北方尋常高等小学校編)には、串間地方の漁業について次のように紹介している。(註43)

旧藩時代ニ於テハ総テノ釣魚ハ何レモ一本釣ヲ用ヒ多ク鰹、鯛、鯵、鯖、■魚予を漁シ、網ニハ八田、■魚先、地曳、磯立、小手繰、鋤網等ヲ用ヒ八田網ハ主トシテ上層青魚ヲ漁シ地曳ハ主トシテ鰛ヲ漁シ■魚先網ハ夏期産卵期ノ群游魚ヲ磯立網ハ蛯及ビ瀬魚ノ雑魚、小手繰網及鋤網ハ小鯛、餌小蛯ヲ漁スル具ニ供シ来リ

宮崎県南部の串間市都井岬西岸で6月から7月にかけて、昭和30年代まで操業されていた敷網漁業の一種。夜明け前にホンダワラなどの藻場で産卵し沖に出ようとしたツクシトビウオ(オオトビ・ウトビ・コシナガという)などを、漁船(ジュウセン)2隻で網を入れ、2、3隻の灯船(ヒブネ・テント)から投石やカリ棒で追い込みながら漁獲する。その際に他の統との競り合いで県下になることもあったという。トビウオには、コトビ(コマトビ)・オオトビ(ウトビ)・ヒジロ・アゴ・カクトビ(コシナガ)の種類があり、それぞれに漁法が異なる。トビ網で捕るのはコトビ・オオトビである。
 トビ網についてはにも、
「宮崎県串間市の都井岬地方に、珍しい飛魚の追込み網がある。飛魚の漁期は普通は四月頃が盛期であるが、八丈島や屋久島の春トビ、宮崎県南部地方のオオトビウオは、二月になると漁期になる。都井岬の追込み網は、網船二隻、石打船三隻で編成され、他の飛魚網組との間に、すさまじい競争が展開される」(註44)と紹介されている。

まとめ
 以上、宮崎県の漁法について主に文献資料を中心に紹介してきた。漁法について表面的にしかとらえることはできなかったが、県内のおおまかな特徴は把握できたのではないだろうか。
 今後の研究課題は三つあげられよう。一つは漁業史研究、次に民具研究、最後に漁撈習俗研究の方向である。漁業史研究に関しては、宮崎県内、特に延岡藩領の漁業史に関しては、松浦祥雄氏が研究をすすめている(本稿では平成七年十二月の宮崎県地域史研究会での発表資料を参考にさせていただいた。)。民具研究に関しては博物館を中心にした漁具の収集及び報告書の作成が求められよう。民俗学の研究の主眼である漁撈習俗の把握に関しては、村落構成・社会組織・信仰・儀礼・祭祀・行商・交易など様々な側面からの研究が必要である。

(註1)田中熊雄『日向の漁撈と民俗』宮崎大学教育研究所、昭和二六年
(註2)『宮崎県史 資料編民俗1』宮崎県、平成四年
(註3)『離島調査報告書 島野浦の歴史と民俗』宮崎県総合博物館、昭和四九年
(註4)後藤豪『宮崎県漁具図譜』宮崎県水産会、昭和九年
(註5)平部嶠南『日向地誌』日向地誌刊行会、昭和四年
(註6)宮崎県水産課編『水産資料 昭和二十九年』
(註7)『みやざきの魚』(宮崎県水産試験場、平成五年)
(註8)『民俗特別展 日向の山と海と川の生活』(宮崎県総合博物館、昭和五一年)に宮崎県水産試験場の調べとしてあげられている。
(註9)川村軍蔵「魚類の生態からみた漁法の検討 ⑨サワラ」(『水産の研究 三巻二号(九)』昭和五九年)には、「この漁法は高知県須崎市、宮崎県南端の串間市都井、鹿児島県の佐多町と十島村口之島、および大島郡住用村に残っている伝統漁法の一つである。」とこの漁法のバリエーションを紹介している。
(註10)下野敏見『トビウオ招き』
(註11)野地恒有
(註12)川崎晃稔『資料 種子島の漁撈生活 中原太吉氏の日記』(南島民俗研究会、昭和五三年)
(註13)(註7)『みやざきの魚』に同じ。
(註14)『宮崎の海釣り』宮崎日日新聞社、平成二年。
(註15)(註6)昭和二十九年『水産統計』に同じ。
(註16)宮崎県古公文書『水産』明治三一年。
(註17)『大田区』
(註18)『都井村史』野辺幾衛編、昭和五年。
(註19)川南町通浜の写真は『川南』に、新富町日置の写真は清喜久男氏によって撮影されている。
(註20)『檍郷土史』(平成二年)
(註21)山西三重子「日向の山西水産物語」『会誌おのころ 十一号』(平成六年八月、兵庫県三原郡沼島村出身者の会報誌)
(註22)『宮崎県大百科事典』(宮崎日日新聞、昭和五八年)により要約したが、日高亀市に関しては多くの文献がある。まず「日向灘 日高亀市(宮崎県)」宮城雄太郎『日本漁民伝 下巻』(いさな書房、昭和三九年)に取りあげられ、「郷土の先賢物語十三 日高亀市(1)~(14)」『宮崎日日新聞』(昭和三九年十二月十四日~昭和四十年一月二十八日)に連載された。『宮崎県大観』(宮武喜三太著、大正四年)や最近では「みやざきの鰤漁」『MOTION 一〇 一九九五』(JA宮崎経済連総合渉外課)でも写真などを盛り込み特集されている。
(註23)宮崎県教育委員会「宮崎県民俗事象調査」昭和五二年。
(註24)『北浦村史』北浦村教育委員会、昭和四三年。
(註25)『ふるさと北浦』
(註26)『門川町史』門川町役場、昭和二二年。
(註27)『ふるさとの轍』
(註28)『近郊農・漁業の研究』日本農業研究所九州支所編、昭和二八年。
(註29)前掲(註28)『近郊農・漁業の研究』二一二~二一六頁
(註30)前掲(註28)『近郊農・漁業の研究』二二六頁
(註31)前掲(註28)『近郊農・漁業の研究』三二〇頁
(註32)『美々津郷土誌』黒木晩石著、講談社、昭和五五年。
(註33)『郷土調査』都農尋常高等小学校編、昭和五年。
(註34)都農の漁法の歴史については、地元の山本健治氏が『都農の漁船の歴史』として草稿をまとめている。
(註35)『川南町史』昭和五八年。
(註36)『佐土原町史』昭和五七年。
(註37)『郷土誌青島』宮崎市青島地区公民館編、昭和四五年。
(註38)『宮崎市史』宮崎市史編纂委員会編、昭和五三年。
(註39)『檍郷土史』(平成二年)
(註40)松村利規「自給漁撈に関する若干の覚書」『鹿児島民具 第十一号』平成五年、鹿児島民具学会。
(註41)前掲(註)『漁村歳時記』
(註42)前掲(註)『都井村史』
(註43)『串間市郷土史』昭和四九年
(註44)前掲(註)『漁村歳時記』

<関連資料>その後、参考になる資料を紹介する

片岡千賀之「宮崎県におけるカツオ・マグロ漁業の発展構造 戦前篇」『鹿児島大学水産学部紀要』27ー1、1978、pp.183-224

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