見出し画像

混乱を愛する人たち

私は事なかれ主義である。
出来れば人と揉めることは避けたいし、周りで揉めてる人がいても、どちらにも加担したくない。

何かぶつかることがあったとしても、それがそこまで大事なことなのか改めて自分に問いかけてみると、大抵のことは譲れてしまう。
だったら最初から譲ってしまえ、という考えが根っこにある。

ただ毎度そうしていると、人はそれが私の本心だと思ってしまう。
それはそれでちょっと問題がある。

本心と離れたところでフリをするのは疲れるし、いつも一方的に押し込まれているのは当然ながら楽しくない。

そうしてやがては大爆発…と行きたいところだが、事なかれ主義なのでさりげなく離れてゆくことになる。

さよーならー。

関係はそれで終わる。
ある意味これは無関心の極みなのだ。

あなたに興味がない。
自分に興味がない。
未来に興味がないし、もちろん過去にも興味がない。
友達はいても良い。
でもいなくても問題はない。
別れはつらくないし、出会いはむしろ面倒くさい。

そんな私からみると、ケンカをしたり不満をぶつけたりする人たちは、他人相手にいったい何を求めているんだろうと不思議でならない。

そのエネルギーがあったら、もっと別のことが成し遂げられるのではないか。面倒くさい感情の渦に自ら身を投じているようにしか見えない。

そういう人たちを、私は「混乱を愛する人たち」と呼んでいる。

混乱を愛する人というのは感情に対して手を抜かない。人が2人そろえば、必ずいつかはぶつかるものだが、周りから見て些細なことでも相撲の立ち合いの如く目一杯ぶつかる。

それがプライドの問題なのか、勝ち負けなのか、どうにもそうせずにはいられない性分なのかは分からない。

私なら面倒くさくて「あーもう!!」とぶん投げたくなる。頭抱えてイライラ耐えられない。

でもそれを何度も何度も繰り返すことができる人たち。初めはそこに何か理由があるはずだと思った。なぜならば私にとってその状態は、決して居心地が良いとは言えないからだ。しかし、やがては私も学習した。彼らはその状態を好んでいるのだと。

彼らにとってそれは、お互いに本音でぶつかり合う大切なコミュニケーションなのだろう。そうして互いを理解し合い、せめぎ合うことで踏み入ってはならない境界を知り、相手との距離感を掴むのかもしれない。

そこには一生懸命さがある。
誠実さとも言えるかもしれない。
激しい波が岩に打ちつけ水飛沫が飛ぶ。そんな状態に常日頃から親しみ、その中でさえも相手の出方を見失わない。
相手に対して、または自分に対して興味がないと出来ないことだ。

人間は感情を持って生まれた生き物だからこそ、それを思う存分に味わい身を委ねる人たち。

そんな人たちに囲まれていると、時々自分の本心を言うことが憚られてしまう。ぶつかり合わないことが失礼なことに思えてくる。

いやいや、考えただけでお腹いっぱいなんだけど。

それでも、どちらが人として魅力があるかと考えたら、それは一生懸命さに勝るものはないと、人には言わないが本音ではそう思っている。

ぶつかり合うことで均衡を保つ人たち、タフで豊かな人たちである。