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日比谷躁躁曲_3日め

能力は経験と共に向上し、重圧は勤勉によって克服される

老人とソワソワの朝は早い。
代理店に出社するために6時半の通勤快速始発に乗る必要があるが、苦にならなかった。むしろ目覚ましもなく5時頃にもぞもぞとベットから這い出すと、勉強すら始めた。
最近流行りのビジネス解説の動画を視聴しながら、タイピングの5分間練習を計3セット。朝ごはんはヨーグルトか野菜ジュースで家を出た。

毎日同じホームの同じ乗車口に並んでいる老婆の隣で電車を待つ。この方は夫の病院にでも通っているのだろうか。悪いなと思いながらお持ちの厚手塩化ビニール製のトートをチラッと見る。着替えや日用品など。
少し気分が落ち着く。
整列乗車で老婆がちゃんと座れたかを見届けるのが日課になった。自分って優しいやつだ、フフフとなる。

出社すると営業マンの誰だか覚えていない奴と昴さんが罵り合っていた。
気分が騒つく。
そっと無視して経理に書類やらを手渡し6階に逃げ込む。
制作部に出社し、PCでタイムカードに打刻する。部内は階下の昴さんのことと思われる何かについて血気盛んになっていた。
東さんの目がギラついている。
お前はちょっと落ち着け。
ディレクターの切替(キリカエ)さんが面倒そうに東さんを追い払い、彼の補佐の美幸(ミユキ)さんは二人をシカトすると決め込んでいた。

部屋に昴さんが入ってくる。東さんとひとしきり営業への罵詈雑言を言い合い、狭い部内の室温を無限に上げてゆく。
彼らはこの儀式みたいな喧嘩をしないと団結できないのだ、会社の外で会おうものなら互いについ目を逸らしてしまうような関係性の人たち。一緒に働く上で、処世術として備わったスキルと儀式なのだ。

昴さんが唐突に自分に振り向く。
「コーヒー行こうか」

自分では選ばないちょっと背伸びした価格帯のカフェへと連れて来られた。昴さんはここでいいな、と選んでズカズカと入店すると、黒糖ミルクのアイスコーヒーを2つオーダーしてテラス席に陣取った。
おしぼりの封を開けながら、いきなり切り出す昴さん。
「また改めて話をする場を設けるけど……来月で辞めることになったんだ」
どういうこと?
話を聴くに、数ヶ月前から会社の状況に嫌気が差して辞めることを話していたらしい。最後の仕事として、代理店のスタジオ管理をしてくれそうな自分のポジションの採用がまとまるまで在籍することを条件としていたそうだ。
なんてやつだ。

面談時の昴部長のあの穏やかな会話、一緒に部門を作ってゆこう、は全て嘘だった。
「ほら、面接上の建前ってあるじゃん」
昴さんは言うべきことを言って気が晴れたように、黒糖ミルクコーヒーを流し込んで、再びガハハと笑っていた。
「営業の連中に引導を渡してやるのは君の世代の仕事だ」
どうやって?
過剰なストレス下に晒されはしたが、上がりすぎずに薬の種類も変えずに済んだことは自分にとっては朗報だったかもしれない。
少しだけ、この慌ただしく始まった日常に高揚感すら覚えていた。
先週までのサブスク配信サービスで映画やドラマを見ていた日々よ、さようなら。今後薬が増えることもあるかもしれない、治療は進むだろうか?でも自分は仕事と収入を諦めない。

>続く

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