『「論理的思考」の文化的基盤 4つの思考表現スタイル』渡邉雅子(著) いやもう歴史的名著。僕はこの本の内容を若者に伝道する仕事を余生全部かけてもいいと思ったくらい。自分が「感想文教育」の申し子であることも痛感自覚しました。
『「論理的思考」の文化的基盤 4つの思考表現スタイル』
2023/9/26 渡邉 雅子 (著)
◆Amazon内容紹介
◆ここから僕の感想
この前、フライングで読書途中で興奮して投稿してしまったけれど、ノートを取りながら読み進め、読了。
この前「今年読んだ本の中でNO1」と書いたけれど、訂正。これまでの人生で読んだ本の中でベスト3に入るすごい本でした。かなり興奮状態にある。
どれくらい興奮しているかと言うと、おそらくこの本は高校から大学教養課程くらいの人、それは文系理系を問わず、すべての人が学ぶべき基本図書になるべきだと僕は思うというか確信したし、なんだったら高校三年生が学ぶ必修科目として一年間かけてこの本一冊を学ぶべきなんじゃないかと思う。
そうなったとしたら「この本を教える教科の専門の先生」という職業が必要になるじゃあないですか、そうならば、今から僕はその先生になりたいと思うし、これから先の人生、この本を若者に教える先生として生きていきたい、と思ったくらいすごい本でした。
ということは、逆に言うと、この本を読んでいない人といろいろ議論しても、「ああ、この人、わかっていないなあ」と白けたきもちになって、「バカバカしい」と正直思ってしまう、いや、ほんとに申し訳ないんだけれど、そう思っちゃうよな、というくらい、僕をますます傲慢で失礼な人間にしてしまう、そういう恐ろしい本でもあるのだなあ。
ということで、みなさんにこの本をお勧めしているわけなんだけれど、4950円もする本だし、なかなか難しいとは思うのだが、紹介してすぐ買って読んでくれたのは、さとなおくんだけだし、図書館に予約して読もうとしているのは、読書師匠のしむちょんだけで、なんといってもしむちょんはこの本の前提となる前著を読んで僕に教えてくれたのだから、さすが、さとなおくんとしむちょんなのである。
前著『論理的思考の社会的構築』というのが、アメリカの5パラグラフエッセイとフランスのディセルタシオンという、それぞれの国の学校教育で教えられる小論文の書き方、書けるようになるための教育カリキュラムとその実態、それぞれがもたらす思考表現スタイルの違いが、民主主義、社会、政治の在り方におよぼす影響というか相互作用、そういう内容の本だったわけだが、そちらの本の感想文noteは↓こちら。
本書はこれにイランの「エンシャー」という作文とその教育、日本の「感想文」(読書感想文だけではない、日本の作文教育全体)、というのを加え、これを理論的原理的構造的に対比させることと、具体的な教育の現場の調査をすることで、理論的にも、具体論としても、非常に深い、比較文化というにとどまらない、本当に本質的な洞察提言にまで至っている本なのだな。
前著との差分は、イランと日本が加わったことにとどまらず、作文教育だけではなく歴史教育についても深く扱っていること。これは時間意識、因果律をどのように教育しているかということから、具体的な行動、決断に対する態度の差となって現れるのだな。
それから、前著ではアメリカの5パラグラフエッセイに対する批判をフランスのディセルタシオンとの比較で行う、ということでアメリカの5パラグラフエッセイについてはかなり批判的だったと思うのだが、そして今回もそれはつらぬかれていると思うのだが、
本書ではね(著者はこんな言い方はしていないが)、5パラグラフエッセイというのはいわば「バカでも書ける」形式として導入されたからといってアメリカ人全員がバカかというとそんなことはないよ、アメリカでも頭のいい人向けの、もっと高度なエッセイの型がいくつもあって、「説得のエッセイ」「議論のエッセイ」というだんだんどんどん高度な型に教育も進んでいくのだよ、ということが紹介される。これだとね、僕も納得したんだな。さらにエッセイと並行して「クリエイティブ・ライティング」について解説されていて、アメリカの大学進学で最も重要視される志望動機エッセイは、基本的には「説得のエッセイ」の型で書かれるが、最終的に他者と差別化されるのは「クリエイティブ・ライティング」としての質であり、クリエイティブライティングが武器になるのだよ、という分析がなされている。
著者の研究のそもそものスタートに、あまりにアメリカの「5パラグラフエッセイ」が世界標準になっているために、それに合わない書き方をしただけでバカだと思われちゃうということがあって、それへの批判が研究のスタートではあったのだな。で、あれはあくまである価値観にもとづくひとつの型でしかないということを批判しつつも、本作ではアメリカの作文教育について、より詳細に深く掘り下げるということがなされている。というのも、本書が前著から進化した点であるのだな。
しかしなによりも、日本の作文教育、綴り方教育の歴史から、感想文教育の分析は見事というしかなく、読んでいて「ああ、俺って、感想文教育の申し子じゃん」と思わざるを得ない。僕のnoteの読者みなさんは、僕がやたらと読書感想文を書くだけじゃなく、スポーツを見ても、音楽を聴いても、政治ニュースを見ても「感想文」を書きまくり、そして開き直ったように「エビデンスは無い、これは私の感想です」と、ひろゆき信者の「エビデンスバカ」に対し開き直っていることはご存じの通りなのだが、そう、本当に僕は、この本を読んで分かったのは、おそろしく深い所で「感想文」という思考のスタイルにどっぷりつかって形作られていたのである。
感想文というものが、どれくらい日本人の思考の型に深い所でなっていて、近代化の中での歴史的な価値を残しつつ近代化に成功したことや、社会秩序維持の維持に役立ちつつも、大事な決断を下すことができず歴史的節目で大きな過ちにつながるか、というようなことにまで分析は進むのである。もうね、日本人・日本文化論としてもこれ以上のものを人生で読んだことがない、というくらい、すごいものでした。
ちょっとだけ引用しようかな。長いけどね。
これだけ読むと納得する人もできない人もいると思うけれど、この深さで、アメリカの作文が「決断をできる人を作り出す、決断のための最も強い効率的な根拠を見つけ出し、それにより決断する人を育てる」だったり、フランスのが「権力の暴走を抑えるために、社会にとって何が善なのかを熟考し、極端な一方の意見に偏らず熟考議論し、合意形成でき、また社会変化に合わせて法律を変えていける能力を養う」という、それぞれの小論文が育てる生徒児童の目標と、それによって形成される社会ということを分析していくのだな。イランのものは、いちばん日本人にとって理解しにくいんじゃないかと思うが。
とりあえずこの投稿はここまで。でもこの本の感想文は、連続・連載ものとして、これからしばらく書き続けると思う。まずは、「広告と感想文」というお題が、書きたいことが、もう頭の中を渦巻いているのである。
前著はこちら
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