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松尾潔さんと山下達郎氏についてのツイッターを1日眺めながら、思ったこと思い出したことなど、いろいろ、つれづれ書きました。

昨日から右側の扁桃腺がちょっと腫れて痛い。熱もないし左側は痛くないし、軽症ではある。でもすることないので1日寝ている。

 スマホでツイッターを眺めている。

 山下達郎氏と、同じ事務所の(ジャニーズ批判発言でその事務所をクビ、というか正確にはマネジメント業務委託する契約が解除になったということなんだが)音楽プロデューサー松尾潔氏に関するツイートがたくさん流れてくる。

 その問題自体ではなくて、そこから思うこと、思い出すこと、脱線思考を、いつものようにダラダラと書いていこう。書きながら考えていくので、今、特に結論はない。

 テレビ東京「カラオケバトル」で松尾潔さんはコメンテーターの常連である。アンダー18の王者高校生男子、久保陽貴くんが中学生の頃から、その稀有な才能を最初に見出だして絶賛して励まして、ここまでこの番組で育てきたのが松尾潔氏である。その愛情あふれる励ましと、そして知的で正確な分析コメントにはずっと深く共感していたので、僕は松尾潔さんという人のものの感じ方、考え方、言葉の選び方というのが好きだなあと、この事件が起きる前から思っていた。同じものを美しい、素晴らしいと思う人だという共感。言葉を知的にかつ愛情深く使えるということへの敬意を感じていた。

山下達郎さんについては。そうだなあ。

 僕の友人には山下達郎さんのファンが多い。世代なんだと思う。僕の場合は、2才上の姉が高校生の頃にアルバムを何枚か買って聴いていたのを、横っちょで聴いていたのが初めての山下達郎体験だと思う。歌い方の粘るような癖が、あんまり好きじゃないなあ、と当時、姉には感想を伝えていたような記憶がある。

 高校三年の文化祭、クラスメイトで組んだ日本の歌謡曲・ポップスをコピー演奏するバンド(松原ミキの「真夜中のドア」とか、今、世界で評価されるようなJ-POP名作を、まだJ-POPという言葉もなかったリアルタイムにコピーしてやっていたのである)。達郎さん「RIDE ON TIME」もコピーして演奏した。他の曲では僕はベースを弾いていたのだが(クラスメイトに学年一番ギターのうまい木村くんがいたから、僕はそれまで弾いたことがなかったベースを急遽、練習したのである。)が、この曲だけはなぜか僕がギターを弾いたなあ。

 なんだけれどまあ別にあんまりそんなに大好きというわけではなかった。

 僕は音楽の人でもあるけれど、やはりどちらかというと言葉の人であって、歌詞が「詩」として口にして歌う価値のある「この歌詞、素晴らしいよな」という歌詞が書けるアーティストが好きだ。というか、内容に共感できない歌詞を歌うのが恥ずかしいという気持ちがある。昔から今まで、ずっとある、

 山下達郎さんの曲にもときどき、特に初期の曲には歌詞がいいなあ、というのがある。「蒼氓」とか「さよなら夏の日」とか。でもまあ、たいてい、歌詞にはそんなに意味がない曲が多い。RIDE ON TIMEも、踊ろうよフィッシュも、SPARKLEも。音楽のノリと魅力自体を言語にしてみた、という歌詞である。

 ぼくが好きになった日本人アーティストを並べると、井上陽水→佐野元春→甲本ヒロト、それに小沢健二のごく短い時期というこの人達は、明らかに詩人だと思う。それぞれ個性は全然違って、「意味がない、よくわからないのにイメージが無限に広がる歌詞」を書く陽水さん、おそらくいちばん知的に真面目に言葉を考えるロックを「詩」の側面から追求し続ける佐野元春さん、そして、なんというか、天才爆発としか言い様のないものすごい歌詞を書く甲本ヒロトさん。

 という僕の嗜好からは、山下達郎氏は外れていた、ということだと思う。「音の立体的構築物としての音楽」という芸術への職人的こだわりの人である、そのアプローチ、その執念については、理解はするけれど、すごく好きなわけではない。

 僕の大好きな玉置浩二について山下達郎氏が「日本で一番過小評価されているアーティスト」というコメントをはるか昔にしたことがあって、その意味を深く分析したブログをかつて書いたことがある。歌の上手さについてと誤解する人がいるが、おそらく作曲家としてと、音楽全体の作り方について、「職人的」な自分のアプローチとは対極にいる天才として玉置浩二さんのことを評価したのだろう、という内容のブログで、かなり多くの人に読んでもらったものなので、下に貼っておく。超長文だが、真ん中へんに玉置さん達郎さん比較パートがある。

 その玉置浩二さんは、最近のインタビューで、作詞と作曲とどちらが難しいか。と聴かれて「この、年齢になると、言葉、歌詞として言いたいことはだいたい言い尽くしちゃったから、作詞のほうが難しい。曲は今でも、どんどんできる」というようなことを言っていた。

 そういえば、玉置浩二さん、歌詞については、安全地帯の初期のヒット曲は、陽水さん作詞のものと、あとはプロの作詞家、松井五郎さんの作詞の曲が多い。
 ソロ時代から後期安全地帯では自分で作詞した名作が多いが、人生で様々大きな苦労苦悩をしたところから絞り出されたような。日本の純文学における「無頼派の私小説作家」のような、身を削るような歌詞が多いのである。

 今現在、青田典子さんという良き伴侶とついにめぐりあって、オーケストラとの共演というライフワークもできて、後輩アーチストからも尊敬され、世界のファンからも認知されるようになると、「不幸の底までおちたときに見える風景」を歌詞にするという私小説的な歌詞創作原動力は弱まってしまうのかもしれない。とはいえ、今でも人生の終盤を見据えたような、そういう素晴らしい歌詞をときどき書く。作詞家としては、明らかに寡作になっている。

 歌詞で苦労しているアーティストというと、秦基博さんもそうだと思う。玉置浩二さん同様、歌は圧倒的にうまい。ギターも圧倒的にうまい。作曲もいくらでも湧いてでてくる。でも、歌詞として「何を歌ったらいいかなあ」についてはデビュー直後から売れるまでも、売れちゃった後も、苦労し続けていると思う。

 秦基博さんが映画やドラマやアニメ主題歌やがすごく多いのは、「映画やドラマの設定やテーマ」というお題を与えられると、それに沿って歌詞を書きやすい。それなら書ける、ということなんじゃないかと、勝手に推測している。映画ドラえもんの「ひまわりの約束」だけでなく、本当にたくさんの各種主題歌だらけである。そういえば秦基博さんデビュー曲の「シンクロ」は音楽のイメージ・ノリが言語化されただけな感じが山下達郎ぽくはある。

 ということで、山下達郎氏に話を戻せば、言葉の人ではないのだ。音楽を、建築のように、彫刻のように、絵画のように組み立てたり削ったり塗ってみたり、そういうことを延々とすることで作品を作ってきた人である。歌詞は、その要素として必要だから書くけれど、というくらいのことだと思う。

 作品と作者は別、ということは、言語芸術だと、なかなか「そういうわけにはいかないだろう」となるけれど、山下達郎さんにとっては、音楽は言語芸術ではないのだと思うのだよな。そうだとすると、完成品としての構築物の美は、作者とは自立自律してある、と山下達郎さんは考えるのだと思う。

 ほとんどが歌詞なしの音楽しか作らなかった坂本龍一氏について、その死の直後に、反原発や反戦と音楽を直結させて振り返る報道が多かった。そのことを批判するnoteを僕は書いた。

 政治的意見や活動と音楽表現は、無関係でもないが直結もしない。音楽にはそれ固有の美がある。一方、坂本龍一氏という人間にとって反原発、反戦などの主張は根幹的なものである。「作品と作者は独立したもの」というのも嘘だが、作者の政治的立場や倫理的側面での振る舞いに賛成できないからといって、全面的に「きらいになった」とか「がっかりした」とか「もう聞かない」とかいうのも、なんだかなあ、違うかんじがする。ナチスとな関係が深かったとしても、ワーグナーの音楽がそれ自体としてある種の感動は、聴くと沸き上がってしまうだろう。

 玉置浩二さんも、ジャニーズのV6に「愛なんだ」という名曲を、KinKi Kidsに「無垢の羽」という名曲を書いている。名曲は名曲である。ジャニーズ問題が今後、どう展開しようと、玉置さんが自分で歌う「愛なんだ」や「無垢の羽」のことは、僕は今後もずっと好きで聴き続けると思う。

 山下達郎さんとその音楽については、そんなわけで元々、深い思い入れもないのだけれど、玉置さん山下さんについてブログにも書いたけれど、例えば「ゲット・バック・イン・ラブ」を自分でアコギ弾き語り用に自分でアレンジしたのなんかは、音楽として美しい構成だよなあ、とおもうので、弾いて歌い続けると思う。

 松任谷由実さんとか山下達郎さんとか、成功者となり、自然に生きていてもなんとなく保守的体制よりになってしまうのは、そのこと自体にあまり良い感情は抱かないけれど、その人達が昔書いた音楽の美しさはそのことでは損なわれないと思うのだな。

 今回の松尾潔さん、山下達郎さんの書いた言葉、語った言葉については圧倒的に松尾さんが正しい、支持する。今、この時代の人間としての有り様として、松尾さんのほうが正しいと思う。

 でも、過去の山下達郎さんの音楽の美しさを楽しむことに、僕は変わりはない。(もともとライブにまで足を運ぶというほどのファンではないので、今までと変わらず、好きな曲だけ聴いたり弾いたり歌ったりするのである。

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