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カズオ・イシグロに最適の年齢  ③『充たされざる者』から『わたしたちが孤児だったころ』

『充たされざる者』

Amazon内容紹介を引用「世界的ピアニストのライダーは、あるヨーロッパの町に降り立った。「木曜の夕べ」という催しで演奏する予定のようだが、日程や演目さえ彼には定かでない。ただ、演奏会は町の「危機」を乗り越えるための最後の望みのようで、一部市民の期待は限りなく高い。ライダーはそれとなく詳細を探るが、奇妙な相談をもちかける市民たちが次々と邪魔に入り…。実験的手法を駆使し、悪夢のような不条理を紡ぐブッカー賞作家の問題作。」


 『日の名残り』の大きな成功の次に、何に挑戦するか。「日本的舞台設定」において成功した初めの二作。「イギリス的舞台設定」により、新境地を開いた第三作。イギリス、英語圏の文学界に若くして確固たる地位を築いた第三作。その次の挑戦は。

 イシグロは、日本からも、イギリスからも離れ、欧州大陸の、ナチスの記憶と、東西対立の影が差す、ドイツ文化圏の地方都市に舞台を移す。そして、小説のスタイルとしては、カフカ的不条理小説的世界に挑戦する。

 カフカ的不条理とは。登場人物が動く小説世界は、地理的にも時間的にもいびつに歪んでいるために、登場人物は、過去未来を行ったり来たりしているようにも思われる。難解で把握しづらい。私の知人友人も、「この作品だけ読み通せなかった」という人が多い。「舞台・設定」という視点で言えば、今回も、大胆な挑戦である。 

 しかし、「テーマ」という点で内容や人物設定、人物関係を追ってくれば、ここまでのイシグロの集大成的な作品であることがわかる。ここまで追いかけてきた過去三作の人物設定と、それを通じて描かれたテーマが、何層にも複雑に絡み合って描かれていることがわかる。

 舞台は欧州の大陸圏である。おそらくはナチスドイツの記憶を持つドイツ圏の一地方都市である。

以下に登場人物とその関係を列挙しつつ、過去の作品の、どのようなテーマの後継者であるかを、ざっくりと整理していく。


◎その地方都市を訪れる、壮年の世界的ピアニストが主人公である。芸術家主人公という意味では、まず、『浮世の画家』の要素を受け継いでいる。


◎主人公が滞在するホテルのポーターである祖父と、その娘と、その子供(ポーターの孫)の男児いう家族が重要な脇役である。


◎主人公ピアニストは、ポーターの娘と事実婚関係にあり、子供はピアニストの息子である。老ポーターは「日の名残り」の執事の分身のような、仕事へのプロ意識を持つ労働階級の人間である。老ポーターは些細な行き違いから、娘と口を利かずに何年も過ごしており、なんとかしてこの問題を解決したいと考えている。そして、父、娘、婿、孫の家族関係の、愛をめぐる葛藤、ドラマというのは、繰り返し登場する定番テーマである。


◎主人公は世界を旅してまわるため、この内縁妻と息子との間に、愛を築くことに失敗している。このままでは「日の名残り」主人公のように、真の愛を築くことに失敗しそうである。が、まだ壮年であり、取り返しがつくかもしれない。

ここから、別の人物の説明。
◎主人公ピアニストが滞在するホテルの支配人とその妻。この二人は音楽愛好家である。その息子の駆け出しピアニストは、自分に才能があるのかないのか、父と母に、自分の才能が認められるのかを気にしている。


◎主人公のピアニストは、その夜のコンサートに、父と母が見に来てくれるかどうかを気にしている。

 こうして読んでいても、混乱するでしょう。「支配人とその妻、その息子と駆け出しピアニスト」と、「世界的ピアニストの主人公と、その両親。」どちらも、ピアニストである息子は、両親が聴きに来ることをとても気にしている。あたかも、主人公の若い時の不安を、現在の別人物と重ねて描いているような、奇妙な時間的ループとして感じられる。

さて、ここから、政治的背景と芸術の関係。
◎その地方都市は、芸術と政治の複雑に絡み合った、市民の間のいさかい、問題を抱えている。共産主義における芸術論闘争のようでもあり、「サトラー館」という、ヒトラーを思わせる人物の影響を巡る芸術上の新旧世代の争いのようでもある。「浮世の画家」で描かれた、政治と芸術をめぐる対立が、この地方都市でも渦巻いている。

◎主人公ピアニストは、その難問題についての解決を期待されているが、サトラー館の前でポーズを取った写真をメディアに取られ、苦しい立場に陥ったりする。(あたかも「ハイル・ヒットラー」ポーズの写真を取られて、ナチス支持者であると誤解されたりしそうだ、というようなエピソードである。)

戦中の政治的失敗、ナチスを支持したことへの責任、デビュー作以来のテーマが、この小説の中にも投げ入れられている。

ここから、別の重要登場人物の説明。

◎ 地方都市の芸術家の中心人物として、かつての有名指揮者だったが、現在は老いぼれてアルコールに溺れ、信望を失っている老人がいる。地元の伯爵夫人と結婚していた過去があるが、今は別れ、伯爵夫人に見捨てられている。

◎この老人は、主人公来訪記念イベント・コンサートで、再び指揮をすることで、芸術家としての名声と、かつての妻、伯爵夫人の愛を再び獲得したいという絶望的な希望を抱いている。取り返しがつかない老齢になっての、人生の深い後悔、仕事と愛の両方において、悲惨なまでに失敗しかけており、今夜のイベントを最後の挽回の機会と考えている。

 この老指揮者、『日の名残り』主人公はじめ過去作品の、「人生最終盤における仕事と愛に失敗した後悔」を煮詰めて凝縮したような人物である。

 このように整理をすると、「ヒトラーまたは共産主義と芸術」という問題への責任、芸術生活と、妻と息子に対し、真の愛ある関係を築けていないという問題。それらを、「まだ壮年で、取り返しがまだつく年齢の主人公」と 「もう取り返しがつかなくなっている老指揮者」、そして「誠実に生きてきたのに、娘との関係が壊れている老ポーター」、など、愛をめぐる老年の後悔と、その予感が、何人もの登場人物に沿って、重なって描かれているのである。

 叙述スタイルの特徴としては、語り人物の主人公、ピアニストの一人称と、神の視点の三人称が、連続的に行ったりきたりするという、きわめて意図的技巧的な「混乱」を導入している。


 空間的にも、かなりの距離を交通機関を使って移動したはずが、また都市の中心部、ホテルの中に舞い戻っているような混乱が繰り返される。どう考えても間に合わないほど、遠く離れた郊外で時間を過ごしながら、ホテル近くに戻ると、待ち合わせ時間に間に合っている。時間も空間もいびつに伸び縮みするのである。このカフカ的不条理設定を覚悟しながら読まないと、「何がなんだか分からない。この街と郊外の地図を見ながらでないと納得できない」と苛立ってしまうのである。

 多くの登場人物と、不条理な空間時間構成の舞台、登場人物設定が時間を超えて重なるという複雑さ、の中に、「取り返しのつかない人生終盤の後悔」「政治的責任」「愛の後悔」「芸術生活の後悔」「誠実な労働者階級の報われない人生」というテーマが複雑に織り込まれているのである。


 「カフカ的不条理小説」の設定・舞台を採用したために、イシグロ作品の中でも特に読みにくく分かりにくい作品になっているが、こうして整理してみると、ここまでの作品の集大成的内容であることが分かる。


 テーマにまつわる、これまでの作品との大きな違いは、主人公を壮年の、「失敗しかけてはいるが、回復、改善の可能性のある人物」にしたことで、この小説のラストは、イシグロ小説の中で、いちばん明るい希望の光に満ちているのである。取り返しのつかなさを、老ポーターや老指揮者という「助演男優」たちが背負ってくれたおかげと言えるかもしれない。

 『わたしたちが孤児だったころ』

Amazon内容紹介から引用「上海の租界に暮らしていたクリストファー・バンクスは十歳で孤児となった。貿易会社勤めの父と反アヘン運動に熱心だった美しい母が相次いで謎の失踪を遂げたのだ。ロンドンに帰され寄宿学校に学んだバンクスは、両親の行方を突き止めるために探偵を志す。やがて幾多の難事件を解決し社交界でも名声を得た彼は、戦火にまみれる上海へと舞い戻るが…現代イギリス最高の作家が渾身の力で描く記憶と過去をめぐる至高の冒険譚。」


 イシグロの「設定的冒険」は続く。どのような舞台で、どのようなスタイルの小説的仕掛けを拝借するかについては、イシグロは一作ごとに大きく目先を変える。

 今回は、「探偵小説」という文学的仕掛けを取る。英国文学には「シャーロック・ホームズ」により開かれた「探偵小説」というジャンルが存在する。が、この小説を読んで改めて分からなくなったのが、果たして英国社会に本当に「名探偵」なるものが存在するのか。それとも、あくまでも「社会的名士でもある名探偵」などというものは小説の中にしか存在しない、虚構の存在なのか。そこのところからして、分からない私は、読みながら、混乱した。

 20世紀初頭の上海で幼少時を過ごした主人公は、まずは父が、次に母親が失踪し、悲劇の主人公としてイギリスに戻る。経済的には関係者の支援を得てオックスフォードを卒業した主人公は、やがて「名探偵」として、英国社交界の有名人となる。1937年、日中戦争の戦乱の中、上海に戻った主人公は、母親の行方を追うが・・・。 

アジアからイギリスにわたって育つ少年、という点に、イシグロをわずかに主人公に重ねる要素はある。(とはいえ、この主人公は白人の、生粋のイギリス人ではあるが)

 何せ、探偵小説なので、いかに文学評論とはいえ、ネタバレ厳禁のようにも思うので、この作品については深くは論じにくいのだが。気を付けて論を進めよう。

 前作の「カフカ的不条理小説の混乱」とは異なるが、「探偵小説」という、小説作品内にしか存在しない迷宮の中に迷い込んだような読書体験である。この混乱こそ、作者が仕掛けた罠であることに、小説の最後で気づく。


 前作が「カフカ的混乱」という舞台設定の中に、テーマを投げ込んだのに対し、今回は「シャーロックホームズ的探偵小説」の中に、テーマを投げ込むというのが、舞台設定を通じた、イシグロの小説家としての「野心的挑戦」なのである。


 前二作で「日本」という舞台設定から離れたイシグロだが、本作では先の大戦中の、上海租界に暮らす少年時代、という舞台設定で、日本と先の大戦、という舞台設定を変奏しつつ採用する。「少年期のあいまいな記憶の中の、日本人との関係」が、小説の中に登場する。

ここから先、大ネタバレになりそうなので、もともと書いていた原稿から、大幅削除して、注意して筆を進める 。

 小説のラスト、1937年の、上海での大冒険の果てに、主人公は、「名探偵」という、人生の基盤自体がすべて大きく揺らぐ驚愕の事実に直面することになる。そして、1958年の、小説のラスト、60歳近くになった「人生終盤」に、取り返しのつかない人生をまるごと眺める場面で、小説は終わる。これもまた、取り返しのつかない人生の後悔をめぐる物語ではある。その意味で、探偵小説という形を借りながら、まぎれもなく、イシグロ小説の正統な系譜上の一作であることに間違いない。

 イシグロ論からは離れるが、同世代、同時期にイギリスの代表的小説家として、ブッカー賞を争ってきた、イアン・マキューアンの『贖罪』(1998年)や、ジュリアン・バーンズの『終わりの感覚』(2011)も、若い時の苦い記憶、経験を引きずりながら、生きてきた主人公が、人生のある段階で、その過去についての、驚愕の事実を知る、という、ある種の「最後にひどくびっくり」小説を、各々、代表作として持っている。いずれも「記憶不確かさ」が「人生の不確かさ」「取り返しのつかない苦い後悔」と結びつくような作品である。アイルランドのジョン・バンヴィルの『海に帰る日』『いにしえの光』も、その系譜に数えることができると思う。こうした小説は、ネタバレ禁止なので、非常に論じにくいのだが、まぎれもなく、文芸評論の対象とすべき、純文学の傑作なのである。ここに挙げた小説たち、どれも掛け値なしの傑作なので、お薦めです。

 こうした作品を、文学論として論じるにあたっての、暗黙のルールやマナーというのはあるのだろうか。純粋な学術研究としてであれば、「ネタバレ」なんていうことは気にしないのだろうが、あくまで、未読の読者に、作品を読んでほしいという気持ちで、この文章は書いているので、悩ましいところである。

今回はここまで。次回で最終回。『わたしを離さないで』から『忘れられた巨人』まで、一気に進みます。下記下線部クリックすると飛びます。

カズオ・イシグロに最適の年齢  ④『わたしを離さないで』から『忘れられた巨人』へ、共通・連続したテーマについて。



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