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『リベラリズムへの不満 』フランシス・フクヤマ (著), 会田弘継 (訳) 米国政治主に2016年トランプ以降の分析なんだけれど、ここ最近の日本の政治状況や世界各地で起きていること、ツイッター上の論争まで理解する補助線見取り図として秀逸。

あ『リベラリズムへの不満 』単行本 – 2023/3/17
フランシス・フクヤマ (著), 会田 弘継 (翻訳)

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『歴史の終わり』から30年。自由と民主主義への最終回答。
リベラリズムが右派のポピュリストや左派の進歩派から激しい攻撃を受け、深刻な脅威にさらされている。だがそれは、この思想が間違った方向に発展した結果であり、本質的な価値に疑いの余地はない。多様な政治的立場を包含する「大きな傘」としてのリベラリズムの真の価値を原点に遡って解き明かし、再生への道を提示する。

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ここから僕の感想

 あのね、ものすごく面白かった。基本的に米国の政治状況への分析、提言なのだけれど、ここ30年くらいの、日本の社会、政治の状況を理解整理する上でも、大変に有益でした。単行本だけど、新書くらいの内容分量なので、わりとすぐ読めると思います。フランシス・フクヤマって、なんとなく『歴史の終わり』の、過去の人だと思っていたのだが、とんでもなかった。ごめんなさい。

 かなり遠回りなところからまた話を始めるけれど、僕はそのここ30年の日本がダメになった犯人の1人は竹中平蔵氏だ、というふうに思っていることはずっと書いているわけだが、その一方で、上野千鶴子氏に代表される、といってあいまいで申し訳ないのだが、フェミニズム的立場とか意見からの「おひとり様」肯定、というのも、少子化深刻なこの日本においては、あんまり賛成できないのだな。うちの子供たちがみんな揃ってなんだか生きづらそうにしていることの原因の8割くらいは竹中平蔵氏のやったことに起因すると思うのだが、残り2割は上野千鶴子的なものが原因のような気がしている。どちらも「漠然とした感じ」の話であるが。

 で、この本、その僕の漠然と感じる「竹中氏が八割悪いが上野氏も二割悪いよな」という頭悪い印象論について、大変に緻密に網羅的に論じてくれている本なのだよ。ほんとは、トランブに代表されるナショナリスト・ポピュリズム保守派についての分析がメインなんだけれど。「竹中上野問題の解説書」と思って読むとすごく分かりやすい。

 冒頭、「この本は古典的リベラリズムの擁護を目的としている。」とあるわけ。で、古典的リベラリズムが危機に瀕しているのは、リベラリズムが二つの側面で行き過ぎたからだ、というのが本書の基本構図。

 行き過ぎのひとつめは、当然経済的な側面でのリベラリズムが行きすぎちゃったネオリベが世界を覆い尽くしたせいなわけで、その日本への導入代理人が竹中平蔵なので、これはわかりやすい。はじめの三章まではネオリベの問題の分析。 

 もうひとつの「行き過ぎ」は、リベラリズムの根幹にある「個人の自律性」(個人の自由は国家や社会慣習やなんかから自由で自律したものだ)が行き過ぎて拡大した末の「アイデンティティ政治」というの。これを論じ始める四章の冒頭部分をちょいと引用。

 個人の自律性は、経済的自律性を第一義に考える右派リベラリズムによって極端にまで追求された。しかし、左派リベラリズムもまた、個人の自己実現を中心とした別のタイプの自律性を重視し、極端なまでに貫徹したのである。ネオリベラリズム(新自由主義)が過度な不平等や金融不安によってリベラルな民主主義を脅かす一方で、左派リベラリズムは現代のアイデンティティ政治へと発展し、リベラリズムの前提を崩し始めた。自律の概念は社会的結束を脅かす形で絶対化され、そのために進歩的な活動家は社会的圧力と国家権力を利用して自分たちの活動目的に批判的な声を封じ込めるようになったのである。
 個人の自律性の拡大は、二つの領域で行われた。第一は哲学的な領域で、個人の自律性の意味は、確立された道徳的枠組みの中での選択から、枠組みそのものを選択する能力へと着実に拡大された。第二は政治的な領域で、自立は個人のためでなく、個人が組み込まれた集団のための自律を意味するようになった。

本書p70~71

 ちょいとわかりにくいかな。古典的リベラリズムでは、「普遍的人間」すべてを考えるわけだけれど、アイデンティティ政治と言うのは(アメリカの政治状況に即して言えば)「普遍的」なんていうのは欺瞞で存在せず、実際は多数派である「白人・男性」の支配構造が法体系、社会制度・慣習・言語などに組み込まれて成立しているというのが左派の主張なわけだ。で、「女性」とか「アフリカ系アメリカ人」という少数者弱者は、その「アイデンティティ集団の自律」のために欺瞞的「普遍的人間」を標榜する既存の法律、政治制度、社会慣習・特に言語表現などに対して闘争的であるべきだというのが「アイデンティティ政治」ということなんだと思う。つまり、「枠組みの中の自律」から、「枠組み自体を組み替えて、しいたげられているアイデンティティ集団の自律性を獲得すること」なわけだな。僕が漠然と「上野千鶴子氏的」として感じたことが、この本では「アイデンティティ政治」という用語によって明確に分析されているわけだ。

 アメリカの政治状況でも、日本でも、この「ネオリベラリズム」と「アイデンティティ政治」、前者が右派で後者が左派、というほど単純な対立軸でないことも、本書は縷々解説していく。

 まず、クリントン、オバマ、そして今のバイデンの民主党政権も、基本的に経済的には新自由主義的グローバリズムとグローバル企業有利な政策を採るわけである。

 また一方、はじめ左派側から始まったアイデンティティ政治を、「中年の白人男性」という社会のマジョリティと思われていた層こそ、現在では虐げられ損をし、生活水準が下がり、政治的に無視されてきたということをトランプは訴えて大統領になったわけだ。「特定のアイデンティティ集団が、被害者となっている」という戦い方は、伝統的価値観の保守主義者もその政治的戦い方として取り入れちゃっているわけである。日本でも、「弱者男性」が、アンチフェミニズムを唱えるという議論構図はツイッターでよく見る風景になっている。

 そして、左派のアイデンティティ政治も、右派のアイデンティティ政治も、どちらも自分の主張と異なる主張は「ヘイト」として、相手には言論の自由を認めようとしなかったり、科学的議論を否定したりする。

 アイデンティティ政治が左右に広がることで、古典的リベラリズムの基盤である、合理的科学的議論、相手の言論の自由も認めながら熟議を重ねるという前提が崩れている、ということを本書は指摘するのである。つまり分断がどうしようもなく拡大し、社会が暴力的になっていってしまうのである。トランプ支持者の議会占拠も、BLM運動が暴動にまで発展してしまうのも、直近のフランスの暴動なんかもこういう構造と関係があると思うのである。

 米国では、トランブ・共和党・ポピュリズム的右派と、バイデン民主党、背後にアイデンティティ政治(女性やアフリカ系アメリカ人やLGBTなどの権利拡大を支持する層)が、数的に拮抗していて大変なことになっているのだよな。

 つい先日の、大学の入学におけるアファーマァティブアクション、女性やアフリカ系優遇を違憲とする判決が最高裁で出たのは、トランプ時代に最高裁判事が保守派多数になっていたからだし。

 LGBTをめぐる法律も、日本では自民党もバイデン政権から圧力があったんだと思うけれど、とりあえず文言内容ではもめたり、党内右派から反発を喰いながらも法案は可決されたけれど。アメリカだと、州レベルでは、反LGBT法が、トランプ支持の優勢な中部南部で可決されまくっていて、完全に国民をというか、地域で二分する形になっているのだよな。 

 日本でのあの法律の文言、自民党によってねじこまれた「法律に定める措置の実施にあたっては、すべての国民が安心して生活できるよう留意する」に立憲・共産・社民などが猛反対したのも、この「アイデンティティ政治」の議論を理解するとよくわかる。現状の社会制度全体圧倒的にが多数派有利にできていて、そこから少数派の権利を守るために新たに法律が作られたのに、最後に「多数派のことも考えよう」一文が入ったらダメ、と「アイデンティティ政治」の立場からは当然そうなる。

 アメリカでは左右が数的に拮抗しているのだが、日本ではアイデンティティ政治に関する政治課題を重視する立憲が選挙で負け続け、ネオリベを自民党以上に大胆に推し進める維新が躍進を続けている。と言う日本の政治状況も、この本を読むと頭の中で整理されてくる。

 最後に、「善と正義」という、似ていてあんまり区別して考えたことのない問題について、哲学者ジョン・ロールズと、あのマイケル・サンデルの議論を整理した箇所がとても面白かった。

 「善」ていうのは、こういう社会がいい。だからそのためには「こういう生き方がいい」こういうのがいい。そういう価値判断を含むことを言っているのね。マイケル・サンデルの立場。あるいはサンデルは「正義」は「善」を含んで議論されるべきという立場なんだな。「善」はひとつには決められないけれど、それを目指すという志はないと社会は良くならない。とサンデルは考えるわけだ。

 一方、ロールズは「正義」っていうのは、他者に対して、他の個人に対して、個人も国家も社会も「こういう生き方がいい」って強制しない。自由自律を最大限認める。それが正義だっていう考え方なんだな。不公正の是正まではする。でも、「こういう社会がいい」だから「こういう生き方がいい、というのは国や社会が個人に強制してはいけない。他者に害悪を及ぼさない限りはほっておくのが正義。というのがロールズの考え方なんだそうだ。

 ちょいと面白いので引用します。

「こうした抽象的な議論を簡単な例で説明することができる。現代の自由主義的社会に生きる二人の個人を比べてみよう。一人は男性で、ビデオゲームに明け暮れネットサーフィンをし、裕福な家族からもらう援助で生活している。高校卒業がやっとだったのは、資力が無いとか障害があるという理由ではなく、単に勉強が嫌いだからだ。大麻を使うのが好きで(彼の州では合法化されたばかり)時事問題(どころか一般的に文字を読むこと)には興味がなく、Facebookを見たりインスタグラムに人を腐すようなコメントを書いたり、オンラインで商品を買って時間を潰すのが好きだ。ソーシャルメディアで人とつながることはあっても、そうした友人たちと深くつきあったり、助けてやったりはしない。目の前で交通事故の被害者を助けてほしいと頼まれても、その場から立ち去るタイプだ。
 もう一人は女性で、高校を卒業してコミュニティカレッジに進学したが、母子家庭で母は学資が賄えないため、働きながら勉強している。社会問題に関心を持ち、時間の許す限り新聞や本を読んでいる。将来は四年制大学を卒業し弁護士になりたいと考えている。人柄はおおらかで、幅広い層の人々と深い交友関係を持ち、不当に訴えられたと思われる人々のために、危険を冒して支援活動をしてきた。この女性も最初の男性も、周囲の人々が自分と同じよう選択をしようとしても敢えて引き留めようとはしない。
 ジョン・ロールズの正義論に従えば、公的機関や私たちが2人を裁き、女性の方が男性よりも道徳的に優れていると言うことを許さないだろう。二人とも自分で選んだ人生設計に従っている。ロールズならば、二人の人生設計は、育った家族や近隣関係、親から引き継いだ遺伝的要素など偶然性の高い社会的要因に大きく影響されていると主張するだろう。これらの人々が他の人々の自律的行動を妨げない限り、より高い位置に立ってこの二人の相対的な価値を判断することは誰にもできない。ロールズのリベラリズムは他人の人生の選択に対して判断を下さないことを良しとする。

本書P80~81

 なんだけれど、本書最後でフクヤマは、ロールズの正義論ではなくて、最終的にサンデルに賛成みたいなのだよな。

 成功しているリベラル社会は、たとえそれが単一の宗教的協議で縛られた社会が与えるものより薄いビジョンであっても、独自の文化と良き生き方に対する理解を持っている。リベラルな社会を維持するために必要な価値観に関して、中立ではありえない。もし、社会がまとまろうとするのであれば、公共心、寛容さ、開かれた心、公共問題への積極的関心を優先させる必要がある。また、経済的に繁栄したいのであれば、イノベーション、起業家精神、リスクへの挑戦を尊重する必要がある。個人的な消費を最大化するだけにしか関心のない内向きな個人の社会は、社会とは呼べない。

本書P197

 でもさ、自民党の憲法改正っていうのは、サンデル的なおせっかいさがあるのだよな。安倍さんのときから「美しい日本」とかいって、こういう国、こういう社会が美しい、善だ、というのを国民に押し付けようという気まんまんなのだよな。僕はどっちかというと、ロールズの論に心情的には賛成なんだがな。と、この本の、フクヤマさんの主張に僕が全面的に賛成なわけではない。でも、分析と論の組み立ては見事だと思う。

 論の組み立てと言えば、長くなっちゃったから触れなかったけれど、アイデンティティ政治の誕生に至るプロセスでの、構造主義からポストモダン、特にフーコーの分析のあたりというのも、非常に面白かった。ニーチェに始まりフーコーに至る、価値相対主義、枠組み自体の破壊の運動からの批判理論が、アイデンティティ政治に着地するという分析は明解で見事。

 薄い読みやすい分かりやすいわりに、本質的かつ現実的な問題が扱われているので、本当にお薦めであります。著者の主張に賛成反対はあるとおもうけれど、リベラル左派の人も、保守主義者の人も、議論の見晴らしをよくするために、ぜひ読んでみてほしい一冊でした。


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