『社会学をはじめる――複雑さを生きる技法 』(宮内泰介 (著) 広告マーケティングのことはひとかけらも書かれていないけれど、自分の仕事時代に大切にしていたことがまるごと書かれていてビックリした。あと社会学について「科学的な学問なの?」と批判的な人も必読。
『社会学をはじめる ――複雑さを生きる技法 』
(ちくまプリマー新書 460) 新書 – 2024/6/7
宮内 泰介 (著)
Amazon内容紹介
◆ここから僕の感想
ふだんは世界文学・小説の感想ばかり書いているのだが、今回はちょっといろいろ事情が違う。この本自体はツイッターでちらっと見かけて何の気なしにAmazonでポチって読み始めたのだが、これはもういろいろ書きたいことが山のように頭の中に湧いてきて、さて、どこから話始めようかな。
これね、僕が広告業界のマーケティング屋をしながらやってきたこと、考えたてきたこと、いやほんとに「調査で聞き、分析で考え、理論で表現する」という中で大事に思っていたようなことが、まるまんまそのまま書かれているのだな。もちろん、この本、広告についてもマーケティングについても何にも書かれていない。まっとうな社会学研究者の書いた本のだけれど。そうか、僕のやってきたことは社会学だったんだと、あんまりびっくりしたのでまず著者プロフィールを見ると、
なんだ、東大文学部の一学年先輩ではないか。駒場でも本郷でもごく近くにいたのだな。なんか、書く文章とかものの考え方が、同世代ぽいなあと思ったのだ。なるほどね。
もちろん僕は国文学科卒で、社会学については全くの門外漢なのだが、マックス・ウェーバーやアンソニー・ギデンズなんかはちょっとかじったけれど、政治思想の本として読んだ感じなので、社会学の学問の方法については全然知らない。
社会学という学問は最近の「エビデンスがないなら、それはあなたの感想ですよね」ひろゆき信者あたりにえらく評判が悪い。上野千鶴子氏とか古市憲寿氏らが、いろいろな場所でコメンテイター的に(政治的立場からかな)いろいろ発言していることも「社会学者って、社会学って何だろう」と印象を悪くしている一因か、とも思うのだが。
この本、社会学は「きちんとした学問だが、その学問としての方法論や特徴として、自然科学とは全然違うよ。『データ』といったときも、その意味は全然違うよ。」ということを、誰にでもわかる言葉で、いちからていねいに、楽しく説明していってくれるのだな。ここ数年の「専門家の言うことを素人は黙って聞け」と「データ、エビデンス(数値のエビデンス)がないのは科学ではない、ただの感想だ」という風潮に対して、というか別にそれに反論しようと書いているのではないのだが、そうした風潮に対する非常に本質的な批判になっている。
ということで、
①僕のやってきた仕事との相似度合いがあまりに高くて、びっくりしたり感動したりした。
②いまどきの「(数値データの)エビデンスがなければそれはただの感想」という非常に頭の悪いひろゆき的議論封殺テクニックに対する、きわめて本質的な反論になっている。
という二点において、これは紹介しないわけにはいかない、と思ったわけだ。
特に、広告業界の現役のマーケティングやコンサル系の部署、仕事をしている人たちに対しては、「必読書」としておすすめしたい。先にも書いたけれどマーケティング・広告については一言も書かれていないけれど、調査の意味と手法、それをどう読むか、そこからどう考えるか、それをどう使うか、それについてこれほど本質的かつ実用的に書かれている本は読んだことがない。これを読んで「自分の仕事とどう関係あるのかわからない」と思ったら、え、そういう人って、それはそういう仕事には向いていないんじゃないの、と言えるくらいのすごい本だと僕は思ったぞ。
まずね、社会というのは意味の複雑な絡まり合いからできている、という話から始まるのだな。意味というのは、それぞれが明確に意識している場合もいない場合も、まあ言語で成りたっているから、意味の絡まり合いを把握するには、言語として聞かないと、わからないわけだな。人によって違うし、一人の人間の中でも多重性をもっていたりする。つまり、物理的な真実を追求する自然科学とは違って、意味が複雑に絡まり合っている社会を相手にする以上、まずは言語でもってそれを解きほぐしていかないと、扱えないということだ。
次に、社会学はそもそも「規範的な学問だ」というのね。「どうすべき」「解決するにはどうしたらよいか」という価値判断と能動性を含んだ学問だというわけ。物理的な真実を明らかにしようとする自然科学に対して、そもそも「どうするべきなのか」を初動段階で内包する学問だということ。つまり「行動のための知」だということ。
でね。だからこそ、なんというか、絶対にこっちがこれが正しいと他者に押し付けない態度の必要な学問だというのだな。こうやって調べて考えて、こうかな、と思ったらやってみる。ちょっと引用するね。これまず、生態系管理の手法を開発したホリングという生物学者の「順応的管理」ということから説明しているのだけれど、
といいつつ、データが必要だよ。データはものすごくしっかり集めるよ。でもね、データと言ってすぐ数値データじゃないのよ、という話をていねいに進めていきます。社会学では
というのだな。
でね、いちばん重視されるのがインタビュー調査なわけだ。前にnoteで書いたけれど、僕が仕事でいちばんたくさん時間を割いたのはグループインタビューの観察分析で、定量調査をする前に、十分な量の定性インタビュー調査をしないのは大馬鹿野郎という主義だったのは、前にも書いたし、一緒に仕事をした人はみんな知っていると思うのだけれど、この著者も同じ考えの人なんだな。
そしてね、初めに知りたいことや仮説をガチガチに作ってそれについてだけ深く聞く、というインタビューはダメで意味がない、ということを書いていて、それは僕も仕事時代同じことを考えていて、ライフヒストリー(生活史)から、まああんまり関係なさそうなことまで聞いていく中で、ほんとうに知りたいと思っていることが、その人、その人の生きている社会の中で、どういうことと複雑に絡まり合って存在しているかが、見えてくる。そういうことを、インタビューしながら分析考察しながら、対話をしていくのがインタビュー調査なんだな。
仕事時代のグルインを思い返しても、商品開発担当の理系研究者タイプの人とか、広告作るクリエーティブ関係の人なんかで調査に疎い人って、インタビュー前半のライフヒストリーを聞いているあたりでは、インタビューを全然聞かずに雑談したりパソコンで別の仕事をしていたりして、「自分が作った商品、例えば食品や飲料を試食させたり、広告案を見せたりする」というところだけ見て、ああだこうだいう人がけっこういたのだよな。
ほんとうにもったいないことである。高い費用をかけてインタビュー調査をして、その本当に価値のあるところを、まるでみたり聞いたりしないのである。
その商品カテゴリーが、どういう生活全体の中で、どういう価値観と結びついて、どう選ばれたり使われたするのか。自社製品が選ばれたり他社製品が選ばれたりすることと、そういうライフヒストリーやそこからうかがえる価値観、価値観というのは何を大切にして生きているかの順番のことだからね、そういうことを、発言と、発言だけじゃない、どんな服を着ていて、どんな話し方をしていて、そういうこと全体を観察しながら読み解いていくのがインタビュー調査だからね。
そしてね、どんなに事前にいろいろ考えて、考え抜いて商品もパッケージも広告案も考えたとしても、グループインタビューをすると、全く想定していない反応というのが、必ず出てくるのだよな。それはポジティブなこともネガティブなことも。ずっと手前で躓いていたり、全然思ってもいない小さなことがすごく評価されたり。そういう定性調査、インタビュー調査で、その商品や広告を取り巻く、送りて作りてがいくら考えても取りこぼしていたいろんなことをきちんと拾い集めてからじゃないと、定量調査をしても、全く無駄なんだよな。
定量調査(この本ではアンケート調査という言葉で論じている)についても、数字で結果がでるけれど、これは自然科学のデータ、数値とは全然意味が違うということをちゃんと書いている。
だから、事前にインタビュー調査や先行文献研究などでカテゴリーと意味の構造を十分に検討して、そうした「対話」を行った後でないと、アンケート調査はしても意味がないのである。
そう、先行文献や研究と対話するという「対話」の重要性についてもたくさん書かれているのだが、僕か仕事時代重視したけれど、電通のマーケの人がほとんどしなかった手法に「そのカテゴリーにおける広告表現ヒストリーの分析」というのがあるのだな。この分野、博報堂の人たちはものすごく精緻な分析をするのだけれど、電通はその習慣がほとんどなかったなあ。まあ、今はマス広告、テレビCMはほぼ死滅しているから気にしないかもしれないけれど。あの当時も深い分析をする人は少なかったよな。
話はすごーく脱線するけれど、今、テレビの広告でいちばん僕が気にいっているのは、「夢グループの社長と、グループ所属演歌歌手保科有里(61歳、同学年だ)さんのやりとりのテレビ通販広告」。「社長、お願い」「安ーい」という愛人風お願い広告。
あれを見ていて思い出すのが(若い人は知らないと思うが)消費者金融「武富士」のTVCF武富士ダンス。レオタード姿の若い大量の美女たちがジャズタンス踊るだけの広告なんだけど。なぜあれが消費者金融広告として成り立つか、効果的なのか、ということについて、何十年も前だが、消費者金融業界各社広告表現分析をしたことがある。
あれのポイントは、センターで踊っている女性が、美女軍団の中で、一番の美女ではない、という点にある。というのが僕の分析のポイントだったんだな。当然、当時から「社長の愛人があの中にいて、無理やりねじこんでセンターにしているんだろう」みたいな見方はあった。あのバブルの時代を象徴する村上龍の小説『テニスボーイの憂鬱』というのは、田園都市線沿線の成金ステーキハウスの若社長が、「なぜだが最近みんな牛肉を食べたがる」ためにどんどん事業がでかくなってテレビ広告をすることになって、そのモデルの女性を撮影の時に口説いて愛人にする、という話なんだが、まあ、当時はそういう時代だったわけだ。なんだけれど、それなら絶世の美女がセンターなのか、というと、保科さんは愛人じゃあないですよー、とインタビューで答えていて、そうなんだろうかなあと思いつつ、保科さんのほどよく気さくな感じとか、武富士ダンスのセンターの女性がほどよく一番の美女でない感じというのが、「なんとなく欲望にだらしない自分を肯定してくれている感じ」というのを醸し出して、ちょっとだけお金借りちゃってもいいか、とか「このDVDプレーヤーが一万円なら買っちゃってもいいか」という、そのほんのちょっとの出費ならいいかという欲望に対する緩い自分をやさしく肯定してくれている感じが、いいんだよなあ、というようなことを、あの夢グルーフ広告を見ると、昔やった武富士ダンスの分析を思い出してしまうのだよな。
と「社会学をはじめる」とは全然関係ないおバカ大脱線をしてしまったが、定量調査の数値データだけに意味がある、みたいなことの対極に、社会学のデータの収集と分析というのはあるということなんだな。
で、そうしたデータを集めた上で、それをどう集約したり構造化したりしながら分析するかについてもとても親切丁寧に説明してくれているけれど、「分類・類型化する」「傾向を見る」「比較する」「関係をさぐる」という中で、例えば「比較する」についても理系の自然科学的な「比較とは違うよ、ということを説明してくれる。
《ところで、傾向を見るとか、比較をするとか言ったときに、それを「厳密」に行おうとすると、「条件を整える」必要がある、と考える人もいるでしょう。条件を整えて厳密な比較をしないと意味がなくなる、という考え方です。》《しかし社会学における「比較」では「条件を整える」かどうかは、あまり本質的ではありません。もちろん社会学の研究でも、条件を整えた「厳密」な比較が必要な場合もあります。しかし、多くの場合、社会学における比較は、もっと自由でもっと幅が広いものです。》
そして、最後の方で、専門家の「欠如モデル」に対する批判を展開します。
そして「冗長性」ということの大切さを説く。
これを読んで、「ハラさんのマーケ戦略部分の結論、ふたつあって、どっちなんですか。結論は一つじゃなきゃでしょ」とよく言われたことを思い出すなあ。どんなに膨大にグルインも定量調査もやり、分析をしても、どっちもありだよなっていうことは、あるんだよ。どっちも広告案作って、どっちがほんとに効くか、やってみなきゃわかんないってことはあるよ。
いまどきのWEB広告だと、ABテストとかいって、どんどんいろいろ広告を打って、レスポンスだの成約率だので比較しちゃうことできるけれどさ、昔の何千万円かけてテレビ広告つくるのだとそうもいかないんだけどさ。誠実に真剣に考えても、「どっちもありだよ」というのはあるの。あるのよ。
みたいなことまでまあいろいろと思い出したり考えたりしながら、読んだわけでした。
蛇足だけれど最後に、この感想文を書いたのは、電通入社同期の友人に「原は広告の仕事はブルシットジョブだというけれど、自分はそうは思わない。広告の仕事、電通の仕事に対して、何かポジティブな発信をしたらどうか」というダイレクトメッセージをこの前、もらったこともあるんだな。僕がやってきた理屈をこねて企画書を書く仕事というのは、まあ正直、ブルシットジョブ、仕事を増やすための仕事だという考えは変わらないのだけれど、でもね、グループインタビューをたくさんやって、いろんな人の人生の話をやまほど聞いて、そのことと商品サービスの関係を考えて、そうやって考えたことを、商品を開発したり、広告を考えたりする人にお話して喜んでもらう、というのは、楽しい仕事ではあったよなあ。そんなことを、この本を読んで思い出したのでありました。
だからね、広告業界で現役でがんばっているマーケティングだの調査だの、そういうことをやっている人には、自分のやっている仕事の方法論や意味について、この本を読んで、考えてほしいなあと思ったのでした。長くなったな。おしまい。
昔の仕事時代のことを書いた古いnote
ブルシットジョブって何
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