朝ドラ「エール」。「戦場の歌」の一週間と、それへのツイッターの反応を見て考えたこと。

 僕は「エール」の良い視聴者ではなく、妻が見ているのを横でなんとなく、声だけぼんやり聞いている、くらいの視聴者だった。

 コロナで中断以前の、序盤のコミカルタッチ優勢のときの、主人公 裕一さん(窪田正孝)とその父(唐沢寿明)と、ヒロイン音さん(二階堂ふみ)とその母(薬師丸ひろ子)が初めて顔を合わせるシーンでの、唐沢さん、過敏性大腸で、うんこ漏れそうになってバタバタするからの、主人公カップルキスシーンを目撃して薬師丸ひろ子お茶まき散らすの、ドタバタコメディー傑作回の印象が強く、このドラマは優れたコメディなのだと思っていた。

 それが、ツイッターのトレンドで、一昨日、何か「#朝ドラエール」にただならぬことが起きている気配を感じ、インパールでの、その回の二回前、月曜分から録画してあるものに遡って見始めた。

 僕の最近のこのドラマの認識は、「戦争中の話になっていて、戦時歌謡(なぜか軍歌、とはドラマ中、言わない。)の作曲家として裕一は大成功、大忙しになっている。いまのところ「自分の歌が戦争に加担している」というような罪悪感は抱いていないが、「戦争、戦場、兵隊さんの現実を知らない」ということには葛藤を抱えていて、戦場を視察しに行くのだ」という使命感に燃えて、ビルマに向かう、というところのようだ。

 戦場視察に同行、先に戦場を見た小説家だか画家だかの人に「戦場に意味など無い。あるのは生きるか死ぬかだ」と言われても、裕一は、「戦場の意味、自分の歌の意味はある。それをはっきりとつかみとろう」と思う。そんな中、裕一を音楽の道に導いた、小学校時代の恩師、藤堂先生(森山直太朗)が前戦にいると知り、前線の部隊にまで慰問に行くことを決意する。

 そして、慰問先の藤堂先生が隊長、大尉となっている部隊で、慰問音楽会を開こうと準備をし、前夜、先生やその部下の思いを聞く。その中で戦争と音楽の意味を考える。この時点でも、様々な思いを抱えている戦場の兵士に、自分の歌が、なにがしかの意味があるとは思っている。森山直太朗の歌が感動的に胸に迫る。ここでは、祐一は、戦場の、兵士の現実が自分の思っていたよりもはるかに厳しく複雑なことを知るが、それでも自分の作った歌に、なにがしかの意味はあると思っているのである。

 翌朝、慰問音楽会本番直前、和やかに談笑しているところを、「イギリス軍から分捕った缶詰です」と、藤堂の部下から缶詰を手渡される。それがひとつ転がる。拾おうと身をかがめたことで裕一は難を逃れる。」突如、敵襲。(戦争に詳しいツイッター民からは、後方かく乱の英国空挺部隊だろう。あの缶詰はその舞台への支援物資だったのだろう、との指摘あり。)
 裕一は藤堂先生に導かれトラックの下に隠れるが、その目の前で、先生も、昨夜語り合い歌を歌い合った部下の兵士たちも、銃弾に、手りゅう弾に倒れ、死んでいく。先生を助けようとトラックから這い出るが、その腕の中で、先生は息絶える。ひとりだけ生き残った兵士に裕一は「何も知りませんでした、ごめんなさいごめんなさい」と、ただただ繰り返す。

ここまでが水曜日の回。

 日本に帰り、先生から預かった手紙を、先生の奥さん、光子さんに渡し、先生の最期を報告する。家に帰ると妻子は無事、元気。しかし妻の豊橋の実家では、妹、梅ちゃんの夫が反戦運動に参加して特高につかまり拷問を受けている間に、倉敷は空襲を受けて家は焼失、家に残した原稿(梅は小説家)を取りに戻った梅、それを助けようと火の中に飛び込んだ岩城さん(ひそかに薬師丸ひろ子を見守り続けた職人さん)は焼け跡のがれきの下、それを探す薬師丸ひろ子。終戦の玉音放送を聞く裕一の背中。で木曜の放送は終わる。

 そして今日、梅と岩城さんは、怪我はしたが生きていた。五郎も警察に捕まっていたおかげで空襲の何を逃れた。

焼け跡になった自宅の前で、薬師丸ひろ子が讃美歌を歌う。それとともに幸せだった思い出が回想される。それらが、すべて失われたことが描かれる。

 裕一の娘、華ちゃんの淡い初恋の人、ひろや君は、「裕一の、作った少年飛行兵の歌に感化されたこともあり、おそらく特攻隊となり」戦死して、遺品の(思い出エピソードがある)ハモニカだけが焼け焦げて戻ってくる。そのことを華ちゃんに伝える裕一。「僕のせいだ。ぼくのせいで」という祐一に、音は「あなたは自分の役目をはたしただけです」と言う。裕一は「役目?音楽で人を戦争に駆り立てることが僕の役目か若い人の命を奪うことが僕の役目なのか。音。僕は音楽が憎い。」。そして、曲が書けなくなる。

 場面は一転。「戦争が終わって、国民に希望を与えるドラマが必要だ」というNHK職員が、脚本家に依頼するシーンになる。この脚本家と組んで、裕一の戦後の活躍が始まることを予感させて金曜、今週の「戦場の歌」篇、おしまい。


 ここから、感想、思ったこと。

 まずは、インパールの戦場での、先生や部下の壮絶な戦死を描いたことが、朝ドラではほぼ無い戦争描写だったこと。そのことに衝撃が走った。本土での飢えや空襲ではなく、戦場での戦闘、戦死が、あそこまで直接、長尺で描かれることは、朝ドラではほとんどなかった。プライベートライアンの冒頭シーンのような、無音になり、人が撃たれてどんどん死んでいくという映像、演出。都合よく誰かが助かったりしない。単に打たれて死んでいく。死ぬか生きるかは、本当に単に運の良しあしだけ。そして、運がいいなどということはまずめったに起きない。

 ツイッター上では「これが現実なんだよね、つらすぎる」という若い世代の女性らしき意見多数。それに対し「インパールでの死者は大半が飢餓と病気、同僚の肉を食うということまで起きた地獄のような現実からすれば、きれいに、朝ドラの範囲で描かれている」という指摘もあった。とはいえ、そんな事実はおろか、戦争について、特に戦場、戦闘がどんなだったかをほとんど考えたことのない多くの視聴者(NHKスペシャルとかドキュメンタリーの類や、「野火」のようなリアルな戦争映画などは見ないタイプの)視聴者に、戦場の、意味など無い、ただ「生きるか死ぬか」だけがある戦場を描いて見せたという意味は、とても大きかったと思う。僕自身も、もちろん、戦場なんて知らない、戦争なんて知らない世代なわけで、「何も知りませんでした、ごめんなさいごめんなさい」という裕一の言葉は、ただただ深く胸に刺さった。

 この言葉が胸に刺さったのは、単に知らなかったということだけではなく、知らないのに、戦意高揚の歌を書き続けてきたことへのごめんなさい。今週の「エール」の大きな意味は、この点にあったと思う。

 朝ドラにしても、たとえばここ数年話題になった映画「この世界の片隅に」でも、銃後の女性の苦労を中心に戦争が描かれることが多かったし、戦争に対して「被害者として、耐え、怒る」という立場での戦争との関りの描き方が多かった。日本人にとっての戦争は、避けようのない災厄として(あたかも巨大な天災のように)襲いかかってくるもので、少なくとも日本人の中の悪者は一部の愚かで横暴な軍人だけで、一般庶民は、戦争に心の中では抵抗、反対していた被害者なのだ。というのがお茶の間に浸透する戦争のイメージだ。その中でもけなげに生きた女性を主人公に、女性向けの朝ドラは作られる。

 今回、男性、戦時歌謡の作曲家として成功を収める主人公を描くことで、「仕事に献身することが戦争遂行に加担することになる。」という加害者としての自分、という視点を、朝ドラ史上、初めて(なのだと思う。昔からの朝ドラファンからは、他にもあったと指摘が入っていたが)、真正面から描いて見せた。戦争の「つらい」の中に「加害者としての自分のつらい」が含まれることのつらさ。悪意があったわけでも何でもなくても、「自分にできることを一生懸命、良いことだと思ってやった」ことが、戦争の中で、どういう役割を担ったかということ。その結果が、自分の大切な人に、どういうふうに影響して、返ってきてしまうのか。

 戦時歌謡、軍歌作家として成功したことについても、「まあ、時代だから仕方なかった。才能があったから、時代の空気を音楽にできたのだ。いろいろそれなりに葛藤して悩んではいたが」という程度で、戦争時代を描いて抜けることも可能だった。そのまま、戦後編に移行して、戦後、時代の要請が変わる中で、主人公もそれに対応していった。主人公は、時代の気分を音楽に乗せる天才、プロで、人が平和を求める時代には、その名曲を作ったのだと。そういう脚本でも、そういう展開でも、ドラマは支障なく、進んだだろう。

 しかし、脚本家は、そのような、ゆるい、主人公に甘い展開を選ばなかった。戦争に自分の音楽が加担した、そのせいで最大の恩師である藤堂先生を目の前で、腕の中で失うというこれ以上ない過酷な経験をさせた。加害者としての戦争との関りを、主人公に強く自覚させる、という道を、このドラマは選んだ。裕一が、「何も知らなかったのに、兵隊さんを前線に送り出すための、戦意を高揚させるための曲をたくさん作り、それで成功を収め。そのことには意味があると信じていた自分」というものに、逃げ場なく向き合わせる道をドラマは選んだ。

 戦争への反対運動をして特高につかまる五郎さんの、病院で梅さんと岩谷さんに対しての、「自分のことばっかりでごめんなさい、ごめんなさい」も、裕一の「何も知らなくてごめんなさい、ごめんなさい」と裏表になり、戦争と信念と大切な人との関係を考えさせる。「戦争に反対するという信念は拷問されても曲げない」という、普通ならば、「戦時中も信念を曲げなかった偉い人」というエピソードが、空襲の中に、家族を置き去りにして省みない身勝手というして自覚させられる。どの立場にあって、どのように誠実に生きようとしても、大切なものを失うことへの 責任を、罪の意識を追ってしまわざるを得ない戦争の過酷さ。

 そして、こうしたことが、コミカルなファミリードラマとして始まった、朝ドラとして描かれることに、僕は、本当に大きな意味があると思った。

 ツイッター上では「朝ドラでこれはきつい」「朝ドラでここまで、こういう描き方をする必要があるのか」という声も、比率で言えば少数派ではあるが、かなりの数あった。しかし、朝ドラだからこそ、意味があるのだと、僕は思う。

 戦争の悲惨を描く作品は、テレビドラマでも映画でもアニメでも、数多くある。しかし、それはたいてい、テレビでは、終戦記念日近辺にオンエアされる、単発の、「戦争の悲惨を描く作品だぞ」という前提で見られる。そこに登場する人物は、「きっと大事な人、何人かは、戦争で死ぬことになるな」という覚悟、前提で見ることになる。単発の、せいぜい二時間の映画やアニメでは、戦争を抜きにした日常の中での、その人物への共感や愛着は形成されない。

 ちなみに、この「戦場の歌」の一週間、コロナでの中断がなければ、終戦記念日あたりに放送予定だったのかなあ、という声もツイッター上に多く観られた。そうだとしたら、そういう「夏の風物詩」の中で、衝撃度はやや落ちていたかもしれない。コロナでの中断で、戦争回顧のような気分にテレビの中が全くないこの時期にオンエアされたことも、衝撃度を高めたと言える。

 朝の連ドラでは、冒頭、(僕が例に挙げたような、唐沢と薬師丸、絶妙な子供の結婚をめぐるコメディなんていうエピソードが積み重ねられ、)、戦争など想像もしない、毎朝、会って、親近感を感じ、半ば家族のように感じる人物たちとの関係が、視聴者との間に築かれる。

 そういう家族同然の登場人物が戦争にどう否応なく巻き込まれ、悲劇が襲い掛かるのか。その衝撃は、「戦争特別ドラマ」とは全く異なる。ごく普通の楽しい日常から戦争の悲劇へのつながり具合が、「朝ドラ」では、最も強く伝わる。とても多くの人に伝わる。それが今回、「家庭人の被害者視点」だけでなく、「仕事する人の加害者視点」でも描かれる。

 宮崎駿の「風立ちぬ」との共通点と相違点を分析した週刊誌記事も話題になった。それくらいの衝撃力があったと思う。

 最後に、「仕事の上で加害者、悪に加担すること」というのは、戦争に限らない。僕自身にも無縁ではない。

 僕らの世代で、日本に起きた最大の人為的悲劇は福島の原発事故だと思う。地震と津波は天災だが、原発事故は、原発推進政策から始まって、津波可能性警告を無視して対策を先延ばししたことまで含め、全体として原子力政策、関わった政治家、政府、企業、それを支えた科学者、そうした人たちの責任だと思う。

 僕は、広告屋として働いた35年間、原発推進に関わる広告の仕事はしたことは無い。が、電力会社の、夜間電力を使ってもらうためのキャンペーンの、競合プレゼンテーションチームに参加したことが、一回だけある。原発事故がおきるほんの数か月前のことだ。

 
 夜間に電力が余るのは、ベース電源として原子力発電所が一定割合を占め、その発電量は他の発電方式のように大きく減らすことができないからだ。その電力を使ってもらうためのキャンペーン。表面的には原子力発電とは全く関係ない「消費者生活者のあなたにお得で便利」ということをお知らせするキャンペーンだが、構造を理解すれば、無関係ではない。

 競合プレゼンに負けてしまったので、それっきり、もし原発事故が起きなければ、記憶から消えてしまったくらいの、ほんの一か月ほどの仕事だった。当時は山のような仕事を抱えていたから、負けた競合のことなんて、すぐ忘れた。

 でも、原発事故が起きた時、「このことに、僕は関係していた。僕はこの事故に、ちょっとだけ、関係がある」と思った。その棘が、ずっと、心から抜けない。

 「何も知らなくてごめんなさいごめんなさい」とも言えない。何も知らなかったわけではない。知っていた。チェルノブイリの事故の後、いろいろと勉強したから、危険なことも、推進政策が政治的に汚い、暴力的な、金の力で無理を通すような、そういうものであったことも知っていた。それでも、加担した。ということが、僕が広告の仕事から腰が引けていく、最初のきっかけになった。ブログを書いたり政治的な発言をし始めるきっかけになった。

 今週の「エール」、戦争のことだけではなくて、仕事で、何か大きな悪に、目をつぶって加担するということの痛みを、思い起こさせるものでした。

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