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喪の仕事

母の四十九日が過ぎた。

悲しいとかそう言うことではなく、でも少し心に引っ掛かるような異物があって、これを書いている。

異物の正体を知るにはこうやって文字にしてゆくのが有効だ。

母と娘というのは関係性が少し独特なのかも知れない。それは父と息子に比べても、だ。

葬儀や法要というのは亡くなった人を中心にした、それぞれの関係性が見えてくるもの。

母と父。母と息子。母とそのきょうだい。同級生や仕事の仲間、ご近所や親戚一同。

そんな周りの人間から見た母は、私が知る母とは少し違っていた。

それは当たり前のことなのかも知れない。人は全ての面を曝け出すわけではないのだから。もちろんどれも本当の一面であることに違いはない。けれど、母には私にしか語らなかった本音があったのだと知った。

母があえて語らなかった本音を、どう扱ったら良いものか、それが私の感じる異物なのだろう。

私に注ぎ込まれた母の思いは不安や不満、そして誇り、現実に抗う気持ち、そんなネガティブなものが多い。吐き出せなかった本音を私だけには吐き出していたのだろう。同じ女という立場である娘に。

それを伝えるべきか、そのまま飲み込むべきか、そんなこんなで私の中ではモヤモヤが続いてしまっている。

たぶんこのまま飲み込んで行くのが良いのだろう。だからこそ母は私にだけ漏らしたのだ。でも私の本音は、少し重荷で、それを処理できず、赤の他人の目に触れることで自分の荷を少しでも軽くしようとしているに過ぎない。


「喪の仕事」という映画がある。
若かりし日の永瀬正敏が主役の日本映画だ。まだ「ミステリートレイン」で有名になる前ではなかっただろうか。新宿の映画館まで見に行った。

確か友達が亡くなって、その人の死について、やはりうまく処理できない気持ちを抱えて思い悩み、とことん向き合う時間を「喪の仕事」と呼んでいた。
近しい人の死に際してはそういった時間が必要なのだと、そんなような話であった。記憶違いだったら申し訳ない。パンフレットがあるはずだけれど、今は実家に戻っているし調べる気力もない。

けれど初めて聞いたその「喪の仕事」と言う言葉はすごく耳に残った。いつかそんな経験をするのだろうとぼんやり思って映画を観た。

それから何年も経った。結局あまり近しい人を亡くして来なかったり、何で死んだのだろう?と考えるような状況も無く、どの人もある程度順番に死を迎えていっていたため、そんな境遇を迎えることはなかった。

そして母が亡くなった。

母もそれなりの年齢なので、特別なことは何もない。けれどこんな些細なことで私は母と向き合わざるを得ない状況に至っている。「喪の仕事」はどんなところに潜んでいるか分からないものなのだと、今回初めて知った。

人の心は難しい。
人の言葉や思いを聞くと言うことは、その心の重量を少しお裾分けすることなのかも知れない。
吐き出しても減らないのに、聞いた側には確かに何かが増える。増殖するものだと理解して、今日のところは眠ろうと思う。

答えなんてまだまだ出ないに決まってるから。