『小説禁止令に賛同する』 いとう せいこう (著) 近未来政治小説として、文学論小説論として、秀逸でした。いやホントに、小説家の論じる小説論として、夏目漱石の直系後継者的出来栄えでは。
『小説禁止令に賛同する』 単行本 – 2018/2/5
いとう せいこう (著)
Amazon内容紹介
「「皆さん。こんなおかしな小説はありはしません。信じて下さい」…。近未来の■■。いとうせいこうの長編小説。」
ここから僕の感想。
翻訳家 鴻巣友季子さんのツイート「作家を主人公・語り手にしたディストピア小説傑作3作。小川洋子『密やかな結晶』いとうせいこう『小説禁止令に賛同する』桐野夏生『日没』
『日没』と『小説禁止令に賛同する』はどちらも体制の意に沿う文章を書かされる。」
に導かれて読みました、いよいよ最終、三作目、いとうせいこう氏の小説。
いとうせいこうさんという方は、1980年代前半、「新人類」と言う言葉が出現した時代に、サブカルの、音楽とか演劇とか、そういうところから出てきた人だから、(今現在、文学の世界の人達は、本当にすごい人、現代日本文学の重要な担い手の1人だとわかっていても、)、文学にあんまり興味のない人からは「へえ、器用に小説も書くんだ」くらいに思われているんではないのかな。
違うのよ。震災後に書かれた『想像ラジオ』は、震災について書かれた小説を論じる場合、絶対に避けて通れない重要作品だし、この小説を読んでも、文学ということについて、ふかくふかくふかく考え続けてきた人だということがよくわかる。
そもそも、この小説が、2017年、今から三年前に書かれていたことも、ちょっとびっくりである。小説の舞台は2036年。そこまでに、この日本がどういう運命をたどって、なぜ小説禁止令が出ていて、この主人公がそれに賛成しているのか、というのは、ネタバラシになるから、最小限、感想を述べるのにどうしてもいることだけを書くけれど。近未来、これから2036年までに起きることが、ものすごく面白い。ありそうなことと、ありそうもないことのミックス度合いが、素晴らしい。なるほど、だから、主人公は、こういう状況にあるのか。それは読んでのお楽しみ。とにかく、そこまで起きた世界と日本の変化の結果、小説は禁止されているのである。
小説がなぜいけないか。どこがいけないか。ということを、主人公は、監禁された状態で、書いている。書かされている。桐野夏生さんのほうの主人公は、「自分の小説のどこがいけないか」を反省して、正しい(いけなくない)小説を書くように強要されるわけだが、こちらの、いとうせいこうさんの方の主人公は、もう、小説というジャンルの罪深さについて、書かされているのである。当然、小説を書いてはダメだから、随筆として、書かされているのである。小説と随筆ってどう違うの?そう。どこがどう違って、なぜ小説はそれほど罪深いのか。いとうせいこう氏の、独自の、これまでの人生で書いてきた小説、エッセイ、だけではなく、古今東西の、小説、文学、エッセイや文学理論、二葉亭四迷や夏目漱石からカフカから、さまざま例を引きながら、そして2036年までに起きたことや書かれたもの(もちろん、架空の)にも触れながら、主人公は、「小説禁止令に賛同し、その罪深さを分析糾弾する随筆」を、書き続けるのである。月一回発行される小冊子に掲載されるその随筆を、私たちは読むのである。
現実の現在の世界文学において、オートノベル(私小説だと思っていいけれど、小説の中に作者がひょこひょこ顔を出しては、小説自体を相対化するような)そういうのがいまどきは流行している。この前紹介した、ロラン・バルト自動車事故死を題材にした『言語の七番目の機能』ローラン・ビネなんかも、その流れのなかにある。彼のデビュー作『HHhH』は、歴史小説の方法に疑問を持つ小説家が、ナチス幹部暗殺の史実を書いていく、その執筆プロセスと、取材内容が小説化されたものの間を行ったり来たりする。オートノベルというのは、小説の中に、主人公の思索と作者の思想が重なりながら、その創作過程自体を小説化していくのである。
この小説では、そのような小説固有の、作者、読者、登場人物の独特な在り方を分析する。その分析する随筆を、小説の中で読む。もう何重に入れ子構造になっているのだか、分からなくなる。そういう「世界文学的にも最先端」な試みなわけである。
ただ、そうした知的な面白さと引き換えに、この小説は、ディストピア小説としての生理的怖さ、という点では、桐野夏生さんの『日没』には、正直、負ける。あれはもう生理的にというか、全存在的に怖くて辛くて絶望的になる、という意味で完璧なディストピア小説だった。個人の体験するディストピアとして完璧すぎる。
こちらの小説は、より大きな世界状況の変化と日本の置かれた立場状況という「近未来の状況」全体をきちんと設定しているという点や、知的な文学論が展開されるという点で、なんというか、知的高等議論的が勝っていて、肉体的に、生理的に、暴力的に虐待され、それが人間を徹底的に卑屈に屈服させていく、というような、そういう怖さは、直接は、表面にあんまり出てこない。
(とはいえ、そういう生理的肉体的暴力を、主人公が受けていないというのではない。そういうことを受けていることはちらと書かれているのだが。とにかく、私たちが読めるのは、主人公が書いた随筆だけなわけなので、そこではその虐待や脅迫の、本当のところは書かれていないわけだ。あくまで、監督者に提出される随筆を読んでいるわけだから。)
もうひとつ、この主人公、いとうせいうこう氏と同じ年齢設定だと思うので、2036年、もう75歳なのである。つまり、なんというか生き物としての生存欲求が低下しているかんじなのだ。生への執着が低下した人間を主人公にしても、生理的恐怖というのは、ちょっと出にくいのである。このへんも、小川洋子さんのから三作続けて、ディストピア小説、しかも小説家が主人公、というのを読み続けると、ついついいろいろ比較してしまう。
小川さん、桐野さんのと比較すると、この小説
①近未来に日本がどうなっちゃっているか、という近未来シミュレーション小説として、すごくよくできている。面白い。女性お二人のディストピアは、大きな状況については「何が起きているのか、よくわからない」のに、絶望的な状況が進行していく怖さが書かれている。(理不尽型ディストピア小説、カフカ的なのである。)いとうさんのは、世界状況、日本の状況、なぜこのような弾圧が起きているかの理由がクリアにわかる。(どちらかというと1984の子孫な感じがあるのだ。)
②小説とは何かを、理論的に分析考察する、文学論として、ものすごく、面白い。三作とも、小説を書くということを対象化して、それが奪われることの意味を書いていく。そのことが、全員三作共通の、メインのテーマともいえる。言えるのに、では小説とはどういうことなのか。これもやはり、いとうせいこう氏の分析はロジカルである。小川さん、桐野さんの小説の中では実作者、小説家である本人にとって小節を書くということがどのような体験であるかが精密に描写されている。いとうせいこうさんの場合、「私が」というより「小説というものは一般に」というところまで語っている。その一般化と自分個人の配分が、いとうさんだけ、違うのである。(この点が、夏目漱石直系なかんじがする。)
③ディストピアの絶望感については、小川さん、桐野さん、お二人のものは、それぞれの個性で、描き方は全く違うのだが、食べ物への欲求、性的なことへの欲求、お風呂に入ること、そういう日常の行為を奪うということが、ディストピアの恐ろしさの個人への迫り方であって、そういうものを奪われると、人間がいかにたやすく(身体も精神も)壊れていくか、について、小川さんは哀切な切なさ、「静かに失われていくこと、奪われていくこと」として、桐野さんは「絶望的に生理的に屈辱的に奪われていく体験」として、描いている。どちらも、なんというか呼吸するのもつらいような、そういう気分に、読んでいてさせられる。
いとうせいこうさんの小説においては、その点はさほど深く描かない。武士は食わねど的な主人公の態度フィルターを通った随筆でしか書かれていないから、その随筆しか読めないから、その背後にあったであろう直接的肉体的暴力は想像するしかないのである。「あの小冊子、あなたの随筆は誰も読んでいないかもしれない」と脅された衝撃が、作品中、主人公をいちばん動揺させる。肉体的虐待拷問を受けるより、そのことの方がつらいという、そういう描き方なのである。(余談になるが、いとうせいこうさんは、私より一学年上、ほぼ同世代。軽い緑内障でまつ毛の伸びる目薬を差すとか、手足のしびれとか、耳鳴りとか、頻尿とか、私の悩まされている老化現象と同じ症状と全く同じことを主人公も患っている。75歳の老人といいつつ、ここには私と同世代の、50代後半の、いとうせいこうさんの肉体的老化が投影されているのである。)
というわけで、三作とも、鴻巣さんが「傑作」というだけのことはあったし、三作まとめて続けて読むのは、なかなか面白い体験であった。
ところで、翻訳家、鴻巣さんの翻訳・最新作は、マーガレット・アトウッドの『誓願』という小説なのだ。これは、ディストピア小説の傑作『侍女の物語』の続編、なのだそうだ。ここまでディストピア文学を読んだからには、世界的名作という『侍女の物語』も、その続編たる『誓願』も、読まねばならないではないか。なんと、あの、ツイートは、なんとも巧妙な、プロモーションツイートだったのか。『広告』って、断ってなかったじゃないか。たしかに、自著自体の宣伝は全然していなかったな。うーむ、遠回りのようで、巧妙な。元・広告屋の私がまんまとはまってしまった。鴻巣友季子さん、おそるべし。人の心を、こんな風に操るとは。