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オルハン パムク『雪』を、政治・宗教小説としてではなく、『グレート・ギャツビー』とよく似た、究極の男子妄想恋愛小説として読む。

『雪』〔新訳版〕 (上) (ハヤカワepi文庫) (日本語) 文庫 
オルハン パムク (著), Orhan Pamuk (原著), 宮下 遼 (翻訳)

Amazon内容紹介
「内容(「BOOK」データベースより)
十二年ぶりに故郷トルコに戻った詩人Kaは、少女の連続自殺について記事を書くために地方都市カルスへ旅することになる。憧れの美女イペキ、近く実施される市長選挙に立候補しているその元夫、カリスマ的な魅力を持つイスラム主義者“群青”、彼を崇拝する若い学生たち…雪降る街で出会うさまざまな人たちは、取材を進めるKaの心に波紋を広げていく。ノーベル文学賞受賞作家が、現代トルコにおける政治と信仰を描く傑作。」

先日紹介した『赤い髪の女』の作者、オルハン・パムク代表作、ということで続けて読んだ。

Amazon内容紹介にある通り「現代トルコにおける政治と信仰を描く」というふうに、その文脈で読まれる小説なのでしょうが。私は、それとは全然別の側面からも、大変興味深く読みました。

 まずは、「政治・信仰」の文脈で言えば、トルコの現代史と現在の世界情勢の中での、トルコ東部の田舎町、というのが、ものすごく象徴的。世俗主義とイスラム主義がぶつかりあい。クルド人や、アルメニア、グルジアともごく近い。

 今回も、グーグルアースとかマップで、このカルスの町の建物景色を見ながら読んだのですが、予想以上に東方的な古い建物がたくさんあり、古い城とその城下が今はスラム化していて、現在の中心市街は、ロシア支配時代の建物が並んでいる。そのロシア時代の建物も、十分に古くてエキゾチック。舞台となったとおぼしきホテルも、なるほど、これかと、写真を見ることができる。

 西欧に一番近いイスラムの国である西欧的なイスタンブールの知識上流階級出身の主人公と、トルコのいちばん東はじのカルスという地方の町の人々対比。その町が雪で外界と隔絶される中で、トルコの抱える様々な問題が凝縮して次々と予想外の事態に展開していく。この辺は、イスラム、トルコの近現代史について基礎知識がないと、そうとう、わからないかもしれない。

 カフカの『城』のような、不条理で混沌とした時間と事件の流れでもある。そういう混沌とした政治宗教サスペンス小説、と読むこともできる。

なんですが、もうひとつの視点というのは、これは、きわめて古典的な恋愛小説なんですね。

話がちょっと関係ない方に飛びますが。

この小説を読んでいる真っ最中、妻に「あなたはなぜ小説を読むのか」という、ド直球の質問をされたんですね。まあ、小説をひたすら読むために、仕事をほぼ辞めちゃったわけで、そういう疑問を妻が抱くのも、もっともだと思うんです、

妻が言います。「わたしはあなたのことを理解したいと思うのだが、あなたが最高の小説のひとつという『グレート・ギャツビー』を、何回が読んだが、何がおもしろいのか、どこがそれほどの傑作なのか、わからない、納得できない。」

 『グレート・ギャツビー』が偉大な小説であるかどうかに関して、昨年4月の妻の誕生日に子供たちも集まった時に、物書き修行中の長男と私の間で、大激論というか、大喧嘩というか、そういう事件があったんですね。
 長男に加え、かなりの本読みである三男、長女、そして、理系なのだけれど、大学の一般教養の授業で『グレートギャツビーを読む』というのを取って、この小説に挑戦していた四男、というメンバーで、グレートギャツビーを論じていたところ、まあ、おそらくはフェミニズム観点でいうとそうとう古臭い小説であるということであまりお気に入りでなさそうな長女、センチメンタルで俗っぽい小説でしかないという長男と、私の意見が真っ向対立、となったわけ。そのときは、うまく『グレート・ギャツビー』を擁護できなかったのだが、その事件はずっと僕の中ではひっかかっていて、ことあるごとに考えてきた。

 この小説。実は、『グレート・ギャツビー』に、すごく似ている。こんなことをいう人間は、世界中の本読みの中でも、僕だけではないかと思うのだが、本当によく似ているのである。

 私は妻に、なぜ私が小説を読むのか、の説明を、始めた。

 ミシェル・ウェルベックの『服従』と、南アのノーベル賞作家のクッツェーの『恥辱』と、この『雪』を並べてみる。それぞれが「イスラム教化するフランス社会」「アパルトヘイト撤廃後の白人と黒人の間の暴力」「トルコにおける世俗主義とイスラム教」というような、重たいテーマを扱っている。
 ところが、「政治・宗教」などのヘビーな、それぞれの構成要素、「外皮」を剥いでいくと、そこに残るのは、(村上春樹の小説のタイトルにあった)『女のいない男』問題というところにいきつく。

ノーベル賞選考委員というのは、政治的意味や差別の問題や、そういうことが含まれた小説を高く評価する傾向にある。『雪』も、『恥辱』も、イスラム教、宗教とかアパルトヘイトとか、その中での女性への暴力とか差別とか、そういう要素が色濃く含まれた小説というのは評価されやすい。村上春樹が毎回、候補と取りざたされても、なかなか受賞しないのは、そういう政治宗教などを直接描くことが少ないからだろう。(本当はずいぶん踏み込んで描いているのだけれど。)

差別とか政治的暴力とかそういう深刻な問題に文学が何をできるか。現実にそういう過酷な社会の中で、文学を通して戦っている文学者を応援支援する、という意味が、ノーベル賞にはあるから、ノーベル賞の選考基準がそうであるのは問題ない。

でも、文学の価値が、そこにだけあるというのは、僕は違うと思うんだよな、

 今、挙げた小説の本筋は、インテリ大学教授だったり詩人だったり、そういう男性が、過去の恋愛に囚われたり、あるいは男女関係を大切にしないで、ある年齢まで生きてきたりして、ある年齢になったときに、自分には愛する人がいない、「女のいない男」になっているということに、ふと気が付く。なんとか女性の愛を求められないかと、目の前にいる、生身の女性に、自分の幻想を重ねて、愚かにも、うろうろと悩み苦しむ。そのことを軸にストーリーは展開するのだ。読んでいると、この主人公は、目の前の女性ではなく、自分の幻想と幸福探しを通してしか、女性を見ていないのではないか、というように見えてくる。

 「政治や宗教や差別や」というヘビーな方が本当のテーマで、「女性に幻想を投影して悩み苦しみうろうろする」というのは、小説の筋を進めるための道具立てだとなぜ決めてかかるのか。

 いやむしろ、人生の一大事というのは、その「女性に幻想を投影して悩み苦しむ。そのことが、人生全体の進み方を決めてしまう。時にそれは決定的に悲劇的な運命に人を導いてしまう。それが男子というものの、どうしようもない真実の姿なのだよ。」ということの方が、はるかに重たいテーマなんじゃないの。

 そして、実は、この『雪』という小説は、そのことを書いているのだよ。

 『グレート・ギャッビー』の偉大さは、まさに、その点だけを、完璧な筋、完璧な人物像を造形することで、一篇の小説に仕上げ切ったという意味で、圧倒的に優れた古典となっているのだよ。

 ということを、妻に説明したら、ちょっと納得してくれた。その「男の子うろうろ」という、きわめて個人的でどうしようもないことこそ、文学のいちばん大切なことで、そのことを、僕は、若いころから、考えたり読んだりしたいと思っていた。もういい年になったので、そろそろ、そのことに集中していきたいのだよ。と説明したところ「なんか、納得できた」と言ってくれました。

 イスラム教の、トルコの、伝統的男女観、恋愛観、結婚観というのは、西欧的感覚からすると、ずいぶん古臭いというか、突拍子もないのだけれど、イスラム教の教えなどをある程度知ると、ああ、そうなのかもしれないなあ、と思う。僕らが若かった昭和の高度成長期くらいまでの日本の恋愛観、結婚観の中には、こういう感覚は残っていたのかもなあ、と思う。そういうことが残っている、トルコ東部の田舎町に、都会のインテリが来て、ジタバタすると、きわめて古典的な恋愛小説のドラマが、避けようのない運命のように進行する。その緊迫感と切なさが、『グレート・ギャツビー』を思い起こさせるのである。

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