今日は、政治について、自分の言葉で、原理的に考える日。民主主義を「暴力」と「お金」と「言葉」の関係と順序で考える。
もちろん、ウクライナの戦争のことを考えているのだが。昨日の、アタリさんへの道傳さんのインタビューと、バイデンさんのことを考えている。
アタリさんとバイデンさんの同じところと違うところ。
同じところは「民主主義はいいもんだ。世界中、みんなどの国も民主主義の国になれば、戦争はなくなるのに」と考えている点だ。
おせっかいなところも実は一緒だ。民主主義でない国に働きかけて、民主主義にすることが正しいと思っている。
「利他的利己主義」だ。他国を民主主義にすれば、戦争はなくなる。民主主義国家同士が戦争をしたことはない。とアタリさんも言った。
違う点は、民主主義ではない国を民主主義にする方法の順番、ということだ。
バイデンさんは、「暴力、お金、言葉」の順番で有効だと思っている。
なぜかというと、民主主義でない国の政治家は、他国にも暴力を振るうし、言葉の説得で態度を変えるとは思えないから、暴力を振るう相手には暴力で上回るのが大事だ、と信じている。
お金も、「暴力と組み合わせて使う」のが良いと考えて、そういう仕組みを作っている。暴力、お金で弱らせてからじゃないと、言葉は通じないだろう。そういう順番だ。
その仕組みがうまく回るように、国の仕組みもできている。軍産複合体、とアタリさんはアメリカが常に敵を必要とする理由を語った。バイデンさんのポーランドでの演説、NATOでの演説「もっと武器を買いなさい。もっと武器を売るから」。そのことを隠そうともしない。
アタリさんは「言葉、お金、暴力」の順番で使うのが良いと思っている。
とにかく語りかけよう。そしてお金で支援しよう。暴力は言葉とお金でうまくいかないときの、最後の手段だ。フランスも兵器輸出国だし、核兵器も持っている。しかしそれでも、「暴力」の前に、「言葉をお金と組み合わせて、話し合う」という姿勢だ。ヨーロッパ復興開発銀行を自分が考え出したことを誇りに思っているとアタリさんは言っていた。
昨日の話を考えていて、「アタリさんとバイデンさんの同じところと違うところ」については、そうだいたい整理できた。
ここから、今日の、新しい話。
ヒトラーも、プーチンも、選挙で選ばれている。形の上で「選挙で選ばれているから、民主主義」ともいえる。でも実質、独裁政治だ。世界の国の民主主義度合いを四種類に分けるという地図をこの前見つけたな。「世界の民主主義指数」というのが毎年発表されている。
「イギリスのエコノミスト誌傘下の研究所、エコノミスト・インテリジェンス・ユニット(EIU)が2020年版の民主主義指数(Democracy Index)を発表。台湾は評定対象となった167の国と地域のうち11位。東アジアではトップだった。」
民主主義指数は民主の度合いを、「完全な民主主義(Full democracies)」(8~10ポイント)、「欠陥のある民主主義(Flawed democracies)」(6~7.9ポイント)、「混合政治体制(Hybrid regimes)」(4~5.9ポイント)、「独裁政治体制(Authoritarian regimes)」(0~3.9ポイント)の4レベルに分類している。
どういう評価基準なんだろうね。
「選挙手続と多元主義」「政府の機能」「政治への参加」「政治文化」「市民の自由」の五つの部門から評価するもの
2021年版で、日本は17位。韓国16位より一個下。なんだってさ。「完全な民主主義」に分類される21カ国の中では下の方だね。
なんと、フランスは22位、アメリカは26位、「欠陥のある民主主義」に分類されている。へえー。
ウクライナは86位混合政治体制、
ロシアは124位、独裁政治体制。そういうことだな。ロシアは独裁国家だけれど、ウクライナも今のところ、民主主義とは言えない国なんだな。
さて、ついこの前、韓国の大統領選挙があったんだけれど、韓国で政権交代が起きた後の恒例行事としての「前政権の大統領を、在職期間中の不正、汚職で逮捕して裁く」というやつが、今回はどうなるのかなあと、お隣の国のことながら心配になる。
と、バラバラと書いてきたことは、全部、今日、書きたいこととつながっているのだが。「民主主義」について考えようということなのだが、どこかの政治学の教科書や、特定の思想家の考え方を紹介するのではなく、自分の頭と言葉で、民主主義について考えようというのが、今日のテーマ。
さて、思考実験的、抽象的話になります。
人に何かやってもらおうとするとき。人に何をやらせようとするとき。たとえば、子どもに、落ちているゴミを拾ってゴミ箱に入れさせようとするとき。どうする?
「ゴミ、拾ってゴミ箱に入れて」と言う。言い方はいろいろだけれど、言葉でていねいにお願いしたり、強く命令したり、いずれにせよ、言葉で人を動かそうとするわけだ。
子供が嫌がってやろうとしないとき。もっと怖い声で言う。怖い声だけれど、まあ言葉ではある。
二番目。「拾ったら10円、お駄賃を上げるよ」。これがお金の力。お金じゃなくても、お菓子でも、「クリスマスにアレ、買ってあげるよ」とか「やらないと買ってあげないよ」とか。
三番目。ゴキ。げんこつでなぐる。おしりをたたく。髪の毛ひっぱる。暴力の力。ひどいなあ。(ごめん、あっくん、うちのこみんな)。でも、全然言うこと聞かない、逃げようとする子をつかまえてゴミのところまでつれていくのも、物理的力で強制しているんだから、暴力なんだな。
さっき、バイデンさんとアタリさんの「三つの方法の順番」、言葉と、お金と、暴力。
言葉の使い方には、もうちょっと長い視点での方法がある。
「教育の力」というのがあって、小さい時からゴミは拾って捨てるもんだというのを、「ゴミを捨てる偉人の話」とか「ゴミ箱には神様がいてゴミを捨てると美人になる」とか、いろいろそういう話で教育することで、ゴミを見た途端に、何も言わなくてもゴミ箱に捨てる子供にしちゃうこともできる。
そう、その場で言葉もお金も暴力も使わずに、教育の力で、子どもがひとりでにゴミを見たらゴミ箱に拾って捨てる子にできたら、いちばん効率がいい。
もうちょっと短期的な、教育と言葉の中間的なやつとして、「ゴミを拾う子、とっても素敵」という話を、一週間くらい、言い続けると、
⑴素直な子だと、拾うようになるだろうし、⑵察しのいい子だと、しょうがねえな、わかったよ、と拾うようになるかもしれない。プロパガンダというか広告宣伝キャンペーンというやつだ。
日本なんかだと、この「短期的キャンペーン」が「多数の同調圧力」というのを生み出して、「なんとなくしなきゃ、と自然に思わせる」というふうに働かせる力学が、他国と比べて強い、というのは知られているよね。
言葉の力には明示的「お願い」「命令」と、自発的に、自分で望んでやったと思わせるロングバージョン「教育」というのがある。短期バージョン「広告宣伝プロパガンダ」というのは、受け手の特性によって、自発的にそうしたくなるように効いちゃう「教育的」効き方をする人と、暗黙的「命令」だと感じて「いやいやながら従う」人とが生まれる、ということもこうして考えるとわかる。その混在の中で「同調圧力」というメカニズムが働くということだ。
さて、民主主義の話に戻ると。
民主主義だろうと独裁政治だろうと、政治権力は、国民に、何かいろいろ、国の運営にだったり、公共の福祉のためにだったり、必要なことを国民にやってもらわないといけないわけだ。
で、そのために
どうしても言うこと聞かないやつには「暴力」をふるうぞ、という仕組みを持ち、(言うことを聞かないと逮捕したりするわけだ)
「お金を払ってやってもらう」としたり
お金は払わないけれど、やれ、従えと「命令」することもあり
国民が自発的にするように、長期的に「教育」することもあり、
国民が自発的になのか、暗黙の恫喝なのかはともかく「やらなきゃ」と思わせる「プロパガンダ、宣伝」をしたりするわけだ。
たとえば、新型コロナの蔓延防止のために、①ワクチンを打ってもらう②公共の場でマスクをつけさせる。ということを実現するために、
政治家が言葉演説でお願いをし、広告宣伝をしたり、メディアでうまくいろんなアプローチでプロパガンダをすると、日本人はわりと自発的に動く人が多い。マスクなんかは、もともと花粉症とかインフルの季節からつけていたという「長期的習慣」というのもあったのは、「教育」に近いのかもしれない。
日本ではないけれど、「打つとご褒美」という「お金の力」でやった国も多い。
マスクつけてないやつ逮捕、みたいな「暴力」を導入した国も多い。
政治制度と言うのは「暴力」「お金」「言葉(直接的演説と教育とプロパガンダ)」の使う権限と使い方を、どう決めるか、あるいは使う主体を誰にして、その使い方をどうコントロールするかの仕組み、と考えてみよう、というのが、今日、書こうとしていることなのだな。
さきほど書いた韓国の話。「大統領選挙で勝ったら、大統領の間は、けっこう自由に暴力とお金と言葉を思いのままに使えちゃう」「その代わり、選挙に負けたら、大統領時代に暴力とお金と言葉を自由に使ったことに対して、後任から厳しく責任を問われちゃう」というのが、韓国の考える民主主義、ということなのかもなあ、と、毎回繰り返される、前大統領が逮捕され糾弾される騒動を見ると思うのだよね。
「首相の間は暴力もお金も言葉も自由にできちゃって、やめた後も無罪放免」というのが日本だとすると、退任後に厳しく責任を問われちゃう分、韓国の方が1位だけ、民主主義度の順位が高いのかも、と思う。
韓国や日本より民主主義度の高い国を見ると、そもそも選挙に勝ったからと言って、暴力やお金や言葉を、権力者や与党に有利なように勝手に使ってはいけない仕組みがより整備され、実行されている国なのだということがイメージできる。
民主主義と言うのにはいくつか条件があって、
「暴力とお金と言葉」という、人を動かす手段について
①それを使う主体を選挙で選ぶ(行政の長の選出)
ということと
②暴力とお金と言葉の使い方を決める立法府、国会も民主的選挙で決める。
のふたつが基本にあって、①行政権力を選ぶ選挙も ②立法権力を選ぶ選挙も意見、立場の異なる政党や個人が立候補することができ、できるだけ幅広い国民が有権者として投票できることが大切。
③そして行政権力と立法権力相互に自律して機能しているか
ということとがある。
④さらにこの行政と国会に対して、司法というもうひとつの権力機構が自律して働き、行政も立法も、どちらもが私利私欲に走らず、利害団体に左右されず、あるいは怠慢にならず、あるいは国民に対して暴力的にならずに機能しているかをチェックし、ダメな時は、なんらかの強制力をもって行政と立法を是正することができる仕組みが必要なわけだ。
④さらに、報道、ジャーナリズムが、司法まで含めた国の権力機構を批判することの自由があること。
⑤さらにさらに、その、報道、ジャーナリズムがプロパガンダに利用されていないかをチェックする機能が備わっていること。
これらが揃っていないと、民主主義の国とはいえないということなんだよな。
また、ものすごく抽象的なことを書く。前にも書いたことがあるけれど、暴力と金について、政治の意思決定からできるだけ排除することが、民主主義の質を決めるのだよな。
民主主義というのは、
⑴暴力について。「個々人が持っている暴力性を、国に預けて、個々人は勝手に暴力を振るわない」。そのみんなから集めた「暴力性」を、国内では警察、対外的には「軍隊」として組織化し、その使用場面、方法について、法律で厳格に決める。行政権力は、この暴力性の運用について、法律の規定の範囲で、厳格に、抑制的に暴力性を運用しないといけない。まして、選挙や国会での議論、司法判断に関わる人が、暴力によりその判断を左右されることは絶対にあってはならない。
⑵お金も、みんなのお金の使い道を、みんなで決める。ということと、選挙や行政や立法や司法判断が、お金でコントロールされてはならない。というのは暴力についてと同様。
つまり、民主主義と言うのは「暴力とお金の使い方を」「言葉の議論だけで決める」ことであって、選挙や意思決定において「暴力やお金に影響されてはいけない」というのが、民主主義における「暴力」と「お金」と「言葉」の関係なんだな。
プーチンは選挙で選ばれているけれど、暴力も金も言葉も、好き勝手にプーチンがコントロールできるから、「独裁国家」なんだよな。選挙はあっても民主主義の国ではない。選挙も暴力とお金でコントロールされている。だから形の上で選挙があっても、全く民主主義ではないわけだ。
アメリカが「不完全な民主主義」なのは、おそらく、ロビー活動などで、「お金の力」が民主主義をゆがめる病理、それと権力の関係というのが「完全な民主主義に届かない理由なんじゃないかと思う。軍産複合体が政治に影響を与えているのも、そのひとつの現れだと思うよな。温暖化対策に後ろ向きだったのも、「トランプが」ということより根深く、そういうことだろう。銃規制が効かないのも同じ構造。「暴力」と「お金」と「言葉」の関係が、完全な民主主義になっていないのだな。
うん、今日の結論。
民主主義と言うのは、「みんなの暴力とお金」の使い方を、言葉だけで純粋に議論して決める仕組みのことなんだな。
それを議論する代表を選ぶ選挙も、純粋に「言葉」だけの戦いになっているのが完全な民主主義。
「お金をたくさん持っている人がお金の力で票を集められたり」「暴力を公的でも私的にでも使う人や組織が、暴力で投票行動を曲げる」というのは、民主主義ではない。
純粋に言葉での議論ができ、批判し合うことができるために、言論の自由は、民主主義を支える基本の中の基本なんだな。
こう考えると、「暴力」→「お金」→「言葉」の順番で、民主主義を広めようとするバイデンさんは、なんかおかしい。民主主義の根本原理と、それをひろげる手段の関係が、なんかおかしいことが分かる。
アタリさんの「言葉」→「お金」→「暴力」の順番でないとおかしいことが分かる。
関連note
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