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『野生の棕櫚 』フォークナー (著), 加島 祥造 (翻訳) 「二重小説」という小説構造・技法の文学史的意味ばかり語られるが、アメリカという国のバカでかさと、そのスケールゆえに浮き彫りになる人間の思いや意志の、どんなに他者から見て意味は無くてもそれは尊いことなんだ、ということが伝わる小説でした。

『野生の棕櫚 』(中公文庫 フ 17-2) 文庫 – 2023/11/21
フォークナー (著), 加島 祥造 (翻訳)

Amazon内容紹介

〈「悲しみ(grief)と虚無(nothing)しかないのだとしたら、ぼくは悲しみのほうを取ろう。」
1937年――人妻シャーロットと恋に落ち、二人の世界を求めて彷徨する元医学生ウイルボーン。(「野生の棕櫚」)
1927年――ミシシピイ河の洪水対策のさなか、漂流したボートで妊婦を救助した囚人。(「オールド・マン」)
二組の男女/二つのドラマが強烈なコントラストで照射する、現代の愛と死。

アメリカ南部を舞台に、実験的かつ斬新な小説群を、洪水的想像力で生涯書き継いだ巨人、ウィリアム・フォークナー。

 本作は、「一つの作品の中で異なる二つのストーリーを交互に展開する」という小説構成の先駆となったことで知られる。原著刊行(1939)の直後、ボルヘスによってスペイン語訳され(1941)、その断片的かつ非直線的な時間進行の物語構成により混沌とした現実を表現する手法は、コルタサル、ルルフォ、ガルシア=マルケス、バルガス=リョサなど、その後のラテンアメリカ文学に巨大な霊感を与えた。

 他方、現代日本の小説にも、大江健三郎(『「雨の木」を聴く女たち』)や村上春樹(『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』)、叙述トリックを用いたサスペンス小説(連城三紀彦は本作を生涯の10冊に挙げている)など、本作の影響は数多見受けられる。
 また、ゴダール(『勝手にしやがれ』)、ジャームッシュ(『ミステリー・トレイン』)における言及で本作を知る映画ファンも多いだろう。
 その意味では、文学のみならず20世紀カルチャーにおいて最大級の方法的インパクトを与えた、世界文学史上の重要作にして必読の傑作だといえる。
 これまで日本の新刊書籍市場ではなかなか入手できなかった本作を、『八月の光』『サンクチュアリ』『兵士の報酬』などの名訳によって定評のある、加島祥造訳にて復刊する。〉

Amazon内容紹介

ここから僕の感想

 とAmazon内容紹介も、巻末の野谷文昭氏の解説もまあ、この「二重小説」という構成・構造と言うか方法論の文学史的意味みたいなことに終始するのだが、しかしである。

 翻訳者、加島祥造氏の解説によると、フォークナーは「新しさ」とか「実験」とかのためにこういうことをしたのではなく、そうやらないと書けなかった、という。執筆当時の自身の恋愛の反映ともいえる「二人だけの純粋な愛、それをあまりに純粋に追い求めるあまり失ってしまうということ」の方を書こうとしても行き詰まり、そのとき、ミシシッピ川の大洪水と、その中でただひたすらに妊婦を助け自らも生き残ろうとする囚人の話を書くことで、本来書きたい、都会人の愛の悲劇を描き継ぐことができた。

 そして、今、僕が読むと。フォークナーが本来書きたかった、こちらが大事とフォークナーが言う「都会人男女の愛の逃避行」よりも、今、それを書き進むために必要から生まれた「大洪水と囚人と妊婦の大冒険」の方が、どう考えても面白いのである。

 なぜ人は小説を書くのか。という問いと、なぜ人は小説を読むのか、という問いは当然、別の問であって、読む人にとっての意味は、書く人にとっての意味とは当然、違うのである。

 もちろんそのふたつのコントラストが響く合うことにこの小説の価値はあるのだけれどね。それはそうなのだが。

脱線、アメリカと言う国のスケールについて

 あと、ふたつとも、ものすごく地理的スケールの大きい話で、まず、囚人の話の方、ミシシッピ川の大洪水のそのスケールの大きさというのが、これがもう。僕は海外の小説を読むときはグーグルアースで現地(当然、現代のものだから、小説当時とは異なるわけだけれど)で、上空からだったり、ストリートビューで地面からの視点で小説の舞台を行ったり来たりするのだけれど、今、現在でもミシシッピ川の流域は、未舗装の道からただ茫漠たる大きな川が流れているだけの原野のようなところや、広い広い畑と道以外何もないようなところや、なんというか、本当に「なんにもないただただ広い大地と大河と沼地」みたいなところだられなのである。

日本で言えば、そうだなあ、北海道の知床から釧路までレンタカーで旅行したときに、町と町の間はただただ道と原野、たまには畑や牧草地があるだけで「おお、ここは人がいるんだ」と感動する、みたいなあのスケール、あれのさらに何倍もでかい「原野と畑と大河」ときどきちょっとだけ人の住んでいるところ、というあの感じがミシシッピ川の流域で、そこを小さなボートに乗って、なんとか元居たところに戻ろうとするのだが、そのたびに川は洪水による逆流、ときどきさらにそこから反転して大波になってあらゆるものを押し流す、それが何度も行ったり来たりする中を、囚人と妊婦は。こっちの話の、まずその自然のスケールの大きさにもう茫然とする。人間の存在と自然のスケールの感覚が、日本人とは、少なくとも都市とその郊外で人生のほとんどを暮らしてきた僕とは、根本的に違う。

 そして、若く貧しい駆け出し医師と自由を求める人妻の逃避行の方も、これも移動のスケールと生活環境のバリエーションがものすごい。南部ニューオリンズから始まって、シカゴ、その郊外の避暑地、またシカゴの都会、そこからどこかはよく分からぬ冬山奥地の鉱山、そして最後またミシシッピ川河口のアメリカ最南部まで転々と移動し続ける。それはそれでアメリカのスケールの大きさを感じさせるのである。

 どちらの物語も、そういうスケールの中で展開するからこそ、人間の存在とか、人間の思いとか意志というものの、とるにたらないけれど当人にとっては何よりも重たいことだったり、他者からはまったくバカバカしく理屈に合わないことだけれど、それは当人にとっては大切で捨て去ることなどできないものだということが、理屈でなく伝わってくるのである。

 「二重小説」という方法は、今となってはそんなに「斬新」とも思われないが、むしろそれがどう対応するかとか、最後にどう交わるかと回収されるかとか、そういう構造・構成の妙みたいなことではなく、(そんなものは、ないと言えばない。)

 そうではなく、こうしてしか書くことが出来なかったこと、表現できなかった何かというものがフォークナーという作家にはあったのだな。それが強く残る本でした。

翻訳について

 1978年の学習研究社版『世界文学全集5』を底本としたもの、ということで、翻訳はやや古くて分かりにくいかなあ、というところもあった。原文が分からないから、などと見栄を張るまでもなく、英語力が無い僕には、翻訳として正確かとかそういうことは分からないけれど、その頃の古い翻訳小説特有の読みにくさ(日本語表現として、ひと世代昔の人の日本語だよなあ、という感じ)はあります。でも、それでも、この小説の持つ力、迫力は十分、伝わってきました。

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