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『地中のディナー 』 ネイサン・イングランダー (著), 小竹 由美子 (訳) イスラエルとパレスチナの果てしない紛争を全体構造として小説化するために、実在/架空の人物を主人公とした、いくつかの小説アイデアを組み合わせて、複雑な長編小説に組み上げたもの。なので、いささか読みにくい。が読む価値はある。

『地中のディナー 』(海外文学セレクション) 単行本 – 2021/4/28
ネイサン・イングランダー (著), 小竹 由美子 (翻訳)

Amazonm内容紹介

「たった一人の囚人Zと、たった一人の看守。
自国の秘密軍事施設に監禁された元諜報員の数奇な人生。
『アンネ・フランクについて語るときに僕たちの語ること』
(フランク・オコナー国際短編賞受賞、ピュリッツァー賞最終候補)
の著者が、囚人Zの物語を通してパレスチナ紛争の不条理と希望を描く!
イスラエルの砂漠にある秘密基地の独房。看守は将軍の命令で囚人Zを監視している。長年二人きりで、彼らは親交を結んでおり、囚人Zは毎日将軍に手紙を書いて看守に託している。この奇妙な関係が始まったのはなぜなのか。ユダヤ系アメリカ人の学生からイスラエルの諜報員になった囚人Zの、悲惨で数奇な人生とは。『アンネ・フランクについて語るときに僕たちの語ること』でフランク・オコナー国際短編賞を受賞した著者、渾身の雄編!」

ここから僕の感想。

必ずしも読みやすい小説ではない。出来の良い小説ではない。しかし、読む価値のある小説だと思う。そう思う理由を、以下、書いていく。

 ついこの前(2021年5月)も、イスラエルとガザ地区のハマスの間で、多くの犠牲者を出すミサイルの打ち合いがあった。どちらがどれだけ悪いのかについて、日本人が判断しようとすると、事実や経緯を知る前に、今の自分の政治的立場から、あらかじめ評価を決めてしまうことになりやすい。犠牲者の数ではいつもガザ地区のパレスチナ人の方が多いし、歴史的経緯を見れば被害者に思えるが、イスラエル側で犠牲になった人も、兵士でもなんでもない普通の市民だ。

 この小説と作者の経歴を本のカバー袖から引用する。

「1970年、ニューヨーク州ロングアイランド生まれ。ユダヤ教正統派コミュニティの中で、敬虔なユダヤ教徒の少年として成長した。だがニューヨーク州立大学在学中にイスラエルを初めて訪問し、カルチャーショックを受け、やがて棄教した。」

 個人としてのイスラエル人ユダヤ人とパレスチナ人。有名な政治家と、それを取り巻く一般人、無名の人たち。実在の人物をモデルにした人と、架空の人物。政治的状況の中では深刻な対立に巻き込まれるが、個人としては友情も愛情もはぐくむこともある。そういう何組かの人物のエピソード、おそらくは短編小説がふさわしいようないくつかの小説的アイデアを組み合わせて、ひとつの長編小説に組み上げたのが、この小説である。

 イスラエルとパレスチナにかかわりのある人ならば、登場人物が、事件が、誰をさし、どの歴史的事件のタイミングのことかは自明なのだと思うが、不勉強な私の場合、おそらくそのあたりのことだろうと、ウイキペディアの関連項目と行ったり来たりしながら読んだ、訳者の巻末解説を読むと、そのあたりのことはすべてきちんと解説説明されている。

 本書の成り立ちについても、作者自身の解説が紹介されている。

≪第二次インティファーダの直後に帰国した作者は、この紛争をなんとか小説の形にしたいと長年構想を練ってきた。そして、和平へ向かいかけてはまたも武力衝突、というこの堂々巡りとそれを取り巻く入れ子構造を描くには、いくつかのストーリーがそれぞれ循環しながら重なり合っていく構造がいいと思い付き、作者が「ターダッキン(詰め物をした鶏を鴨に詰めてそれを七面鳥に詰めてローストした料理)小説」と呼ぶ本書を書き上げた。「ポリティカル・スリラーを歴史小説で包み、実は恋愛小説で、結局は寓話」とのこと。≫

 という技巧に走ったために、小説の半分近くまでひどく読みにくいし、結末近くなると、小説のつぎはぎ度合いのアラが気になってくる。小説全体の統一的なクライマックスに向かうというより、短編小説のつぎはぎ構造がはっきりわかる。これなら、それぞれ独立した短編として仕上げて、短編集にした方がよかったのでは、と純粋に文学、小説の出来として考えるとそう思える。

 それでも、イスラエルとパレスチナの、指導者の、政治的活動家の、普通の市民の、兵士の、いや、そういうことがはっきりと区分できないような世界に生きているその地域の人たちの感覚を全体として伝えるには、こういう手法をとることが必要だと、作者は考えたことがわかってくる。

 そうなのだ、これはちょっと前にマイケル・オンダーチェの『戦火の淡き光』の感想で、イギリスについて書いた「日本人が思うよりずっと深く、生活のすみずみに、諜報活動というものが存在する」というのと同じようなものだ。あれはドイツとの戦争と、世界各地の植民地工作の両方が盛んだった時期には、ごく普通の人と思っていた自分の家族が諜報活動にかかわっていた、ということを中心に据えて書かれた小説だったわけだが。イスラエルとパレスチナに暮らす人にとっては、現在も抗争の報復の連鎖は生活の一部であり、つまり、兵士であったり諜報活動であったりテロリストであったりすることと普通の市民であることは地続きで、日本人のように「普通の市民は被害者」「政治家や軍人やテロリストや諜報部員は加害者」みたいな、単純な世界ではないのである。それはイスラエル側もパレスチナ側も同様だ。「弱者の、一般市民の味方をするのがリベラル」などという甘ちゃんな日本人の感覚で、一方的にどちらかを加害者、どちらかを被害者とはできない、被害者であり加害者でありそれはひとつの国の中でも両義的で、イスラエルとパレスチナの間でもそうで、かつ、個人としての関係でいえば、友情も愛情も普通に存在するのである。

 小説として、明らかに読みにくい。文学作品として出来がいいかといわれると疑問。しかしそれでも、この世界に、この時代に生きる人間としては、読んでおいた方がよい小説だと思うのは、上に書いたような、そういう小説だからなのである。

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