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『モラルの話』 J.M. クッツェー (著), くぼた のぞみ (訳) すくなくとも二周読むことおすすめ。一周目とは全然違うものが、二周目には見えてくるのである。



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ノーベル賞作家が、これまで自明とされてきた近代的な価値観の根底を問い、時にシニカルな、時にコミカルな筆致で開く新境地。英語オリジナル版に先駆け贈る、極上の7つの物語。

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ここから僕の感想

 ごく薄い短編集なのだが、この作家の場合、それでもヘビー級なのである。この前、若い時の『夷狄を待ちながら』の感想を書いたばかりだが、

こちらは短編七篇、書かれた時期に幅はあるが、まあ最近の作品である。
 
 前半2篇は若い人物の話だが、三篇目から老人の話になり、四篇目から、作者の性別の違う分身、老女性有名小説家のエリザベス・コステロの登場となる。
 このエリザベス・コステロという老女性作家が世界を講演してまわる連作小説集『エリザベス・コステロ』という短編集が先にあり、それについては前に感想文を書いた。

 そのコステロがさらに年を取り、四篇目では、息子と娘に、「同居しよう」と提案され、五篇目と六篇目では「施設に入りなさい」と説得され、最後の七篇目では、認知症に成り始めたと不安になったコステロが、書きかけの草稿や史料を息子にまとめて送って電話で話す、という連作になっている。ただし、住んでいるところの設定が変わったりして、まあ、独立した短編であるともいえる。どちらにしろ架空の作家のフィクションではある。エリザベス・コステロは極めて理性的というか理屈っぽいというか哲学的思索が得意と言うか、そしてとても行動的で頑固な人なので、息子や娘は対応に苦慮するのである。コステロの、そしてそれはクッツェー自身の関心でもあると思うのだが、動物の生命とか権利とかそういうことへの強い関心と深い思索が、自身の老いと死に向かうこと、それを取り巻く子供たちとの対話の中に組み込まれている、というのが「コステロ連作」のテーマと構造である。

 フランスのミシェル・ウェルベックの最新作『滅ぼす』も、老親の介護問題と、死に向かう人生の問題に真正面から取り組んだ作品だったが、まあなんというか、世界文学の最先端の作家たちはその問題をきちんと扱うのだよな。日本の純文学の「若さへの偏り」問題は以前から論じているのだが。(興味あるかたは一番下にリンクを貼った「ノーベル賞残念記念、前後編まとめてひとつにしました。『こころ』と『ノルウェイの森』(と「Tomorrow never knows」)。日本人の純文学観を登場人物年齢から考える。〈36,37歳と20,22歳問題〉を読んでみて下さい。)
 世界の文学の方をどうしてもたくさん読みたくなるのは、僕自身が60歳を超えて、老親がまだ生きていて、そういうことについて深く思索し真正面から描く文学に心惹かれてしまうせいもあるのだよなあ。コステロの立場と、コステロに同居や施設に入ることを進める息子の立場と、その両方に共感できる立場と年齢なのである。今の自分が。

 自らの死に向き合いながら、動物の命と死に対して人間がどういう関わり方をしているかを問い詰めていく最後の方と言うのは、いつものことながらクッツェーの思考と表現の「逃げ場のない所に読者を追い込む」迫力に満ちているのである。

 そしてそこまで読んで、また冒頭のコステロものでない三篇に戻って再読すると、これがなんとも味わい深いのである。一篇目「犬」は、通勤途中にある家の猛犬に吠えられる恐怖を抱き、その飼い主に文句を言う若い女性の話。飼い主が老夫婦。ねえ。動物と老夫婦と若い女性の話なわけだ。一回目読んだときは、主人公女性の視点で読んで、犬も飼い主老夫婦も「とんでもない奴だなあ」としか思わないのだが、二回目読むと、視点がいろいろ複雑になるのである。

 二篇目「物語」は、不倫を続ける主婦の話なのだが、これが、後のコステロのところで、ハイデガーとハンナ・アーレントの関係について論じられるところを通過してから読み直すと、また別の味わいが出てくるのである。

 三篇目「虚栄」は、65歳の女性が、その誕生日に、髪をブロンドに染めたり赤い口紅を塗ったりしているのを、子どもや孫にいろいろと批判される、という話なのだが。彼女はコステロではない、もともとかなり地味で普通の老人という話だと思う。コステロのような強烈な知性と個性を持つ「有名女性作家」の、息子、娘との関係を読んだうえで、この話に戻ると、またいろいろと考えさせることがあるのだ。つまり老人が老人として、ある自己主張や「見つめられたい」という欲望やを持つことについて、コステロのように強い言葉を持つ人は強く主張できるが、この話の主人公のような普通の女性も同じように尊重されるべきなんじゃないだろうかとか。

 というふうに、コステロ篇=あとの四篇を読んだ後で、前半の無名の三人を描いた三篇を読むと、これ、なかなかに味わいが変わるのである。

 そのことを、訳者であり、クッツェーについての評論『J.M.クッツェーと真実』を書いたクッツェー研究第一人者であるくぼたのぞみ氏もあとがきの中でこう書いている。

 『モラルの話』はくりかえし読まれることで、理解や味わいが深まるエチュードのようなテクストだからだ。

「J.M.クッツェーの現在地」 p149

 また別の場所ではこうも書いている。

 さらに注目したいのは、「ひとりの女が歳をとると」のなかで娘ヘレンが母エリザベス・コステロに面と向かってこんなふうにいう箇所があることだ。コステロ作品には美しさがあるだけでなく、それはほかの人の人生を変えてきた。とヘレンはいう。その理由は、彼女の書くものがレッスンを含んでいるからではなく、レッスンそのものだから。

「J.M.クッツェーの現在地」 p154

 というわけで、この本は、できれば、二周、読むことをお勧めしたいのである。くぼた氏の書く通り、レッスンそのものであり、くりかえし読むことで理解や味わいが増すからである。


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