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反発力という罠

このところ「信じる」ということについて考えている。

誰を信じるのか、
何を信じるのか、
人は皆、何かしらを信じて生きている。

そんな大袈裟な、自分は特に何も信じていないよ、と言う人は恐らく性善説で、大雑把なところで全面的に世の中を信じているのではないだろうか。

世の中の常識と自分の常識が一致していると言う信頼、頑張れば何とかなるという自分への信頼、明けない夜はないという自然への信頼。気が付かないだけで実は色んなものを信じている。

でも隣に座る人が同じものに信頼を置いているとは限らないわけで、そのことが表面化した時にちょっとした摩擦が生まれ、その摩擦の積み重ねが人間関係とも言える。

怒りは自分への信頼の証である。
程度の差はあれど自分に価値があると思わなければ怒りは沸かない。
もしくは自分の信じるものに価値があると思わなければ、でも良い。
自分への信頼も、自分が信じるものへの信頼も要は同じことだ。

人は大いに信じる生き物なのだろう。

誰かが何かを信じている。
そのせいで隣の誰かが不幸になったとしても、信じている本人は蜜月状態で幸せなので揺るがない。

人が人を洗脳し操られてしまうような事件が起きた時、誰もが何故そんなに信じてしまったのだろうかと不思議に思う。けれど信じている本人にそれを言っても伝わらない。信じると言うのは実は排他的なことなのかもしれない。だからこそ争いが起こる。

それならば何も信じないで生きることはできるのだろうか?

それは家の戸締りのような単純な話ではない。行政や司法、学校、家庭、同じものを信じる集まり、会ったことのない先人の言葉や、昨日まで他人だった誰か。そしていつ何が起こるか分からない、私たちの住処。

例えば一切の記憶を失くしてしまったとしたらと想像してみる。とても不安で何を信じるべきか分からなくなってしまうのではないだろうか。

不安があればあるほど、信じられる何かを見つけたくなるかもしれない。それは失ったものを取り返そうとする当然の反発力だ。

そして何であんなものを信じてしまったのだろうかと思うようなものは、大抵不安な時に出会ったものである。

つまり。
人を不安にさせるもの、罪悪感を持たせるものは信じてはいけない。
あなたを小さく見せるものはあなたの反発力を操ろうとしている。

難しいのは褒めて伸ばすと言う考え。
一度膨らんだものがすぼむ時、人は不安に陥る。ここにも何とか取り戻したいという反発力が生まれる。

だからあなたをあまりに大きく見せるものも信じてはいけない。

もっと小さな、ささやかな信頼を繰り返し、積み重ねて信じられる世界を造る。
子供の頃に与えられた世界だけではやがて隙間が空いてしまう。

だからと言って信じるという事を穴埋め作業にしてはいけない。信じると言う気持ちは薄皮のようなもので、一度貼ってお終いとはいかないのだろう。

信じるということ。
それは生きてきたことの積み重ねなのではないだろうか。

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