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カズオ・イシグロに最適の年齢  ④『わたしを離さないで』から『忘れられた巨人』へ、共通・連続したテーマについて。

 今日で最終回、この回が、本当の本当に書きたかったこと。なので、今までの回が退屈だったり、難しかったり、そもそも読んだこともない小説について論じられても、興味がわかない、という人も、できれば、この回だけでも読んでほしいというのが、私の切なる希望。

 まず、『わたしを離さないで』については、途中で衝撃の事実が明かされるという要素があるので、「ネタバレ」を気にするならば、そこを明かさずに論じねばならないのだが、それは正直、不可能だ。この作品が、映画としてもヒットをし、日本でも、日本人俳優女優で民放連続ドラマ化されたこともあるので、ここは、ネタバレ気にせず、論じてしまうことにする。

『忘れられた巨人』についても、ネタバレありで、深く論ぜざるを得ない。ということで、今回、前書きを書いているのは、意図を説明するとともに、「ネタバレありありですよ」という注意喚起のためでもあります。

 二作ともこれから読むつもり。かつ、ネタバレは絶対いや、という方は、ひとまず、ここで読むのをやめて、小説にとりかかってください。

 私の、友人たちの多くが、『私を離さないで』については、「これは、読んだ」だったり、「映画やドラマで見て、泣いた、感動した」という。印象では、『日の名残り』の映画は、たしかに有名で見た人は多いが「感動した」とか、ましてや「泣いた」という人はあまりいない。格調高い文芸作品で、美術品鑑賞をするように「文芸映画を鑑賞いたしました。大変、結構でございました」というよう感想の人が多い。

 これに対し、『わたしを離さないで』は、「感動したー、泣いたー」というエモーショナルな反応を引き起こしている。村上春樹の『ノルウェイの森』と同じ、純文学ファン以外を大量に巻き込む要素がある作品なのである。端的に言うと、「若い男女の悲恋ドラマ、どっちか難病で死んじゃうもの」という、昔からの社会的ブームを巻き起こす大ヒット小説の基本要素を持つ、イシグロで唯一の小説なのだ。

 『ノルウェイの森』にしても『わたしを離さないで』にしても、その作家の作品を連続して読んでいる人間にとってみると、テーマにはある連続性があるし、その中で、意図的に、あるいは、、ある必然性を持って、そのような設定になっていて、けして「難病とか自殺とかで、カップルのどっちかが死んじゃう、若い恋人かわいそー、泣く」みたいな小説では、全然ないのだがな。うん、

 (『ノルウェイの森』の、村上春樹小説の中での特異性については、僕の、ひとつ追及しているテーマなので、この連載が終わったら本格的にとりかかろうと思う。どちらの作品も、「若い男女の悲恋もの、泣けた-」というような、生易しい作品ではない。全然、泣けないほどに、作家の深い問題意識につながる暗く重たい小説である。)

 しかし「若い男女の悲恋もの、感動した、泣いたー」を期待して、次回作『忘れられた巨人』を読むと、死にかけボケて記憶も定かでないヨボヨボ老夫婦の、中世、円卓の騎士時代のイギリスを舞台にした、龍退治のファンタジーとは。期待外れもいいところだ。

 ということで、『わたしを離さないで』で「イシグロファンになりましたー」という人のけっこうな割合いで、『忘れられた巨人』を10ページも読んで、がっかりして本を投げ出してしまったのではないか。少なくとも、僕の知り合いには、そういう人が、結構いた。

 ところが、この二作、驚くほど同じテーマを追求した作品に、私には読めた。と私が言うと、そうした友人たちは、揃って、疑いの「えー、どこがー」という反応をしたのである。

 そうこうするうちに、イシグロがノーベル賞を受賞し、最新作、かつ、どうも受賞理由の大きな部分を、この『忘れられた巨人』の中に描かれている政治的対立、争いをめぐる、なにやら深淵で重たいテーマにあるらしい、というような論評が流れるに及び、ますます、世間一般の論調では、『わたしを離さないで』は、近未来SFで、クローン問題まで扱った、若い男女の恋愛小説、『忘れられた巨人』は、中世を舞台としたファンタジーで、戦争の記憶の忘却と民族対立を描いた政治的小説、となり、「イシグロの幅広い作風」を示す例としてこの二作は扱われることになる。

 そこに存在する、通底するなどという曖昧、半端なことではけっして無い、きわめて具体的な、この二作を貫く、共通連続するテーマについては、全く語られないという事態が起きた。

 共通性を語るにしても「あいまいな記憶をテーマにした」などという、それこそ曖昧で表層的な評価が、定説として定着してしまった感があるのだ。

 私は、相当に、頭にきて、こんなバカげた定説は、早いところ粉砕しないといけないなあ、というのが、本論を書こうとした動機だったのである。ここまで三回は、この回を準備するための、助走のようなものだったと思っていただいて、結構である。

では、始めます。

『わたしを離さないで』

 Amazon内容紹介から引用 「優秀な介護人キャシー・Hは「提供者」と呼ばれる人々の世話をしている。生まれ育った施設ヘールシャムの親友トミーやルースも提供者だった。キャシーは施設での奇妙な日々に思いをめぐらす。図画工作に力を入れた授業、毎週の健康診断、保護官と呼ばれる教師たちのぎこちない態度…。彼女の回想はヘールシャムの残酷な真実を明かしていく―全読書人の魂を揺さぶる、ブッカー賞作家の新たなる代表作。」

 この作品では、近未来のSFと、また、イシグロは「設定・舞台」を大きく動かす。主人公は、臓器移植・臓器提供のためのみに人工的に生み出されたクローン人間の若い男女たちである。不思議な寄宿学校生活を送っている子供時代を回想している主人公の女性は、まだ年齢は若いが、「移植用クローン人間」の寿命は短いため、すでに「人生の、取り返しのつかない終盤」を生きているわけである。

 ここまでくると、イシグロは「一貫して連続したテーマを追いつづけていることは明白である。一作ごとに少しずつ深まり、複雑化し、変質はしていくわけであるが、変化よりも一貫性の方が「テーマ」という視点では強い作家である。テーマ的連続性・一貫性を、「文学的停滞、マンネリ」に陥らせないために、あえて、「舞台設定、小説的スタイル」において、できるだけ大胆な転換、新挑戦を繰り返すことを、意図的・戦略的に行っているのである。


 今回の設定の斬新さは、「人生最終盤の後悔」問題を扱う限り、主人公が老人になってしまう、という問題への、大胆な改善策なのである。臓器移植のために若くして死ぬことを運命づけられた主人公たち。この設定は「人生最終盤の問題」を、年齢的には、若い恋人たち、未熟で若いまま、死に直面することを運命づけられた者の視点から描き出す、という新基軸の導入に成功するわけであり、それは映画化されたものが、若い恋人たちの悲恋を描いたものとして、今までにない成功を収めたことでも証明されている。

 この小説についてSNS上で感想などを投稿すると、「映画が好き」「映画が切なくて泣いた」という友人たちからの感想を多数もらうことになるのである。


 こうした主人公を設定したことにより、テーマは、「政治的責任」という側面を弱め、より純粋に「愛と記憶」の問題に先鋭化する。一部には「科学と生命倫理」という、クローン人間と臓器移植という問題「自体」をテーマにした小説、と評する論も存在するが、私はその意見には反対である。

 これは「「舞台設定」と「テーマ」に区分するならば、「SFクローン、臓器移植」というのは、舞台・設定に属する変奏であり、「テーマ」はこれまで連続して追いかけてきた「人生終盤における後悔」をめぐるものである。そのメインテーマの流れが、「若いクローン人間」という設定により、「戦争・仕事の後悔①」が薄れ、「愛」の問題に収斂先鋭化していく作品、と私は考える。


 この作品は、その意味で「戦争世代の責任」と記憶、後悔をめぐる、というイシグロのスタート時点での重心から、『日の名残り』ラストで生じた「愛の後悔」側に、重心を移したものとなる。さらに、そこに集中することで、「愛」をめぐるテーマは、新しい、より進んだものへと進化していく。
 

 ここで、『日の名残り』のラストについての分析を振り返ってみよう。「自分の人生には真の愛があったのか」と「残りの人生を、愛のあるパートナーと生きることができるのか」。という「過去への後悔」と「未来への不安」がひとつに結びつく地点で、小説は終わる。私の人生の過去に、真の愛はなかった。よって、ここから先の未来に、ともに生きるパートナーはいない、という絶望。


 『わたしを離さないで』は、そのタイトル通り、このふたつの関係が変化する。「過去において、私の人生には、真の愛があったような気がする。だから、これから先の人生において、私を離さないで、パートナーと寄り添って生きていきたい。たとえ短い時間しか残されていないとしても。


 小説の内容に触れて、その点が、どのように小説ラストで関係づけられるかを追っていくが、あらかじめ予告しておくと、そのふたつをつなぐのは、「第三者への愛の証明」なのだ。「共にこれからの人生を生きるに足る愛が二人の人生には存在したと、証明することはできるのか。その条件とは何か」という、イシグロ固有の、オリジナルな問いへと、テーマは進化していくのである。
 
 クローン少年少女たちの学校生活の中で「絵を描いて提出」することが重視されることの意味を、「人を愛する能力があるかどうかを証明する資料」だったのではないかと、主人公たちは考える。


 主人公キャシーの恋人トミーは、寄宿学校時代、反抗的だったために、あまりきちんと絵を提出していなかった。彼はその後、臓器移植を繰り返し、現在、余命はあまりない。その彼とキャシーが残り少ない人生を、二人で愛し合って生きていくには、彼が、本当に人を愛する能力ある人間だったと、施設を運営する学長先生「マダム」に証明しないといけない。という必死の思いから、絵の最終提出先であり、愛の能力の判定者と思われる、かつての「マダム」を探していく、というのが、この小説の終盤のクライマックスである。


 「これからの未来を愛する人とともに生きたい」という切ない希望。そのためには、第三者であるマダムに、二人の愛が真実のものであること証明しないといけない。


 「クローンの若者達とマダム・大人の人間」という関係は、実は「人間と神」という関係を反映したものである。「神」に対して二人の愛を証明することが、来世において、愛する人と、ともに生き続けることの条件である。ということと相似形で、描かれているのである。 

 来世、ともに生きることを、どれだけ強く希っても、証明することなどできるのか。真実の愛は証明可能なのか。老いた先の人生を、愛する人とともにどうしても一緒に生きたいという切なる希望が、『日の名残り』のときは、「叶わない絶望」として描かれたが、この作品では、「切ない希望」として描かれる。

作家論的考察 イシグロと、その妻。

 私は、この変化は、(きわめて作家論的視点になるが)、イシグロの年齢、小説家として成功、そしてその間に、妻との間の絆が深まったことが作品に反映したものではないか、と考えている。


 この作品の執筆期間中に、イシグロは五十才になっている。イシグロは、小説を書く作業を、妻(スコットランド人の、ローナ・マクドゥーガル Lorna MacDougall さん)とともにずっと、「共同プロジェクト」のように行ってきた作家である。書いた小説の最初の読者として、批評家として、妻を信頼し、妻とともに、小説を書いてきた。ノーベル賞受賞後の日本メディアのインタビュー番組や、『浮世の画家』をNHKがドラマ化したときのインタビュー番組にも妻と共に出演している。


 芸術・仕事・愛の関係が、「妻という素晴らしいパートナー」との関係に強く凝縮していく年齢に、イシグロが差し掛かった、ということではないかと私は思う。


 「仕事においても愛においても、人生終盤で、取り返しのつかないことをしたと後悔するのでは」ということを、若い時から、先回りして心配し続けてきたイシグロは、心配性ゆえの用心深さで、そのことを、見事に回避して五十歳を迎えることに成功したのではないか。


 これまでの作品でメインテーマとしてきた「芸術生活・仕事生活と政治的な成功・失敗」「仕事に没頭するあまり、愛情生活をパートナーに築くことに失敗する」という問題は、ここまでのイシグロが作品世界で、先回りして心配し続けた成果として、イシグロの実人生においては、みごとに回避されたのではないか

 それはイシグロという一個人の人生としては、素晴らしいことだが、小説家、文学者として考えると、「文学上、作品上の大テーマとして追いかけてきたことが、自分の実人生においては、切実な、我が事に強く突き付けられる問題にならなかった」、という、皮肉なパラドクスをもたらしたのではないか。

 戦中世代が負った、仕事への献身と大きな歴史的文脈の中での倫理的罪と責任。仕事に没頭するあまり、家族、パートナーと真の愛を築けないという後悔。そういうことが、イシグロの人生には、深刻には起きなかった。自分にとって切実にならない問題をテーマとして扱って、小説家として成功するということの中に小説家、文学者としての「倫理的責任」が生じてしまう。というパラドクス。


 まず、政治的問題について。「第二次世界大戦中の日本人、ナチスとの関係でそういうことを感じさせるを得ない世代」を主人公にしたときに、政治的人生の失敗問題は浮かび上がってくるが、イシグロ本人の人生には、幸いにして、その責任を強く問うような、強い後悔をしなければいけないような政治的問題、事態は起きなかったのではないか。


 次に、愛の問題も「よきパートナーを得て生きた来られたために、「真の愛が自分のこれまでの人生にはなかった」という悲しむべき事態は、イシグロ自身の実人生においては、幸いにも起きなかったのではないか。

 これまで自家薬籠中にしてきたテーマ「人生後半における取り返しのつかない後悔」を、様々な「舞台、設定」で、文学的に常に挑戦する姿勢は示しつつ、書き続け来ることができたが、そのテーマを詳細にみたときに、「書きなれたテーマ」と「自分にとって本当に切実なテーマ」の間に、微妙な変化が起き始めたのではないか。

 では、五十歳になったイシグロにとって、本当に切実な問題と何なのだろう。そのことに、イシグロは『わたしを離さないで』を書く中で直面していったように思う。

 これまでの人生で築き上げてきた、パートナーとの真の愛ある関係を「これから先の人生において失う不安」の方が、より切実な問題として意識されるようになってきたのではないか。
 

 同時代にブッカー賞を争った、ジュリアン・バーンズやジョン・バンヴィルらが、皆揃って、実人生においても、小説内においても「愛するパートナーを失った老年男性」の物語を書き始めていることも、もしかすると何らかの影響を与えているかもしれない。

  単に、現世において、ともに老いて生き続けるのであれば、「私を離さないで」の主人公たちのような特殊な条件である以外には、第三者にその愛を証明する必要などない。しかし、「来世」次の人生の舞台が天国であるならば、天国でともに生きるためには、「神」に対して、二人の愛が真実であったことを証明しないといけなくなる。
 こう問題設定をすると、次作、『忘れられた巨人』の読み方が、大きく変わってくるはずである。

 『忘れられた巨人』

Amazon内容紹介から引用「老夫婦は、遠い地で暮らす息子に会うため、長年暮らした村を後にする。若い戦士、鬼に襲われた少年、老騎士……さまざまな人々に出会いながら、雨が降る荒れ野を渡り、森を抜け、謎の霧に満ちた大地を旅するふたりを待つものとは――ブッカー賞作家の傑作長篇。」

 舞台・設定はアーサー王の時代のイギリスである。イングランドでは、古来、ケルト人とローマ人、ローマ人が去った後にイングランドに入ってきた様々な民族の対立が長く続いた。そんな時代。ブリトン人(ケルト人)とサクソン人(北欧から入ってきて支配的立場になっている民族)の対立が深刻に存在した。

 小説の始まりでは人々は、その対立の記憶さえもあいまいになるような、深い霧の中で生きている。
 主人公のアクセルとベアトリスの老夫婦もまた、老いと、龍の吐く霧のために、記憶がすべてあいまいになっている。記憶だけでなく、日常生活の様々な動作も、もう不自由な年齢になっている。夫婦には一人息子がいたのだが、どこかで暮らしていることはわかっているのだが、どうして出ていって、今どうしているのかも、二人はよく分からなくなっている。記憶がこれ以上薄れ、からだも衰えてしまう前に、二人は息子を探す旅に出る。


 旅の途中で様々な人に出会ううちに、二人は龍退治をしようという騎士と行動を共にすることになり、ついに龍を倒す。龍を倒し、霧が晴れると、むしろ思い出すべきでない、忘れていた方がよかった事実がくっきりと思い出されてしまう。


 ここまで分析整理してきた、イシグロ小説におけるいくつかの「取り返しのつかない後悔」が、ここでも何層にも登場する


 ひとつは、老人が、かつては、王の命令を受けて。争うふたつの民族の村に対し、二重スパイのように諜報、工作活動をする役目を担っていたことが思い出される。老人の活動の結果、ふたつの村は悲惨な争い、殺し合いをしていたこと。戦争中の罪についての記憶と後悔である。


 そして、そうした旅を重ね、仕事に没頭する間に、妻が不貞を働いていたことも思い出される。それはほんの短い期間のことで、二人はそのことを乗り越えてはいたのだが、それでも、忘れていたその事実は、息子の記憶へとつながった、より深い後悔を思い出させてしまう。


 夫婦の関係が険悪になっていた時期、ちょうど思春期で、そうしたことに敏感だった一人息子は家を出ていってしまう。そして、どこかで暮らすうち、流行した疫病で死んでしまっていたのだ。


 妻との愛情ある生活、子供との愛情ある生活が、仕事を優先する生活の中で損なわれてしまったという後悔。取り返しのつかない喪失。それが、蘇った記憶のために、主人公に強く突き付けられる。この構図は、そのまま、デビュー作、『遠い山なみの光』の、娘を自殺で失った主人公からの、一貫して連続したテーマの、より鮮明に強化された反復である。忘れていたままの方が幸せだったのではないか。


 悲惨な殺し合いの記憶が忘れられていたので、霧があるうちは、異民族の隣村同氏は仲良く暮らせていた。記憶が戻ったふたつの村は、再び険悪な状態になってしまうのではないか。
 行方不明になっても生きていると思っていた方が、息子が死んでしまっていたと思い出すよりも幸福だったのではないか。

 しかし、最終章に至って、小説の焦点は、『わたしを離さないで』で新たに見いだされた、イシグロにとってより切実なテーマに鋭く収斂していくのである。


 旅を続ける二人は、死んだ者にも会えるという伝説の島に渡る、渡し船の渡し守のもとにたどり着く。その島に行ったら、死んだ人にも会えるかもしれない。息子の姿を見ることができるかもしれない。しかしながら、あちらの島に渡ったら、こちら岸にいたときの記憶はすべて消えてしまうらしい。


 老夫婦も、あちらに着いた途端に、もうそれぞれがわからなくなって、離れ離れになってしまうらしい。
 

  いやいや、二人の間に真の愛があれば、あちらに行っても、二人は一緒に、こちら岸にいるとき同様に幸せに暮らせるという救いの情報を、渡し守が教えてくれる。『わたしを離さないで』で、真の愛が二人の間にあれば、この先もともに過ごせる。という条件の反復である。

 二人の間に、真の愛があるかどうか、それを判断するために、渡し守は、老夫婦を、別々して、それぞれにいくつかの質問をする。渡し守は保証する。大丈夫、二人が愛し合っていることはよくわかった。

 ただし、と渡し守は言う。渡し船には、ひとりずつしか乗れない。老人は、二人一緒に向こう岸に渡すという約束だったではないか、と抵抗するが、「向こう岸にまず、奥さんを運んで、戻ってきたら、あなたをすぐに渡します。向こうについたら、またすぐに二人で一緒になりますよ」と渡し守は言う。
 渡し守に妻を預けてしまうと、なぜか、もう、渡し守の姿も、妻の姿も見えなくなる。

 「渡し守」は、西洋の伝説でも、この世からあの世に渡る川を渡す役割である。妻が先に命を失い、老人はまだ死ねずに、一人でこの世に残ることになるという結末を暗示して、小説は終わる。

 それでは、遅れたとして、老人が、川のあちらの島に渡ったときに、二人は出会えるのか。二人の間に真の愛はあった、と渡し守は神に、それを証明することはできるのか。
 
 「戦争の間の責任」という問題や「親子の不和」という問題、盛りだくさんに織り込まれているが、最後の最後に、最終章で、胸が締め付けられるように物語が収斂していくのは、この、妻と、渡った先の島で、また出会えて、一緒に生きられるか、というその一点なのだ。

 そして、そのためには、今まで生きてきた過去において、二人の間に真実の愛があったということを、渡し守、神の代理である渡し守に、認めてもらわないといけないのである。二人が、今、どれほどお互いを必要としているか、ということだけでは足りないのだろうか。人生の時間全体に、真実の愛がなければいけないのだろうか。それは第三者に証明可能なのだろうか。

 「仕事と戦争」を軸にした後悔が、物語最終盤で、愛についての後悔に急激に転換し、収斂する、というのが、カズオイシグロの小説の、際立った特徴だと私は考える。その際立った特徴が、小説の最終盤で、読者の胸を締め付けるように、迫ってくる。その意味で、『忘れられた巨人』は、『日の名残り』の正当な後継小説であり、その間のイシグロの人生の変化を、きわめて素直に投影しているものであると言えよう。
 

 『日の名残り』のラストでは、女中頭とその後の人生を暮らすには、全く「過去における愛」が足りていなかった、悲惨な後悔の人生であった。
 『忘れられた巨人』では、過去において、そして現在においても二人には愛がきちんとある。それでも、渡し守の渡した先の島では、二人が一緒に暮らせる保証を、神は与えてくれないのである。

 キリスト教では、死後、二人とも天国に行ったら、夫婦は天国で仲良く暮らせるという教えなのだろうか。いや、結婚式で「死が二人を分かつまで」という、結婚式での神父の言葉通り、結婚というのはこの世限りの関係なのだろう。どれだけ真実の愛に近づこうとしても、老いた二人の前には、どうなるかわからない「来世」が待っている。

 最新の二作品においては、それまでの作品群の「人生を捧げた仕事が時代の中で罪になり、そして愛する人とも真の愛ある関係を築けなかった後悔、取り返しのつかない段階での人生への後悔」から、「どれだけパートナーと愛ある人生を築いてきたとしても、、どれだけ現世で、愛を重ねても、来世に、その愛は持ち越せないのではないか」という不安に、テーマが変化・深化しているのである。

 それは、「政治的意味」が重視される現代の文学の基準からすると、私的な・宗教的価値、神の前での愛の証明問題への「退行」ともとられかねない。

 ノーベル賞も、政治的意味を持たない小説には、なかなか与えられない。イシグロの小説は、デビュー作から最新作まで、そのことは外さずに描き続けている。しかし、だからといって、それこそが、イシグロの中心テーマだとするのは、ここまで、全長編を追い続けてくると、言えないと思う。あくまで片ほうの車輪なのである。

 もう片ほうの車輪、個人生活における愛の在り方。その過去の全人生を振り返り、神の前で証明することが、来世の二人の運命を決めるということへの惧れと不安。

 イシグロは、自らの老いと成熟の向かう先を、来世に向けられた「愛の不安」と見据えているように、私には思えるのである。

 この連載のタイトルを「カズオ・イシグロに最適の年齢」としたのは、人生の全体を振り返り、この先を考えるにあたっては、「来世」のことまで、切実に視野に入ってくる、ある年齢に達することが、カズオ・イシグロを読む、最適な年齢ではないか、わが友よ、という意味でつけた。ということは、ここまでお読みいただいたみなさんには、言わずもがなであろうと思う。このようなテーマを、デビュー作、30歳になる前から先回りして心配し、考え続け、作品に定着し続けてきた、イシグロという作家の特異な才能と粘り強さに、改めて感嘆の思いを禁じ得ない。

おわり。


  あとがき

 

 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 日本出身ということで、日本ではひどく偏ってしか語られないイシグロの、作家としての全体像を明らかにしたい、という狙い。
 英語圏においても、あまりに作品ごとに奇抜な設定を採用し続けるここ数作で、そのことに惑わされる読書人や評論家が多いように思ったので、「テーマの一貫性」について、明らかにしたいと思ったこと。
 テーマの一貫性、というと、あいまいな「記憶についての作家」という決まり文句で、語り終えられてしまうことへの不満。
 
 優れた作家でありながら、全体、全作品を通じて、どういう小説を書いてきた人なのかが、論じられていない、ということから、まとめたのが、この論考です。感想、ご意見をいただけると幸いです。

他のイシグロについてのnote

『クララとお日さま』 カズオ・イシグロ (著), 土屋 政雄 (翻訳) 直近イシグロの追い求めるテーマ連続性の上にある、本格的重量級のイシグロ・ワールド全開の大作です。(と同時にオスカー・ワイルド『幸福な王子』を想起させる、寓話性に満ちている。)


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