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ガルシア・マルケス 『族長の秋』を、購入後37年たって、やっと読んでの、感想。

『族長の秋』 (ラテンアメリカの文学 13) (日本語) 単行本 – 1983/6/8

Amazon内容紹介
「奇想天外、抱腹絶倒!架空の小国に君臨する大統領がおりなす奇行、悪行の数かずと、仕える部下たちの不安、恐怖、猜疑に満ちた日常を描く、ノーベル賞作家の最高傑作。」

 1983年の初版で買ってあった、大学三年生のときから未読であった本を、37年後にやっと読む。むかーし買った本には、思わぬものが挟まっていることがある。


 「ラテンアメリカの文学」というシリーズの一冊ということで、「月報」という冊子が挟まっていて、「ガルシア・マルケスの衝撃」という安倍公房の文章が載っている。

冒頭から、ちょっとだけ、引用します。

1982年にノーベル賞をもらったガルシア・マルケスは『百年の孤独』という小説を書いて、僕がそれを知ったいきさつはというと、日本文学研究者ドナルド・キーンさんから「『百年の孤独』を読んだか」と聞かれ、「読んでいない」と答えると、「とんでもないことだ。これはあなたが読むために書かれたような小説だからぜひ読みなさい」と教えられた。「僕は英語が読めないから」と言うと、「冗談じゃないよ、翻訳があるじゃないの」。あわてて読んで、仰天してしまった。これほどの作品を、なぜ知らずにすませてしまったのだろう。もしかするとこれは一世紀に一人、二人というレベルの作家じゃないか。そこで、この本を出した出版社に、「これほどの作家を出しておいて全然広告しないというのはなにごとだ」と言うと、「いや、広告しました。」「見たことないよ」「いいや確かにしている」というようなわけです。

 引用おしまい。安部公房氏の興奮が伝わる面白い文章でした。大江健三郎も、おそらくは『百年の孤独』に出会って、それ以降、四国の森の物語を延々書き続けることになったのだと思うので、この時代、小説を書いていた人にとっても、いかに衝撃的だったか。

 というわけで、そういう評判だけ聞いて本は買ったものの、『百年の孤独』も『族長の秋』も読まずにずっと本棚にあった。数年前『百年の孤独』を読んで、安部公房氏同様に私も大興奮したのだが、『族長の秋』にたどり着くのにまた数年かかってしまった。

 しかし、この年齢になるまで、読むのを待って良かったという思いもある。ふたつの理由で。

理由その①。

 マルケスの文学特徴は、現実と幻想が行きかう「マジック・リアリズム」と言われるという「知識」だけで、若い自分がこの小説を読んだら、小説内で展開される奇想天外な権力者の横暴残虐気まぐれな振る舞いの多くを、非現実的な、想像力の産物、と思ったのではないかと思う。

 この年齢になると、不勉強な私とは言え、南米の独裁者の想像を絶する非道な弾圧暴力について、本や映画でなんとなくはいろいろと知るようになった。小説よりも後の時代のことだが、コロンビアの麻薬王についての本やドキュメンタリーを数多く見るということも、ここ数年してきたし。破天荒な暴力、権力者の無邪気でめちゃくちゃな振る舞いについての知識は豊富になった。

 例えば、チリのピノチェト政権は、反体制派の若者を大量に逮捕して、飛行機に乗せて太平洋に投げ捨てて大量に殺すということをしていた。コロンビアの麻薬王は、自宅豪邸に動物園を作った。南米の権力者やその周辺の人間のふるった暴力や、勝手気ままな振る舞いは、日本人の想像をはるかに超える。『族長の秋』主人公の大統領とその周囲の者の奇想天外な振る舞いが、南米においては、けっして非現実ではない。

 また、そうした南米の独裁権力者たちも、米国の、経済的軍事的支配の下にあり苦しんでいることも、この小説の中にはきわめて滑稽かつリアルに描きこまれている。

 南米の読者にとっては、何らかの現実的事件、人物を連想させる、「あるある」感満載の小説なのだという読み方ができるようになった今、この小説を読むのは、なかなか良かったと思う。

理由その②

 主人公の大統領は、とにかく長命で、年齢不詳である。100年に一度しか来ない彗星を、生涯で,二度、見ている。その長すぎる独裁者の、「百年以上の孤独」を書いているのが、この小説。権力の本質権力がもたらす孤独と不幸。国民にとってもとんでもない災厄だが、本人にとっても、耐えがたいような老いと衰えが、延々と描かれていく。老いと愛の不在の問題を、ここまで多角的に深く描き出す小説もめったにない。幸いにして私は「権力のもたらす」という部分には無縁だが、老いの果てにある荒涼とした境地を、自分とかかわりのあることとして読むことができる、この年齢になってから読んで良かった、と思う。

 権力についての小説でもあるが、愛の不在と、老いての性への妄執について、この小説はこれでもかと抉るように描き続ける。愛する人をつぎつぎ失い、いや、まったく愛されないまま欲望だけは衰えない老いの苦しみ。

 南米とは全く異なる、(独裁者というのとは違うのだ)が、我が国の権力者たち、例えば、安倍首相、麻生副総理、森喜朗氏の、権力の中に長くいる中で老いていく人間の不幸も、考えてしまった。中村文則氏の『R帝国』には、驚くほど年老いてなお権力の奥の院に座り続ける、こうした与党権力者の何十年後かを思わせる人物が登場する。日本では、南米ほど無邪気で破天荒な暴力は、表面的には表れないが、長く続く権力と、その周辺の腐敗、それらは、この国の指導者も無縁ではない。

 首相がはずみでついた嘘を糊塗するために、役人たちが文書を改ざんしたり、てんてこまいする。その末に死者まで出る。権力者とその身内友人で利益利権をまわしあう悪だくみが繰り返し露見する。権力者の配偶者の勝手気ままな振る舞いに、周囲も振り回される。そんな我が国のここ数年の政治のことを考えると、この小説を、荒唐無稽などと笑ってはいられない。実現するかどうかわからない五輪に執念を燃やし、いかにも体調の悪そうな様子でメディアの前で妄言を繰り返す森喜朗氏の姿を、この小説を読んでいて、何度も思い浮かべた。

 権力を握るということの病理の根源を理解するという意味で、実にすさまじい小説でした。上にあげた自民党三首脳も、この小説を読んだら「こんな風になりたくないよなあ、なりかけているかなあ」と自らを省みると思うのだが。しかし、こういう小説を読むような趣味は、お三方は持ち合わせていそうもない。残念。


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