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宮本常一の宮崎調査

以前から宮本常一が宮崎調査をしたにもかかわらず、その調査内容が何かの事情で公開されていないと聞いた記憶があったが、長年、その出典を確認できずにいた。先日、日野巌の調査でいろいろ調べていた際に偶然見つけることができた。
宮本常一『大隅半島民俗採訪録』慶友社、昭和43年

昭和15年1月に東京をたち、福岡県経由で鹿児島へ向かう。屋久島で10日あまり調査し、種子島経由で鹿児島へ帰る。鹿児島から大隅半島の突端にゆき、そこから東岸をあるいて高山、志布志、宮崎県南那珂郡(文字の間違いあり)、都井岬、市木、堂浦、油津、飫肥、酒谷を経て都城へ出た。

そこから汽車で宮崎に出、宮崎神宮のそばに住んでいた日野巌先生の家へ偶然立ち寄る機会をもち、先生にすすめられるままに、その夜杉安までゆき、そこから東米良に入った。東米良の銀鏡で四、五おり、それより北へあるいて南郷に出、西に向かって槇鼻峠をこえて椎葉の南端に入り、大藪、大河内などを経て、臼杵俣、上椎葉を経て富高(日向市)に出、汽車で臼杵までゆき、赤崎という漁村をおとずれ、また臼杵の石仏を見、別府へ出て大阪行の船にのり、五〇日ほどの旅をおえた。『大隅半島民俗採訪録』はそのときの調査記録をまとめたものであるが、今日まで発表する機会がなかった。戦前に書いた民俗誌の原稿は一万五〇〇〇枚くらいではないかとおぼえているが、その大半は戦災でやき、わずかに大隅半島、宮崎県南那珂郡(文字が間違い)・中国山中・宝島などがのこった。そのうち南那珂郡のものは戦後東京から郷里へ持ってかえる途中紛失した。

ここ記述以外にも、宮崎市の街頭で関西弁ばかりが聞こえてくると批判的に書いていたが、それも失念した。

宮崎県への調査としては、その後の調査としては『旅する巨人宮本常一 にっぽんの記憶』には三例、宮崎県の調査が取りあげられている。

読売新聞西部本社 編『旅する巨人宮本常一 にっぽんの記憶旅する巨人宮本常一』全国離島振興協議会・財団法人日本離島センター・周防大島文化交流センター監修、2006年

地名に残る苗木園跡  昭和32年 日向(宮崎県)
教会 日常の中心に  昭和32年 田野(宮崎県)
北へ南へ 女の行商  昭和53年 都農・門川(宮崎県)
神話の里 伝承の舞  昭和53年 西都(宮崎県)

「米良紀行」と題された文を『登山全書・随想編二』(昭和三十一年十月)に寄せている。米良地方の歴史について書かれた概説であるが、米良への調査について次のように記している。
「私がこの山中に足を入れたのは、昭和十五年二月二十二日であった。屋久島・大隅半島・日向南那珂郡と歩いて、いよいよ九州の旅行を終わるべく最後に訪れたのが米良であった。米良についてはそれまで何の知識ももちあわせなかったが、椎葉のほうは早く明治末年に柳田国男先生がおいでになって、この地での狩についての聞書を『後狩詞記』と題して公にせられているので、一度は訪れてみたいと思ったのである。」
 二十一日の晩に杉安に宿泊し、二十二日に銀鏡へと足を運び、三晩も聞き取り調査を行ったことが記されている。
 また、山村の調査に関しては、断片的に『山に生きる人びと』に記されている。例えば、椎葉村の塩の道、宮崎県北部に多いサンカ、九州山中の落人村、日向木炭、海から山への定住、山から里へ、九州山中の臼太鼓・念仏踊り、椎葉騒動などについて述べられている

今後、宮崎県に関して記している記事があれば追記していきたい。

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