『テーゲベックのきれいな香り』 山﨑 修平 (著) なんか、小説を書く人、文学者界隈でかなり話題沸騰ぽいのだが、僕は詩が分からないので、詩を書く人の書いたこの何か小説のようなものを読んで、僕が詩を分からない理由が分かった感じがしたのである。

『テーゲベックのきれいな香り』 2022/12/21
山﨑 修平 (著)

Amazon内容紹介

「西暦 2028 年・東京。その地で「わたし」は「わたし」を語り出す――赤坂真理氏、黒瀬珂瀾氏、島田雅彦氏、高橋源一郎氏推薦。恐るべきデビュー小説の誕生。*装画=浅野忠信氏。
【推薦文】
◉高橋源一郎氏(作家)
知らない店に入った。見たことのない品物があった。手にとった。なんかいいな。買って食べた。 初めての味。ワクワクする。もしかしたら食べるものじゃないのかも。
でもいい。それでいい。すっかり忘れていた「新しい」があったから。
*推薦文タイトル=「新しい」があるよ
◉島田雅彦氏(作家)
絶滅の危機にあった詩人が無敵のゾンビとなり、全身から過剰な詩的ホルモンを分泌しつつ、 自発的服従者たちを革命に導く。
これは紛れもなく『地獄の季節』3・0である。
◉赤坂真理氏(作家)
困った。頭の中に、この小説の人物たちやフレーズたちが住み、勝手に話し、勝手に組み合わさる。
これは小説か? そんなことはどうでもいい!
これこそが、小説の体験だ!
◉黒瀬珂瀾氏(歌人)
あの日の街、人々の刻印、増幅するテクスト。空白に向けて記録されゆく意識が、清々しく溶解する。
そう、私たちは書き続け、読み続けることで「わたし」に結晶する。
様々な形式を自在に横断した〈超小説〉の、誕生。
*「あの日」に傍点

【内容紹介】
西暦2028年・東京。その地で「わたし」は語り出す――学生時代のこと、神戸の祖父母のこと、愛犬パッシュのこと、溺死したR、あるいはLのこと、虎子のこと、ハウザー三世のこと、愛すべき「ことば」たち……。
〈わたしは他者によって形成される。わたしの悲しみも、わたしの喜びも、他者によって形成された概念を追体験しているに過ぎない。であるなら、わたしがわたしを語るとき、わたしの知覚している範囲で書くことに何の意味があるのだ。(……)わたしはあくまでも反射装置、書いているのは他者であるのだから。〉(本文より)
 繰り返される「わたし」――わたしの「記憶」、わたしの「ことば」、わたしの「触覚」――その先に浮かび上がるのは、「わたし」という徹底的なる虚構。そして「わたし」が「今」を取り戻すとき、「わたし」の「五感」は消失し、「わたし」は「記号」となる。
 物語も、詩も、批評も、呪いも、祈りも、呻きですらも包括する「小説」という表現形態に、いま、気鋭の詩人が挑む、小説という「自由」。
 圧倒的「未知」な小説、誕生!」

さて、ここから僕の感想。


 長々としたAmazon内容紹介だが。つまりは、詩人が書いた、何かである。詩を普段書いている人が、何かを書くことを最終的に詩以外の何か、小説に着地させようという試みである。

 というか、僕は詩を読まない。これは、僕はクラシック音楽を聴かない、というのと同じようなことなのだが。

 僕は何についても、なんとなくそれらしい感想を書くこと語ることはしてしまうのだが、例えば、試験の問題として、学校の授業の教師からの質問として、何かについての批評や感想を求められればそれはそれなりに語ってしまう子供であったし、それは広告屋になってからの仕事でも、自分に興味の持てない企業や商品であったとしても、それらしい分析や感想やいいところを褒めることや、そういうことを人が納得するような金を払ってもいいと思うような形で文章にすることを職業としていたわけだが。

 しかし、隠居してからは本当に心が動いたものについて以外はものを書いたりしたくないなあ、という原則でやっているわけで。反田恭平氏のショパンコンクールの演奏についての感想文noteを書いたときにも、自分はショパンが好きなわけでもクラシック音楽が好きなわけでもないが反田恭平氏の演奏は心が動いたから長い感想を書いたわけで。

 僕は出来のよい趣味の合う小説や思想書や、ポップミュージックやスポーツの試合を見るとやたらと興奮したり感動したりするので、たいていそういうものについての感想文を書いて日々を過ごしているのだが。その感動や興奮度合いを「ある感想を書いてもいい基準」として考えた時に、クラシック音楽を聴いてそのように興奮することはほとんどないし、詩を読んでそのように興奮したり感動したりしたことも、60年生きて来てほとんどないということは、僕は詩に向いていないのだろうと思う。

 だから、この小説らしきものについて、わかったような分析を「書け」というお題を与えられていたならば、この本はなかなかにいろいろな切り口で分析したり批評したりしたくなる仕掛け満載なので、勇んでそういうことを書く人はいると思うのだが、そもそもが詩に向いていない私にとっては、そこまでの感動や興奮は起きなかったのである。

 ただ、この人はおそらく麻布中高の出身なのだろうか、それで尾山台あたりにすんでいるのだろうか、そして銀座で遊ぶ、中学の頃のデートから資生堂パーラーに出入りするような、麻布霞町から麻布台だの、そのあたりを主たる行動範囲とするような、東京に生まれ育ち、芦屋のお屋敷街に祖父母の家があり、というそういう生い立ちの中の思い出が色濃く書かれていく。僕は小説の「私」のような上流階級の生まれ育ちではないが、たまたま麻布中高のすぐ近くにある公務員官舎に中高六年間住んでいて、日比谷線と東横線で学芸大学にある高校に通い、東横線の学芸大学から多摩川園の間の方々で今の妻とデートを重ねたりした、大人になってから南青山界隈のマーケティング会社に席を借りていたりしたために、たまたま行動圏がここで描かれる東京とかなり重なるのである。僕にとっての中学生高校生時代の銀座は、当然資生堂パーラーなどであるはずはなく、それはソニービル地下一階にあった中古レコード店ハンターであったわけだが。

 そうそう、何より驚いたのは、この作者は1984年生まれで、40代の中年男性としてこの小説では登場するのだが(わずかに近未来が舞台である。)、私よりも私の子供に近い年齢であることにびっくりしてしまったのである。(私の長男は1988年生まれ。)そうか、そういう世代が、中年男性として若い頃を回顧するような小説を書くほどの年齢になっているのか。

 だから、小説中の「私」の回顧する東京の思い出と、僕の東京の思い出は、場所は重なるが、時間軸がちょいとズレているのである。それにしても、これだけ東京の固有の空間の思い出に依存した小説、というのは、これはその土地を知っている人には伝わるものが大きいが、知らなければそれは「記号」でしかないよなあ。地名と言うのは。

 芦屋の祖母の思い出は阪神淡路の震災とつながっている。たまたま読んでいたのが、それを思い出すテレビニュースが多く流れる時期だったのも、不思議な偶然である。

 そうなんだな、僕が詩に向いていないのは、詩が言葉を通じて読者と作ろうとする回路が、スノッブなようでセンチメンタル。というか、情緒的揺れを介してしかつながれないのに、それを「情緒だ」と思う読者のことを「センチメンタル」につながろうとする読者のことを、「そんなもんじゃねえ」と見下しているような、そういう詩人のめんどくさいメンタリティが嫌いだからなんだと思うな。犬やばあさんのことを繰り返すというのは、だってそういう意味でずるいじゃん。


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